第177回:竹宮ゆゆこさん

作家の読書道 第177回:竹宮ゆゆこさん

『とらドラ!』『ゴールデンタイム』などのライトノベル作品で人気を集め、5月に〈新潮文庫nex〉から刊行された『砕け散るところを見せてあげる』も大変評判となった竹宮ゆゆこさん。無力ながらも懸命に前に進もうとする若者たちの姿を時にコミカルに、時に切なく描き出す作風は、どんな読書体験から生まれたのでしょう。インタビュー中に、突如気づきを得た様子も含めてお届けします。

その4「読むこと書くことがデトックスに」 (4/6)

――本を読むことがデトックスになったんですね。

竹宮:それで解毒を進めながら、自分でも書き始めたのが、大学院にいた頃です。私、大学を卒業した後、大学院に2年間通ったんです。氷河期だったので、就職活動をしてもこのご時世で私のことを採ってくれる会社なんて絶対にない、と思って。
私にとってものすごく解毒になったのが、自分が書いたものがウケるというのが分かったことでした。小学校低学年のプチ成功体験がよみがえったんですよね。何をしてもメインストリームに乗るのはもう手遅れ、ちょっとサブカル的なものにかぶれても駄目で、八方ふさがり的に解毒を進めながらも、そんな自分を結構包み隠さずに自分の感性で自分が書きたいことを書いていると、結構最終選考に残ったりしたんです。
学部の卒論の時はワープロだったんですけれど、大学院の修士論文の時にはパソコンを使い始めていて、タイピングがうまくなりたいという気持ちもあって、修論を書く傍らで小説を書いていたんです。小さい頃にごっこ遊びをしていた後も、ノートに設定を書いて楽しむタイプだったので、小説もとにかく楽しく書きました。どちらが先か忘れてしまいましたが、新書館の「小説WINGS」の新人賞と、スニーカー大賞に応募したらそれが最終選考に残って、デトックスされたんですよね。

――それまで小説家になりたいと思ったことはなかったのですか。

竹宮:小さい時は夢として「漫画家になりたーい」「小説とかも書いてみたーい」と思いながらも、それを公式な場で言っちゃいけないと薄々分かっていて、正式に夢を発表する場では「新聞記者になりたいです」などと、もう少し常識的なことを言っていた気がします。もし「漫画家」や「小説家」と言ったら「またそんな夢ばかり見て」と絶対言われるから。

――大学院を出た後はどうされたんですか。

竹宮:で、「小説WING」で最終選考に残った小説を、ゲーム会社のシナリオライターの選考試験に応募したんです。シナリオライターなので普通はシナリオを応募するんですけれど、小説でも受けつけている会社があったんです。そうしたら、サクッと採用されたんですよ。今思えば社員ではなくてアルバイトのようなものでしたが。
その時、初めて選ばれたんです。「私、ここにいていいんだ」っていう選ばれ体験。ずっと疎外感じゃないですけれど、メインではないと感じていたのに、小説を書くことですんなりこの世にいる居方が分かったという感じでした。私の目を通してなので事実ではないかもしれないですけれど、私の目から見てとても華やかでキラキラして見える人とかは、お洒落をして自己表現をしたり、モテたり、勉強がすごくできてすごくいい学校に入ったりとかして、生命の表現をしていていいなーと思ってきたんです。私は何をどうあがいても、自分を表現する術がないと思っていました。それが、見つけたんですよね。
結局、他のことに関しては頭がおかしくなるくらい何もうまくいかなかったのに、小説に関してだけは、自然と、日々の流れを過ごしているうちになんかこうなった、という。自然にここまで来ちゃったから、失う時も自然にふっとかき消えていくのかもしれないっていう怖さもあります。ただの不安になりたがりかもしれませんが。

――ゲームのシナリオを作りながら、小説も書くという。そもそもゲームは詳しかったんですか。

竹宮:それが詳しくなくて。当時の業界はイケイケで「この子ゲームやったことがないんだって、面白い奴が来ちゃった(ゲラゲラ)」みたいな感じでした。「最初はデバッグからね」といってROMを渡されて、でも私が当時持っていたしょぼいパソコンはゲームを再生できなくて、「すみません、できません」って。今考えてみたら、本当に震えるほどとんでもない給料泥棒でした。私はこの社会になんてことをしてきたんだろう...。

――(笑)。ところで、大学と大学院での専攻は何だったのでしょうか。その時に学んだことが作品に活かされていたりするんでしょうか。

竹宮:法学部で、刑法でした。活かされているのか分からないですけれど、法律を勉強しながらこれが真理だなと思ったのは、しょせん他人のことは分からないなってことです。そして善悪は絶対的なものではない、人間の世界の作り物なんだということ。
昔からよくある質問に「なぜ人を殺してはいけないの」というのがありますよね。いろんな人がうまい回答をしてその回答ぶりを楽しむ雰囲気がありますが、私は「なぜ人を殺してはいけないの」とピュアに聞かれたら「殺してはいけないって誰が言ったの」としか言えない。日本国で人を殺したら、刑法にのっとって刑罰を与えられますよというだけだから。もちろん、「やり返されたらまずいぞ」といった回答は別として、ここにこういう国があるという設定のもと全部はしょせん人が決めた設定で、絶対的なものではないですよね。それにのっとって生きたら都合がいいという、昔からの知恵を積み上げた設定されたうまいやり方があるというだけで、それは絶対的なものではない。それを空しいとは思わないですけれど。
その一方で、小説を書くことはその本のなかの世界を生み出すことであって、それこそ「そういう設定」の塊です。そこにはとりあえず嘘はないというか。この社会が全部嘘だと言っているわけではないですが、自分が「これを書きたいから書く」という純粋さに嘘はないわけで、作品としての出来とか誰が読むかとは関係なく、「私はこれを書きたい」「書くよ」「書いたよ」ということは、私は信じられるんですよね。私にしか通じないんですけれど。

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