第157回:平野啓一郎さん

作家の読書道 第157回:平野啓一郎さん

ロマンティック三部作と呼ばれている初期三作品を発表した第一期、短篇集を発表した第二期、「分人主義」を打ち出した第三期、そして短篇集『透明な迷宮』から始まる第四期。変化し続ける作家、平野啓一郎さんは、読書の傾向にも変遷が。ご自身の著作にも影響を与えた作品についてなど、今改めてその読書遍歴をおうかがいしました。

その3「大学時代の読書生活」 (3/6)

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  • 『エリアーデ著作集 第9巻 ヨーガ 1』
    ミルチャ・エリアーデ
    せりか書房
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  • 『神学大全I (中公クラシックス)』
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    中央公論新社
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――そして京都大学に進学し、京都に住まいを移してからの読書生活といいますと。

平野:そういう経緯だったので、大学に入学した時に僕、下宿に本を1冊も持っていかなかったんですよ。「もう本読むの辞めよう」と思って。でも幸か不幸か、京大って場所が、あまりにも暇で。出なきゃいけない授業と出なくてもいい授業があるってことを知ってしまったあたりから僕の生活は崩壊していきました。卒業するまで僕、ほとんど目覚まし時計をかけたことがなかったんですよ。眠くなったら寝て、起きたくなったら起きるという獣のような生活をしていました。ただお金もないですし、京都は遊ぶところもない。寺とか神社とかは今ならいいなと思うけれど、その頃は行っても何とも思いませんでしたし。で、やっぱり気がついたら本を読んでいたんですよね。京大の生協にCDを買いにいくと、隣が書店で、地元の本屋だとなかなか見ないような本がたくさん並んでいて、しかもセレクトされていて。僕は現代思想の本とかはまったく読んでいなくて、はじめてポストモダニズムが流行っていると知りましたし、今でも憶えているのは三島由紀夫の本によく出てきた澁澤龍彦の全集が河出書房から刊行されていて、文庫もどんどん出始めていたんですよね。大学に来るとこういう本も簡単に手に入るんだなと思いました。京大生が「シブタツの全集が」とか言っていて「あ、澁澤龍彦ってシブタツって略すのか」って思ったり。その生協の本屋で禁欲がだんだん挫けていきました。

――それで澁澤龍彦を読むようになり...。

平野:そうですね。それからミルチャ・エリアーデという宗教学者がすごく好きになりました。せりか書房から『エリアーデ著作集』が出ていたんですよね。当時刊行されていたエリアーデの本はせりかの選集も含めて大体全部読んで、すごく影響を受けました。
ユングとかエリアーデって、読んでいるといろんな話を思いつくんですよ。神話はやっぱり、イマジネーションの宝庫ですから。ユングはオカルトだって批判されてたけど、ユングの中にオカルト的なものがあるのは分かり切ったことで、別にこっちも臨床的なものを期待して読んでたわけではないですからね。むしろ。マイスター・エックハルトにまで遡るドイツ神秘主義の系譜のように感じていました。宗教学とか文化人類学とか、そっちのほうの本は面白かったですね。 エリアーデは中世史や宗教史、比較宗教学の先生なんですけれど、もともとジョルダーノ・ブルーノとか、中世からルネッサンスにかけての思想が専門で、後に神秘主義やその周辺に関心を持つようになるんですね。古井由吉さんが『神秘の人びと』で取り上げていますが、マルティン・ブーバーという人の『忘我の告白』という法政大学出版から出ている本があって、そのなかの神秘家たちの神秘体験の声が、すごく自分の中に響いてきたんですね。
その一方で、三島の影響でバタイユを読んだら、やっぱり神秘主義とエロティシズムとの結びつきみたいな話になっていて。その辺から『日蝕』の構想に繋がっていくような関心が芽生えていきました。ただ、それは小説を書こうとして読んでいたわけではなかったです。単に何かに興味があって図書館に行くとトマス・アクィナスの『神学大全』がわーっと揃っていたから読んだりしていました。当時は途中までしか出ていませんでしたけれど。キリスト教にもずっと関心があったのですが、ちょうど当時上智大学と平凡社が組んで『中世思想原典集成』っていう、すごく分厚い神学のシリーズの翻訳が出だしたので、それも興味のある巻から読み始めて。大学に入ってから読書は広がりましたが、専門家ではないので無手勝流というか、思いつくままに好きなものを読んでいった感じです。

――でも、自分の中に響くものがはっきりと分かっていますよね。まあ、それ以外にもいろんな本に当たるなかで分かっていったのだと思いますが。

平野:そうですね。90年代の雰囲気もあると思います。京都に行って1年目に阪神大震災があって、その春休みに九州に帰省しようと思っても姫路から京都までの新幹線が通じていなくて。しょうがないから船で一晩かけて帰って、それが大変だったら飛行機で大阪空港に戻ることにしたら、機内でオウム事件の放送をやっていたんです。当時はノストラダムスの大予言もありましたから、そういうオカルト的なものも含めて、世紀末だなって感じが強くしてました。鬱屈感もあったし、自分たちの上の世代は「小説なんか終わった」といった話ばかりしているし、冷戦も終わって資本主義化された世界が延々続くのっぺりした世の中になっていくって、あの頃みんな言っていたんですね。だけれども一大学生としてそういうメッセージばかり聞かされると本当に憂鬱で。俺は何のために生まれてきたんだろう、という気持ちがすごくあった。中世末期の宗教史を読んでいると、キリスト教って物質的な欲望よりも霊的な生活ってものを重視するわけですが、ペストや戦争など悲惨なことがいっぱい起こると、世の中が生きるに値しないならさっさと自殺して神の国に行ったほうがいいといった、過激な異端思想も出てくるんですね。自分の体を鞭で打ち続けて、肉体的な生活を完全に否定して、霊的な生活のみに生きる、といった。キリスト教の聖ドミニクスとか、ああいう人たちが悩んだのは、一方で霊的な生活に務めつつ、現実の世界を完全に否定してしまうこともできないということです。その間に立って引き裂かれながら、やっぱりこの現実世界を生きなければいけないということを、どういう風に神学的に説得できるのかという問題意識は、90年代後半に自分が感じていたものと重なる気がしたんですね。世の中にうんざりしているんだけれど、世の中以外に生きる場所がない。
もう一方で、大学で、ハイデガーが専門の小野紀明先生の政治思想史の講義にものすごく影響を受けたんです。ソクラテス以前の哲学からポストモダンに至るまで、ヨーロッパ人がどう考えてきたかをずっと講義されていて。そのなかでデビュー作の構想がだんだんまとまっていきました。

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