第157回:平野啓一郎さん

作家の読書道 第157回:平野啓一郎さん

ロマンティック三部作と呼ばれている初期三作品を発表した第一期、短篇集を発表した第二期、「分人主義」を打ち出した第三期、そして短篇集『透明な迷宮』から始まる第四期。変化し続ける作家、平野啓一郎さんは、読書の傾向にも変遷が。ご自身の著作にも影響を与えた作品についてなど、今改めてその読書遍歴をおうかがいしました。

その2「高校時代の読書」 (2/6)

――高校生になってからはどのようなものを読んだのですか。

平野:高校生になってからはフランス文学、特に象徴派の詩人が好きになってボードレールやランボーを読みましたし、大江健三郎さんの作品を読むようになりました。

――ボードレールやランボーは、どこに惹かれたのですか。

平野:言葉に感心があったんです。僕が読んでいたのはほとんど岩波文庫だったんですね、安かったから。で、僕が読んでいた頃の翻訳ってボードレールなら鈴木信太郎訳、ランボーだったら小林秀雄訳で、戦前の翻訳だったんです。すごく古い。象徴派が持っていた耽美性を、彼らは漢語で表現しようとしていて、それがグラフィック的な意味でも、リズム的にもすごく美的な世界に見えたんです。ボードレールにしてもランボーにしても、読んでいて苦しくなるようなメランコリックな感情だとか、一般的にはみんなが全然美しいと思わないようなものを、「言葉の錬金術」で世にも美しい作品に仕上げている。そのコントラストが『金閣寺』を読んで感動した時からずっと続いている僕の関心なんです。

――言葉の力で価値を反転させてしまうような...。

平野:そうですね。単に耽美的な小説や詩はあまり興味がないんですよね。美しい世界が好きで、美しい世界を謳っているだけでは退屈です。でもボードレールは道端に落ちている腐った肉でさえ世にも美しく謳う。彼の中には自傷的な、自己否定的な感情があって、それを普通の悩める若者が書くと陰々滅々たる話になりそうですが、彼はすごく輝かしい言葉でそれを謳う。当時、そこに意味ってものを感じたんですよね、漠然と。もし、真善美という三位一体があるなら、美をテコにして真と善をひっくり返せるんじゃないかと。後から思うとそれが文学の力というんでしょうか。

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――大江さんはどの作品を。

平野:やっぱり文庫で初期作品から読み始めました。とにかく、圧倒されました。途轍もなくすごい短編の数々が、あっという間に書いたんじゃないかって感じがするんですよね。『万延元年のフットボール』は大学に入ってから読みましたが、なんかこう、神経がビリビリビリビリッと震えるような緊迫感で、忘れられない読書体験ですね。三島には憧れましたけれど、大江さんの小説を読むと、ちょっと天才すぎて嫌な気持ちになっていましたね。

――嫌な気持ち、ですか。

平野:「こういう風には、とてもじゃないけど書けない」と。大江さんがデビューされた時、同時代の文学青年たちは本当に嫌だったと思いますね。存在して書いているだけで、その時代に対して、ある種のプレッシャーがある。大江さんの作品を読むと感じます。それは初期のものだけでなく今のものを読んでも。

――ということは、高校生くらいの頃からご自身も小説を書きたいなと思い始めたのですか。

平野:17歳の時に最初の80枚の小説を書きました。そうすると三島がラディゲに憧れていたのと同じで、人が何歳でどういう作品を書いていたかが、気になるようになりました。ランボーを読むと「17歳でこんなこと書いているのか」と、恐れ多いですけれど自分と比べてがっかりしたり。そういうなかでやはり、三島が『仮面の告白』を書いたのが24歳とか、大江さんが「飼育」を書いたのが23歳とか。大学生の頃から「小説家になりたい」と思い始めたんですが、こういう年齢で、自分の才能を証明するようなものを書かないといけないという考えには気が滅入りました。

――17歳の時に書いた80枚のものは、どんな内容だったのですか。

平野:それはもう、はっきりとトーマス・マンの『トニオ・クレーゲル』とか『道化者』といった中篇、短篇に影響を受けものでした。芸術に憧れつつも日常的な生活に憧れるような中学生だか高校生だかの話ですよ。で、三島とかドストエフスキーとかも読んでいたから、その意見に対立するような人物が出てきて議論があったりとか。半分自己投影もしつつ、話自体はフィクションでした。なんか、今の小説の書き方と結構似ていますね。まあ、その時以来20年以上読み返していないからあまり憶えていないんですが。どこかにまだとってあると思いますが、発表するつもりはないです。

――実際、芸術を選ぶか市民生活を選ぶかの将来の悩みはあったのですか。

平野:高校の時に小説を書いたのは、小説家になりたいというよりも、小説を書きたい、という感じだったんです。とにかく書きたくて書いたら、なんかすっきりしたんですよね。それで満足したというか。今でもひとつ作品を書くとしばらくは虚脱感があるんですが、そういう感じがありました。よくその原稿を新人賞に応募しようとは考えなかったのかと言われますが、田舎でしたし文芸誌を読んでいたわけでもないし、そういう発想はありませんでした。で、これもよく言っている話なんですけれど、僕の姉と、当時の国語の先生と、今、オーケストラでファゴットを吹いている友達が同級生だったので、その3人に読んでもらったんです。そうしたらみんな、なんかこう、全然酷評もしないけれど、褒めもせず(笑)。若者が一生懸命書いた、その気持ちを傷つけてはいけないっていうような、温かい反応だったんですよね。それはもうがっかりして。先生の感想の中にテーマが「重すぎる」とあって。こっちは重たいものを抱えているから書いていたわけですが。まあでも、それですっきりした頃に大学受験の時期になって、「もういいや」と思って「勉強して大学に行こう」と思いました。ただ、自分が文学に関心があって小説も書いたりしているのに文学部にいって研究者になるのは、自分が辛いし、ろくな研究者にならないだろうと思ったんです。全然客観的に作品を読めませんでしたから、当時は。これで文学部にいくと変なルサンチマンを抱えたひどい人間になるなと思って。なるだけ文学部から縁遠い学部にいって、まっとうなサラリーマンになろうと思ったんですよ。で、家系が、先ほども言ったように公務員とか医者とか歯医者とかの家系だったので親や親戚に「医学か歯学部に行け」と言われたんですけれど、理系はどうしても僕は性に合わなかった。理科とか苦手でしたから。で、漠然と文系に行こうと思っていたら「とりあえず法学部に行っておけば何か潰しがきくだろう」と言われて、法学部にしました。

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