第213回:河﨑秋子さん

作家の読書道 第213回:河﨑秋子さん

東北と北海道で馬と暮らす人々を描いた物語『颶風の王』で注目され、単行本第二作『肉弾』で大藪春彦賞を受賞、新作短編集『土に贖う』も高い評価を得ている河﨑秋子さん。北海道の酪農一家で育ち、羊飼いでもあった彼女は、どんな本を読み、いつ小説を書きはじめたのか。これまでのこと、これからのことを含め、たっぷりと語っていただきました。

その4「めん羊のこと、デビューのこと」 (4/5)

――そもそも大学を卒業後にニュージーランドに行った理由を教えてください。

河﨑:羊の勉強のためです。
 ちょうど就職氷河期の真っただ中の世代で、いろいろ志望はしたんですけれどうまくいかず、それに、都会で就職するのは自分には合わないかもしれないと思っていたんです。でも実家の生業である酪農は、女性だけだと難しいと言われているんです。市町村も、新規就農が夫婦や男の人1人なら受け入れてくれるんですけれど、女1人だと難しい。体力的な問題ですね。実際に経験上、女1人で酪農というのはまず無理だと思っていました。もちろん、やっている女性の方もいらっしゃいますけれど、厳しいし、酪農は販路を自分で作るわけにはいかない。ルーティンのような仕事をしていれば最低限の収入は保証されますが、システムが固まっている状態なんですね。それで、羊のことを職業にできないかと思ったんです。そもそもは教授が北海道産のラム肉を取り寄せてバーベキューをやって、その肉が美味しかったのがきっかけなんですけれど。
 近代的なめん羊生産は昭和年代に輸入関税が撤廃されてほとんど死に絶えた状態だったんですが、ようやく北海道産の羊肉を生産して販売する人が出てきた時期だったんです。白糠町の武藤浩史さんという、私の今の師匠の師匠の方が帯広畜産大学で、北海道で職業として羊飼いをやっていく「シープクラブ」というのを結成して、実習生とかお弟子さんがいっぱいできて、広がっていて。それで自分でもやってみようと思ったんですが、やっぱり海外の本場を観てみたくて。いろいろ調べるうちにご縁があったニュージーランドの牧場に、ワーキングホリデービザでだいたい1年近く住み込みさせてもらいました。

――朝から晩まで働きつつ、村上春樹の英訳本を読み。

河﨑:1冊だけ持っていった中島敦の文庫1巻目も読んでいました。荷物の量に限りがあったのであまり本は持っていけなかったんです。今ならタブレット1枚持っていけば電子書籍でいろいろ読めるんですけれど。どの本を持っていこうと考えて、自分が好きで、かつ、なるべく読みづらいものを選びました。それを繰り返し読もうと思って。

――その1巻目に「山月記」も入っていたんですね。では故郷から離れた地で、李徴が心の支えに...。

河﨑:なっていましたね(笑)。

――ところで、その頃は作家になりたいとは思っていなかったのですか。大学の文芸サークルでは創作もされていたと思うのですが。

河﨑:創作はしていたんですけれど、その時に自分の才能の上限はあまり期待できたものじゃないなと思って、すっぱりと羊のほうにいきました。
 創作では書きたいものを書いていたんですけれども、それを人にお見せしたり、ましてや作家という生業でできるのかと考えると、無理だなと思ったんです。2、3回公募文芸賞にも出しましたけれど、箸にも棒にもひっかからずでしたし。

――ニュージーランドから帰国してからは、ご実家の牧場でめん羊生産を始めたのですか。

河﨑:帰国してから半年間、師匠のところで住み込みでやって、もう半年間はヤギ牧場で研修を受けて、それから実家でめん羊をはじめました。最初は頭数も少なかったので、物置の端っこを仕切って使っていました。うちの父が元気な頃だったので、使わなくなった牧草を運ぶための木製のワゴンをばらして簡易的な小屋を作ってくれて。
 きついけど楽しかったですね。実際にお肉を販売するルートが確立されているわけではないので、知り合ったレストランのシェフとかにお肉をお送りして、喜んでいただけたり注文してもらえるというのは、商売としての喜びがありましたし、生産者としても「おいしい」と言ってもらえるのはやり甲斐がありました。

――そのなかで本を読む時間はありましたか。

河﨑:この頃も読んではいましたけれど、あまり時間がなくてちゃんと読めている感じはありませんでした。

――そのなかで、小説をふたたび書こうと思ったのは。

河﨑:ちょうど30歳になる時に、節目として今やらないとこのままだらだらやらなくなるなと思いまして。学生の時に筆を置いた時は、今のままでは駄目で、もっといろいろなものを吸収しなきゃいけないという意識だったんです。やめたというより一旦置いたという感覚でした。それで、30歳になったことだし、ということで。

――それで小説を執筆し、賞への応募を始めたわけですね。2012年に「東陬遺事(とうすういじ)」で北海道新聞文学賞(創作・評論部門)を受賞されましたが。

河﨑:そうですね。1回目は最終選考で落ちて、次で受賞しました。

――大学時代に書いていた頃と受賞した頃では、なにが違ったと思いますか。

河﨑:年取ったせいですかね(笑)。自分の主観と、文章にした時の客観性というのに間を空けることができた気がします。書きたいものを書くのはもちろんだし、その衝動があることが一番大事ではあるんだけれども、文章にして人様に読んでもらう時に何が大切かということを、一歩引いたところで同時に見ることはできるようになった気はしますね。まあ、受賞作も今読み返すと「ああっ、赤ペンで直したい」ってなるんですけれども(笑)。

――2014年には『颶風の王』が三浦綾子文学賞を受賞して話題となります。三世代にわたる北の地と馬と人の繋がりを骨太に描いて圧倒させる作品ですよね。新刊の、北海道にかつてあった産業をモチーフにした短篇集『土に贖う』といい、河﨑さんは北海道の開拓の歴史に詳しいですよね。郷土史なども相当読まれていると思いますが。

河﨑:それはバイトが元でして。学生時代、3年くらいで卒業に必要な単位をほぼ取ってしまったんです。それで文章関係の修業をしたいと思いまして、ライター系のバイトをはじめ、その流れで、制作会社で仕事をしていたんです。具体的には官公庁の資料収集と編纂、ウェブのアーカイブ化です。それで北海道内の市町村の歴史資料をまとめてアーカイブ化するお手伝いをして、いろいろな市町村史に触れて、もちろんお仕事なのでちゃんと真面目にやっていたんですけれど、個人的な趣味としても「これはすごく面白いな」と思っていました。
 その後、実家に帰って落ち着いて、お給料みたいなものをもらうようになってから、昔の市町村史や聞き語りの資料とかを読むようになりました。ちょうど隣町の古本屋さんが、店主の趣味でそういう本を集めていたんです。それもすごく面白かった。

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