第157回:平野啓一郎さん

作家の読書道 第157回:平野啓一郎さん

ロマンティック三部作と呼ばれている初期三作品を発表した第一期、短篇集を発表した第二期、「分人主義」を打ち出した第三期、そして短篇集『透明な迷宮』から始まる第四期。変化し続ける作家、平野啓一郎さんは、読書の傾向にも変遷が。ご自身の著作にも影響を与えた作品についてなど、今改めてその読書遍歴をおうかがいしました。

その4「京大在学中に作家デビュー」 (4/6)

――デビュー作となる『日蝕』は、かなり時間をかけて構想を練っていったんですね。

平野:本を読んでいた期間は結構長くて、具体的に書こうと思って準備して書き終わるまでは大体1年くらいですね。半年を構想練って調べることに使って、残りの半年で書きました。本当に学校に行っていませんでしたから、専業作家のように書くことに時間を使っていました。まあ、バイトやバンドはやっていましたが。学校は行かなかったです。小野先生の授業とゼミだけは行っていました。

――手書きですか、ワープロですか。見たことのない漢字がものすごくたくさん出てきましたよね。

平野:ワープロです。東芝ルポを使っていたんですけれど、作字機能があるんですよね。それで結構作字しました。デビューした時に「ワープロだからあんな難しい文体で書けるんだ」と批判されたりしたんですけれど、「じゃあワープロであの漢字を出してみろ」と思っていました。むしろワープロで漢字変換できないからすごく苦労していたのに。今だったら「そこを空けておいて後で手書きで埋めればいいかな」って思うんですけれど、当時は原稿を出版社の人に読んでもらおうと思っていたので、やはりビシッと活字でプリントアウトされたものじゃないと駄目だろうなと思っていました。

――新人賞に応募するのではなく、出版社に持ち込むと最初から決めていたのはどうしてですか。結果的に『新潮』に一挙掲載されてたいへん話題になりましたが。

平野:『新潮』の当時の編集長の前田さんに送ったのは、『三田文学』で当時の文芸誌の編集長4人が登場して「我々は今こういう新人を待っている」と語る特集が組まれていたので読んでみて、前田さんが言っていることにピンときたからなんですよね。「この人は自分の小説を面白がってくれるんじゃないか」って思いました。前田さんは「文学は新人の小説にあらず」とか「やっぱり年月を積んだベテランが書くものじゃないか」みたいなことを言っていたんですよね。それはなにか面白かった。後から考えると前田さんは自分でもフィールドワークをするような、文化人類学とかに関心のある人で、それで『日蝕』をものすごく面白がってくれたんですね。

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――卒業後もしばらく京都にお住まいでしたよね。

平野:学生時代を含めて10年ほど京都にいました。学生時代のうちに読んだものでは、森鴎外も好きでした。いろんなものを書いていますけれど、小説は学生時代に全部読みました。それが僕の中では大きな財産になっていますね。
それまで大学の政治思想史の授業やエリアーデの宗教史が好きでしたけれど、やっぱり作家になるなら漱石、鴎外、芥川、荷風、谷崎くらいまでは全部読んでなきゃいけない気がしたんです。漱石はあまり好きじゃなかったけれど、鴎外はハマりました。最初は渋い世界だし「読めるかな」という気分だったんですよね。でもちくま文庫で1巻を読み、2巻を読み...と、読んでいくうちにだんだんのめり込んでいきました。文体にも関心があったから、途中から図書館で岩波書店から出ている鴎外全集を借りてきてそれを参照しながら読みました。すごく影響を受けましたね。今になってもうちょっと、彼の思想的な部分とかにも理解が進み始めていますけれど、読み始めた時はやはり文体や作品の表情みたいなものが好きでした。

――鴎外の思想的なところといいますと。

平野:彼は個人の限界ということを知っていた人ですよね。どうしても小説世界というと、ヒロイックな主人公がいろんな困難に立ち向かって人生を切り開こうとする。まあ、文学の場合は大体それが挫折するんですけれどね。『パルムの僧院』や『赤と黒』みたいに。鴎外の場合は、主人公自身の努力や決断がほとんど報いられなくて、運命だとか偶然だとか無意識だとか官僚制度とか武家世界のしきたりだとかに人生を翻弄されていく。そこに深みがあるなと思います。特に近代が始まって「個」というものが確立されていくべきだという時代に、既に「個」というものの限界を考え始めている人がいたということはすごいと思いますね。だから、鴎外の小説を読んでいると、しょうがないかな、という感じがするんですよね。それが鴎外文学に僕が見出した文学のひとつの効能です。鴎外の文学には人間に対する優しさがあります。

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