第162回:木下昌輝さん

作家の読書道 第162回:木下昌輝さん

デビュー単行本『宇喜多の捨て嫁』がいきなり直木賞の候補となり、新しい歴史エンターテインメントの書き手として注目される木下昌輝さん。第二作の『人魚ノ肉』は、幕末の京都で新撰組の面々がなんと化け物になってしまうというホラーテイストの異色連作集。その発想や文章力、構成力はどんな読書生活のなかで培われたものなのか? 

その3「文学学校に通う」 (3/6)

――ハウスメーカーに就職して、3、4年で辞めたんですね。

木下:そうですね。とりあえず頑張って4年半やって、もう27、8歳で、このままじゃ夢を追いかけられへん。けど、自分は小説書けないのは分かってたんですよ。物語をどう作っていいか分からなかったんで。だからとりあえず、ライターになろうと思いました。分かりやすい文章は物語を綴るには絶対に必要かなって、一応ライターの学校にも1年くらい行きました。

――ライターのための学校があるんですか。

木下:そうです。僕が行ったのはそれほど大きなところではなくて、編プロに勤めていた人が辞めて老後の余生でやっていました。就職先は紹介してくれたりはしなかったんですけれど、面白かったですね。「ライターの仕事は10聞いて1を書く」とか「とりあえず野次馬根性を持て」とか、そういう本質的なことをいろいろ教えてもらって。文章の構成も、「起承転結だけじゃなくて最初に結論を言うスタイルとか、様々なものがある」とか、重要なことをたくさん教わりました。教え方がうまかったんですね。書いた文章がうまくない時は「何を書きたかったのか」を僕に言わせるんですけれど、引き出し方がうまくて、話していると急に「ああ、それそれ。それをそのまま書いたらいいやんけ」と言ってくれたりして。ここで文章の基礎が学べた気がします。ライターの文章だけではなく、相手に伝えるという意味では、小説の基礎としての文章もですね。

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――ライターの仕事はどういう分野でやっていたんですか。

木下:僕は情報誌などの飲食店の取材が多かったですね。家族のお出かけスポットとか。関西やったんで、『関西ウォーカー』さんや京阪神エルマガジン社の『Meets Regional』さんとか、『エルマガジン』の別冊とか。地下鉄などのフリーペーパーでも書きました。それとウェブですね。ライターの仕事も楽しかったので、あまり小説を書いていなくて。

――本格的に小説を書きはじめたのはいつですか。

木下:その頃、高校のバレー部の仲間とタッチフットというスポーツをやっていたんです。アメリカンフットボールの、タックルのかわりにタッチをするという。その全国大会もあるので、そっちばかり頑張っていました。でもある時ヘルニアになってしまいまして、走れなくなって。ちょうど仕事も減って「あれ、俺、このままいったら食えへんな」となって。食えへんし、タッチフットできへんし、だからちょっと小説を書いてみようと思いました。その前から小説の書き方が分かってきていて、ひとつ60枚くらいのものを書いたんです。自分の子供時代の話とか、友達の話とかを入れて。やってみたら書けたんで、ちょっと長いものもいけるんじゃないかと。それで、歴史ファンタジーを書きました。織田信長が『三国志』の時代にタイムスリップした話です。きっかけは東村アキコさんの漫画『ひまわりっ』だったんです。そのなかで『三国志』好きの腐女子が「三国志学園」という漫画を描いてメジャーにのしあがるっていうストーリーがあって、それを読んで「あ、自分の引き出しからこういうものを作るのが商業出版なんだな」と勝手に思ったんです。僕も『三国志』は好きだったし、自分が木下版「三国志学園」をやるとしたらどうなるかな、と思って、それで織田信長がタイムスリップする話を書いたんです。400枚くらいでした。書き上げた時に、それが面白いのかどうかまったく分からなかったので、どうしようと思って。いろいろ見ていたら大阪文学学校というのがあって、みんなが合評しているというのを知って、家から近いし行ってみることにしました。

――新人賞に応募しようとは思わなかったんですか。

木下:その時は「僕がそんなすごいものを書けるはずがない」という思いが強くて。それで『公募ガイド』を見ていたら書いた小説を添削します、というのがあったので、そこには送ったんですが添削が返ってきても怖くて半年くらい見られなかったんです。それじゃいかんなと思っていたら大阪文学学校を見つけたので行くことにしました。行ったら強制的に見せなくてはいけないので。でも自分の番が回ってきた時は、全然違う話を書きました。「タイトルさん」という、テレビ職人の話です。昔、テレビのテロップの文字は手書きだったので、その職人の話ですね。そういう人の講演を聴いたことがあったんです。そしたら、みんなめっちゃ褒めてくれて。その時のチューター(講師)が、芥川賞作家の玄月さんを教えた人なんですけれど「君は直木賞を獲る」と言ってくれたんです。「玄月は芥川賞を獲ったから、君は文校初の直木賞を獲れるで」って。まあ、それは後に朝井まかてさんが獲りましたけど(笑)。

――あ、朝井さんもその学校に。

木下:そうです。でもその時は調子に乗りました。ライターの仕事も先細りになると分かっていたので、1、2年本腰をいれて頑張って書いて投稿してみようと思いました。「タイトルさん」は賞は獲れなかったんですけれど、オール讀物新人賞の二次まで残って、その次の年に「宇喜多の捨て嫁」で受賞できたんです。授賞式に行ったら、みなさん「タイトルさん」も憶えていてくださって。

――ちなみに添削に出した原稿は、半年後に開けたらどうたったんですか。

木下:ちゃんと褒めてくれていました。「文章もうまいし、オチはこういうほうがいいと思うけれど、起承転結の転の盛り上がりの部分はいい」というような。

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