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藤本 有紀の<<書評>>



だれかのいとしいひと

だれかのいとしいひと
【文春文庫】
角田光代
定価 579
円(税込)
2004/5
ISBN-4167672022

評価:C+
 性交よりもキスが好きだという主人公が吉祥寺駅前のドトールで完璧なキスについて思考をめぐらす小一時間の話「完璧なキス」がよかった。「……唇の合間からほんの少しアルコールのにおいがすればなおのこといい。」という印象的な文は、長く記憶にとどまりそうな気配がある。他の7篇にこれといった美点を見出しえなかったのは残念であるが、角田の描く、私鉄沿線からほとんど飛躍しない物語世界というものが、矮小だと感じてしまうのだから仕方がない。『うさぎのミミリー』の庄野潤三私小説シリーズは好きだし、何も起こらない物語が嫌いというわけではないのだが……。「この恋愛が成就するなら臓器のひとつぐらい失ってもいいのよ」というぐらいに強く、フリーダ・カーロの絵みたいにどぎつい物語を読みたいラテン系? の私と角田光代はどこまでも合い容れないのかも。嗜好の問題に帰結してしまうが、濃密な小説を好まない人はきっと好きになれる小説だろう。

神のふたつの貌

神のふたつの貌
【文春文庫】
貫井徳郎
定価 619
円(税込)
2004/5
ISBN-416768201X

評価:B
 卑屈な態度や愚鈍な仕草が相手の神経を逆撫ですることがある。私などは、知っている人に名前ではなく「すいません」と呼びかけられるだけで、なにそれ? と不愉快さ剥き出しの視線で応えてしまうことのある狭量な人間だが、痛覚を持たない早乙女輝が他人の中にそんな苛立ちの芽を見出したときほど嫌な予感のすることはない。嫌な予感はたいてい的中する。少年期のカエルを虐待から導かれる暗い予感。災いの芽が膨張してやがて飽和に達したときに起こる悲劇は、予定調和を思わせるから怖い話だ。トリッキーな仕掛けに「あれっ」と思わぬ読者はいないはずだが、構成ではなく私はむしろ文体を推す。「汲々とする」「誘(いざな)う」「忸怩たる思い」「忖度(そんたく」「蒙を啓く」といった言葉を駆使した引き締まった文章がいい。貫井徳郎にせよ佐藤賢一にせよ熟語・文語遣いがうまい作家のよどみない文章は気持ちいいですね。

暗黒童話

暗黒童話
【集英社文庫】
乙一
定価 619
円(税込)
2004/5
ISBN-4087476952

評価:B
 B級な感じがなんとも軽快で、何にも考えさせられない娯楽小説もたまにはいいよね、と思っているうちに読み終えてしまった。雑踏で他人の傘の先がまぶたに突き刺さり、落としたコンタクトレンズを探すように眼球を探す女子高生の描写から始まるダーク・ファンタジーである。事故とともに記憶をなくした菜深は、移植を受けた眼が映し出す光景をたどって眼球の元の持ち主・和弥の暮らした町にやってくる。行方不明の少女を追っていたらしい和弥の行動を追体験するうちにある館に辿りついた菜深と、少女を誘拐し館に閉じ込める暗黒童話作家・三木が徐々に接近していくスリリングなストーリーと、御茶漬海苔のホラー漫画『惨劇館』を思い起こさせる非現実恐怖絵巻が見物。この作品、実はマイ・ファースト・乙一なのだが、たぶんここではその実力の片鱗しか見せていないのだろう。期待をこめて別の作品も読んでみたいと思わせる。

カエサルを撃て

カエサルを撃て
【中公文庫】
佐藤賢一
定価 780
円(税込)
2004/5
ISBN-4122043603

評価:AA
 アイルトン・セナが死んで以来、巨躯の色男・ヴェルチンジェトリクスほどのヒーローらしいヒーローに出会った記憶がない。若く逞しく色気があり孤高の美しさを漂わせるヴェルチン。1セクシー2孤高3早世のイメージを持つヒーロー像の一典型にがっぷりはまったひとりの男が、ガリア王という宿命に自らを捧げた物語。
 ローマの侵略からガリアを守るため放逐された都に戻ったヴェルチン。諸族を束ねた若きガリア王が対峙する、ときのローマ人総督が痩躯の中年男ユリウス・カエサルである。後退する頭髪にみみっちく執着し、保身に走るカエサルは「英傑ジュリアス・シーザー」のイメージには遠くヴェルチンと好対照をなす。だが、カエサルは転んでも転んでも起き上がる不屈の中年男だった。カエサル然り、危ないほどに嗜虐的なヴェルチン然り、アンチヒーローの中にヒーローを、またはその逆という手法で佐藤賢一が生み出す人物はなぜこうも愛すべき人物となるのだろう?
「男は殺され女は犯される」という侵略戦争の持つシンプルで残虐な事実を描いた戦記小説としても、男同士のプライドがぶつかり合う活劇としても、はかなくて夢見心地の恋愛物語としても傑作。

キャパ その戦い

キャパ その戦い
【文春文庫】
リチャード・ホイーラン
定価 620
円(税込)
2004/4
ISBN-4167651408

評価:B
 写真ジャーナリズムというものが戦争報道とともに発展してきたのだろうということは想像に難くないわけだけれど、20世紀は戦火の中にロバート・キャパというフォトジャーナリストを産んだ。朝日新聞5/31夕刊の〈キャパが撮ったカラーの戦争〉という見出しの記事によれば、キャパは生涯に7万点以上の写真を撮影したというが、没後50年にして未発表の写真がニュースになることが、報道写真家キャパの偉大さの証左にほかならない。時代の申し子とでもいうべき存在に駆け上がっていくキャパの青年期がつづられた本書。大ニュースをつかもうと東奔西走し、恋愛に苦悩するキャパの生き様は、シンデレラストーリーのようでもあり、キラキラとまぶしい。また、しばしば意図的にキャパが写真とキャプション(または記事)をズレさせていたという事実に対する、原著者と訳者による「通り一遍でないキャパ評」が読めるという意味でも興味深い伝記だった。

ワイオミングの惨劇

ワイオミングの惨劇
【新潮文庫】
トレヴェニアン
定価 860
円(税込)
2004/5
ISBN-4102139214

評価:B
 「ラバは落っこちて谷底にベチャッと音をたてたが、……あのベチャはなかなかだった……!……だが、ラバはどうだ? 生まれつきのベチャものよ」「あのベチャときたら、じつに気持ちのいい音だったぜ」と、ラバ殺しの顛末を饒舌に語る嗜虐型脱獄囚が、ワイオミングのとある町を襲う。〈貸し馬屋〉にはロバしかおらず、保安官事務所には保安官がいない、鉱夫相手の酒場兼娼館が町の中心というそもそも退廃ムードの“20マイル”。その住民たちが強いられる悪夢のような屈辱行為の描写に、神経がキーと悲鳴を上げ、おのれの弁舌に酔いしれるの狂信的犯人が並べる悪言の数々に気圧された。ラバのベチャには……、まいった。どうやったらこのような心臓の表面を爪で引っ掻くような文章が書けるのだろう!

鎮魂歌

鎮魂歌
【ハヤカワ文庫FT】
グレアム・ジョイス
定価 882
円(税込)
2004/5
ISBN-4150203644

評価:B−
 英国人の教師トムは、妻ケイティーの事故死を境に狂気に悩まされ、教職を辞してエルサレムに赴く。心理カウンセラーをする昔の恋人シャロンに再会するが、かの地でますます現実と夢想の境界が分からなくなっていく。スパイスの香りを濃く漂わせるアラブ人の女と接吻するという幻覚を見て大きな蜜蜂が唇からもぐりこみ口の内側を刺されたりするトムの経験は、どこまでが現実でどこからが幻想なのか、読者は混乱の渦に巻き込まれていくはず。トムも、そして悪霊におびえるアラブ人学者アフマドも、肉欲=罪という考えに囚われ過ぎて狂っていく様が危い。と、ストーリーに沿ったレビューを書いてみたが、本心をを明かすと、3つの宗教の聖地エルサレムの危険な香りのする市街という舞台設定、そしてそのエキゾチズムを味わえるだけで相当に満腹なのです。社会科地図帳にあるエルサレム市街の拡大図に岩のドーム、聖墳墓教会、嘆きの壁を見つけるながら読み進める。これぞ異郷モノの真髄。