第157回:平野啓一郎さん

作家の読書道 第157回:平野啓一郎さん

ロマンティック三部作と呼ばれている初期三作品を発表した第一期、短篇集を発表した第二期、「分人主義」を打ち出した第三期、そして短篇集『透明な迷宮』から始まる第四期。変化し続ける作家、平野啓一郎さんは、読書の傾向にも変遷が。ご自身の著作にも影響を与えた作品についてなど、今改めてその読書遍歴をおうかがいしました。

その5「作風の変遷と読書」 (5/6)

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  • 『かたちだけの愛 (中公文庫)』
    平野 啓一郎
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――『日蝕』でデビューを果たした後は、どういうものを書いていこうと考えていたのですか。

平野:3作目までは決めていました。二冊目の『一月物語』は『日蝕』の前に書いていたんです。編集部から「なにか書き溜めているものはなにか」と訊かれて、いくつかあったんだけれども『一月物語』の原型が一番どうにかなりそうだったので、それを全面的に書き換えて完成させました。その後『葬送』を書きました。ショパンとドラクロワの話は書きたいと思っていたんです。葬式の場面から始まりますが、その時に各登場人物の胸に去来する想いを話にしようとしたら、構想が膨らんでしまって、長くなってしまって。

――なぜショパンとドラクロワの話を書こうと思ったのでしょう。ジョルジュ・サンドも重要な人物です。

平野:ショパンが好きだったんです。高校時代読んだ、カシミール・ウィエルジンスキというポーランドの詩人が書いたショパンの伝記がすごく面白かったんですね。今ではその本はショパンの贋作と言われている手紙をかなり使用していて信頼性が低いと言われていますが。アルトゥール・ルービンシュタインの立派な序文がついています。ちょうどバルザックやフローベールといったフランス文学を読み始めた時期だったので、自分の中でもリンクしたんですね。で、また三島由紀夫が出てきますが、三島はひと頃ドラクロワの日記を座右の書としていたとエッセイに書いてあるんです。そんないいこと言っているのかと読んでみたらひどい抄訳で、でも断片的にいいことが書いてある。ボードレールもドラクロワがすごく好きで「あんなに自分に多くのことを教えてくれた人はいない、あんなに自分を愛してくれた人はいない」って、ものすごく感動的な追悼文を書いているんです。それで「好きだった人が好きな人は好き」という僕の理屈で、後からフランス語の原文で日記を読んだら翻訳は誤訳だらけだったと分かりました。でもこの日記を原文で読んだことで、すごく影響を受けました。ものすごく感動しましたし、ボードレールの美術批評がいかにドラクロワの影響を受けているのかも分かりましたし。僕、よく美術批評を頼まれてやっていますけれど、それはドラクロワの日記のおかげですね。絵を見ることの基礎になっています。
あとは、ジョルジュ・サンドもショパンとの関連で読まなきゃいけない人でした。最近やっと邦訳が増えてきましたけれど、昔は小説の翻訳がちょっとあるだけで、日記や手紙は全然訳されていなかった。で、それもフランスから本を買ってきて原文で読みました。ショパンの伝記を読んでいると謎のような箇所が結構あるけれど、サンドの書簡集で関係するところを読んだら詳しく出てくる。ショパンを書くためにはこっちを読まなきゃいけないなと思って。大学時代は全然フランス語を勉強しませんでしたけれど、『葬送』のために勉強しなおしました。

――『日蝕』『一月物語』『葬送』が初期の三部作といわれていますね。

平野:簡略化して話すと、自分はすごくロマン主義的な人間だなと思っていて、その自分自身の問題を整理するつもりでした。それで、最初は書きたいものを書くべきだと思って『葬送』までを書きました。中世末期から日本の近代化の時と、ヨーロッパの近代化の話しを書けば、今の時代というものが見えてくると思いましたし。それから現代をテーマに書こうと思って『高瀬川』以降に取り組み始めました。大きなストラクチャを備えた長いものを書くには時代があまりにも混迷の時を迎えていたので、しばらくは短篇を書きながら探っていくことにしたんです。それで短篇集を3作も続けて出すことになりました。今の時代を考える上で短篇を書くなかで、方法論的にも文学以外の、現代アートでやっているようなアプローチがどこまで小説としてできるのかを実験的にやったものもありますし、オーセンティックな書き方をしたものもあります。「分人」とかテクノロジーやメディアの話とか、その後僕がいろいろ言っていることはその時書いた短篇のアイデアの延長です。

――『高瀬川』『滴り落ちる時計たちの波紋』『あなたが、いなかった、あなた』が短篇集3冊ですね。視覚的に工夫していたり、短篇が回文のようになっていたりして、その試みに心躍らせながら読みました。これが第2期。その後の第3期の『決壊』『ドーン』『かたちだけの愛』では、小説の書き方もまた変わりましたよね。

平野:小説も時代によって変わっていかなきゃいけないと思うんですよね。読みやすいということは、人間の日常生活の認識と密接結びついているということだな、と考え始めていたんですね。主語があって述語があるという文章って構造的に認知のプロセスと合致しているんだと思いますが、物語でも、人間が無理なく認知できる話の順番や語順があるだろうなと考えました。そういうアプローチで自分の小説を整理するようになって、展開の仕方も変わっていきましたね。あとは、読者の時間感覚が変わっていったことは感じています。小説はやはり時間芸術ですから、読者の時間感覚が変わるとそれに適応せざるを得ない。今はみんな忙しいですし、余暇が断片化されている。まあ、飽きっぽいですよね。映画の2時間も我慢できずに途中で携帯をいじったりする時代。やっぱり、文学を読まない読者が読んで「だるいな」と感じるってことをあまり軽視しちゃいけないですよね。単純にその声に従えばいいという訳ではないけれども、でも考えるべきだとは思います。まあ、あまり時代に翻弄されすぎても駄目だし、そのバランス感覚は難しいですけれど。そういう意味でいうと、ウエルベックなんかは深い内容を扱っていますけれど、リーダブルといえばリーダブルなんですよね。
文学って、長い歴史を見れば、基本的にはリーダブルな方向に流れていくんですよね。漢字だけで書いていたのが仮名まじりになるとか、言文一致とか。その時代の人にとってはその時ちょっと世俗的になったように見えるかもしれないけれど、大きな流れの中では必然的なこと。その傾向の中で自分も小説を書いているということは、僕はやっぱり否定できないと思うんですよね。

――この時期に小説内でも打ち出した「分人」という概念にも触れておかねばならないと思うのですが。人には〈本当の自分〉があるわけでなく、相手ごとにいろんな自分を持っているという考え方ですよね。

平野:小説で表現しようとしたというよりも、小説を通じてずっと考えてきたことなんですね。抽象的な意味では『日蝕』の頃からそうでした。具体的には「最後の変身」という小説のあたりから、本当の自分とかりそめの自分みたいなことについては、自分のアイデンティティの問題として考えていたんです。『顔のない裸体たち』でネット上の自分と本当の自分、社会的な自分などのバリエーションについて考えましたが、『決壊』を書く頃には個人という概念が限界にきていると感じていたんですよね。そういう個人という概念を使いながら小説を書いている以上は、そこより先に進めない。それで『ドーン』で「分人」という概念に至りました。たとえば、僕はハンナ・アーレントに結構影響を受けているんですが、彼女は主体というものをひとつにしなくて、自己内対話を認めている。他者との対話も大事だし、自分の中での対話も必要だという考え方をしているんです。

――その後『空白を満たしなさい』があって、最新作の短篇集『透明な迷宮』は、また作家として違う時期にきたという感覚ですか。

平野:「分人主義」を説明するような書き方はとりあえず『空白を満たしなさい』で終わっていますが、僕のなかではもう後戻りできない変化なので、基本的な人間観はその延長上でしか考えられないようになっています。実際に文学って、「分人」という言葉を使ったら簡単に説明できることがたくさんあるんですよね、過去の作品でも。でも『かたちだけの愛』で「分人」という言葉を使わずに分人主義を説明しようとして不鮮明になったところがあるので、この先どういう風にこの言葉を使っていくのかは悩む部分ではあります。自分の中ではまあ、第3期に『空白を満たしなさい』までの長篇を書いて、『透明な迷宮』以降が第4期だと思っています。今は3~400枚のボリュームのものを書いていきたいなと思っています。
もうひとつ思っているのは、今なんか、みんな疲れているな、ということ。「もう活字見たくない」と言いたくなる気持ちもわかります。その疲れというのは一過性のものじゃないように思います。コンピュータの性能が進んで生活のテンポ自体が上っていることに由来すると思うので、人間は今後、未来永劫疲れているんじゃないかって気がするんです。だから、小説を読んでいる時間は、そこからの解放感、つかの間の非現実感があるといいなと思って。「現実の世界をどう生きたらいいのか」というのは分人主義で僕なりに綿密に考えていったので、今度は非現実の世界と現実のバランスを取るという作品を、しばらくは書いていこうと思っています。

――『透明な迷宮』は先の展開が分からない、自由なイマジネーションが広がっていくような短篇ばかりで、でもやはり深みがあって、とても楽しく拝読しました。

平野:自分も書いていて楽しくて、読者も読んで面白い、みたいなものをしばらくは書いていこうと思っています。まあ、もちろん文学ですから内容的にしっかりしたものがないと意味はないんですけれど、まあ、そういうものを書きたいと思っています。

――ご自身の中で純文学とエンターテインメントについてはどう意識されていますか。

平野:概念的に説明しようとすると難しいし、ハイブリッド化が進んでいると思います。エンタメは知っていることをうまく組み合わせて作られる世界で、純文学は、知らないことを書いていくジャンルなんじゃないかなと思います。エンタメは既存の価値観を巧みに組みあわせてプロットを作ってハラハラドキドキさせるような、パズルのようなところがある。文学の場合は既成概念を解体していく中で、もう一回新しいものが生み出されていく体験が重要なので。ただ、要素としてのエンターテインメント的なものを純文学の中で活かし得るってことは分かります。伏線を張って読者の「知りたい」という欲求に訴えるとか。文学は「知りたい」という欲求でもあるし。
エンターテインメントを貶めるつもりもないし「面白い」というのはすごいことだと思うんですが、僕はエンタメを読まないんです。ミステリなんかも熱中して読んだことがない。僕の中の何かが、エンタメとエンタメじゃないものを知っている。でも、それを説明しようとするとすごく難しいです。
重なったところで作品を書いている人もいますし、僕の作品だって程度としては純文学性が強いものとかエンターテインメント性が強いものとか、割合という意味ではありますよね、たぶん。でも、よく純文学とエンタメを分けているのは日本人だけと言う人もいますけれど、それは嘘で、フランス人だってミステリと純文学は完全に分かれているし、読者も分かれている。両者にはなにか違いがあるんでしょうね。そのふたつをはっきり区別して書いている人もいますが、ほとんどの人はその両極端な概念の、真ん中あたりで小説を書いているようにも思います。

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