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和田 啓の<<書評>>



雷桜
雷桜
【角川文庫】
宇江佐真理
定価 580円(税込)
2004/2
ISBN-404373901X
評価:A
 胸が清々し、心洗われる名品である。幾層にも織り込まれた美しい物語が、読者を夢幻の境地へと誘(いざな)ってくれる。
 時は江戸徳川時代。山間の瀬田村では庄屋の一人娘・遊が生後まもなく蒸発する。次兄は江戸で、御三卿清水家当主・斉道に仕える道を選ぶ。この10代の殿様が厄介者。好色一代男にして癇癪、狼藉、発狂寸前と絵に描いたようなバカ殿なのである。数年経ったある日、野生児のような雰囲気を持った遊が突如、帰宅する。そして数奇な運命に手繰り寄せられるように、斉道と遊は出逢うのだ。
 瀬田山の自然を背景とした描写が素晴らしい。雷桜がある千畳敷、天女池。太古の趣がある広大な樹海、断崖と森に囲まれた沢。藍を溶かしたような闇があり、秋には紅葉の洞窟が点在する。そんな環境で育った女を通じて、都会のお坊ちゃんが精神的に裸になって一人の男に成長していくのである。
 桐野夏生や東野圭吾作品とは対照的な作風だ。登場人物は潔く、単純であるがゆえに強い。余談であるが先日、筆者の郷里函館をたまたま訪れた。五稜郭公園を中心として、薄桃色の毛氈を敷いたような清澄な桜の世界がじきに繰り広げられるに違いない。

夜の果てまで
夜の果てまで
【角川文庫】
盛田隆二
定価 780円(税込)
2004/2
ISBN-4043743017
評価:AA
 札幌の街の描写が素晴らしくいい。さっぽろ駅、大通り、中島公園、豊平川河川敷……。
北の大地で飲む夏の始まりを感じさせるビールの苦味、小樽での眩いファーストデートのシーン、女が気持ちを向けてくる息を呑む刹那、気持ちのそよぎが生き生きと心臓の鼓動のように伝わってくる。
 どうやらわたしもこの小説のヒロイン裕里子に恋してしまったようだ。時を同じくして白石一文の「一瞬の光」を読んだが、主人公が若い分だけより人生に切実なのだろう。本書の方がわたしの心には残った。
 恋は甘美なものではない。恋は切ないものだ。クロード・ルルーシュの逸品『男と女』を思い起こさせるラスト50Pの心理描写は圧巻。主人公俊介が迷いを断ち切り自分自身の人生を選びとる姿に感動。男には摩訶不思議なヒロインの女心の変遷に、だからこそ女性は魅力的なのだといいたい。
 ラストシーンには息が詰まった。泣けた。ビター・スイートながら爽やかな春風が通り抜けていくような小説。生涯忘れられない恋愛小説の傑作。

東京アウトサイダーズ
東京アウトサイダーズ
【角川文庫】
R・ホワイティング
定価 740円(税込)
2004/1
ISBN-4042471056
評価:D
 戦後、GHQの傘下となった無法地帯の東京で一攫千金を夢見る名も無きアメリカ人が暗躍する。ヤミ取引、賄賂、売春・・・・・・華やかなキャバレーを舞台に日本の政治家や暴力団を伴ってあたかも絢爛豪華なショーのように、金にまつわる事象が次から次へ見せられる。共産主義と右翼が火花を散らす時代。天才的な詐欺師が跋扈、バイオレンスが横溢。定番の児玉誉士夫も登場だ。国の枠組みが脆弱の敗戦国を土俵に、勝った国は何でもできたんですね。
 前作も期待した分ひどかったが、今回はそれに輪をかけて不快な気持ちになった。登場人物はどれもこれも類型的で魅力がない。歴史に隠れた騒々しいエピソードを盛り、「こんなこと知ってますか?」的手法がワイドショーみたいで読み手を丁寧に扱っていない。六本木のピザ屋よりも下山総裁の真相の方をわたしは知りたいわけです。

心では重すぎる
心では重すぎる(上・下)
【文春文庫】
大沢在昌
定価 (各)660円(税込)
2004/1
ISBN-416767601X
ISBN-4167676028
評価:C
 十数年前だろうか、バブル華やかりし頃の渋谷のセンター街で、一人の呑んだくれのサラリーマンが数人のチーマーに囲まれ、なすがままにされていた真夜中のことを思い出した。当時から渋谷に出ればクスリに手を出している高校生は散見されたものだ。
 夜の渋谷が舞台である。お父さんが行けなくなってしまった危険な街、渋谷の現実が活写される。イラン人の売人がいて、買う若者がいて、背景にはもちろん仕切りの暴力団が存在する。消えた漫画家を探す私立探偵、伝説の漫画編集者、渋谷を押える若手組長、事件のキーを握る女子高生らが絡み合い、物語は収斂していく。ストーリー展開は冴えるがオチは案外単純。美少女錦織の内面もああそうですか、という感じ。漫画家まのままると編集者岡田が神保町で再会する際の描写が唯一、胸に残る。

豪雨の前兆
豪雨の前兆
【文春文庫】
関川夏央
定価 550円(税込)
2004/2

ISBN-4167519097
評価:A
 若いときから関川は世界を放浪してきた。むちゃくちゃ本を読み、自分と世界を客観視させ考え捉え、自己と世界観を確立してきた。文章はやたら上手く物知りで、ときに感傷的で稀代の皮肉屋でもある。こういう人と街で会うとどうなるのだろう。野球場でも呑み屋でも銭湯でもいい、隣合った関川さんのような人と何かで口論になり、なまじ浅薄で半可通な知識を思い知らされ、冷や汗をかかせられる。子供にも情け容赦しない人だろう。将棋の腕に自信のある子供がたまたま関川さんのような人と一局やることになる。手加減しないので初めて体験する戦況の悪さに子供は肝をつぶすはずである。
 明治時代の日本に生まれた近代的風景観の確立とか、自己と風景の客観化というものにこの人は心を砕いてきた。本書でも明治から昭和への時の移り変わりと自分史とを重ねて描いている。筆は自由自在。幼少時代の汽笛の音を聴かせ、遥か遠ざかっていく明治の幻影を見せる。関川は時を旅している。忘れかけた当時の日本人が持っていた匂いや音を記憶から蘇らせる。そういったものを文学的に情感豊かに描くから嫌いになれない。漱石の息づかいや須賀敦子の声をわたしは確かに聴いた。
関川さんのような人と日本を離れた夜のブエノスアイレス辺りでいつか会ってみたい気がする。

サハラ砂漠の王子さま
サハラ砂漠の王子さま
【幻冬舎文庫】
たかのてるこ
定価 600円(税込)
2004/2
ISBN-4344404858
評価:C
 本書にも出てくる、鉄道でフランスからスペインに入ったところにある乗換駅「ポール・ボウ」は忘れられない響きを持ったところだ。冷えた深夜のホームで心細く電車を待つわたしに、その中近東人はナイフで切ったオレンジの一片を微かなスマイルとともにくれた。
 自分探しを基調とし異文化を体験する旅行記の系譜について考えてみた。古くは金子光晴や伊丹十三、小田実がいて、最近では小林紀晴が思いつくところだ。このジャンルで近年、沢木耕太郎を超える作品が出てこないのはなぜなのだろう。
 世界は小さくなってなどいない。知れば知るほど頭を抱え込み、その圧倒的な広さと深さ、人間の歴史と不可思議さを、身を持って体感してくるのが若い身分で行く海外旅行のすべてではないか。筆者は生真面目で率直な方だと思う。いかんせんモロッコの風景が行間から広がってこない。筆者の情感を通じた異国の雰囲気は半径3m以内に限られている気がした。震えてくるような筆者だけの感受性をわたしは読みたいのだ。

ブレイン・ドラッグ
ブレイン・ドラッグ
【文春文庫】
アラン・グリン
定価 860円(税込)
2004/2
ISBN-4167661586
評価:B
 人間の欲望というものについて考えさせられた。脳の働きを超人的レベルにまで高められるステライド剤MDT−480。それを服用すればこの世のどんな人よりも秀でることができる魔法の薬を手にしたら、人は何を所望するだろうか。
 洋服、車、食、家、異性を順番に手に入れた男が次に欲しがったのはキャリアと名声だ。未来を読める神の視座をも持った男は、株の売買や企業買収を通じて莫大なマネーを掌中におさめたかのように見えたのだが……。
 『百年の孤独』を原書で読めたり、ビル・エヴァンズの曲を楽譜なしで演奏できるようになれたら素敵だと思う。難解な経営分析の専門書をすらっと一読しただけで理解し、株の世界でも連戦連勝できたらと誰もが夢見るだろう。しかし勝ち続けることは不可能だ。筆者のアラン・グリンはアイルランド生まれ。牧歌的なダブリンで育った彼が見た苛烈極まるニューヨーク社会の実態がここにはあると感じた。
 ラストシーンはなかなか風刺が効いている。それでも人間は欲望し続ける。親の言うことを聞かずに戦争を止めないどこかの子供のように。