コラム / 高橋良平

ポケミス狩り その16
「クレイグ・ライスの巻」

HPBOOATARI.jpg

 毎日いつも一時間、本気で地獄を信じたくなるのだった。


 ----あまりにも有名な『素晴らしき犯罪』の書き出しだ。

 ポケミスから長谷川修二新訳版が出たとき、〈EQMM〉で「バック・シート」連載中の中村真一郎氏は、〈この一行は物語全体の主題を暗示するだけでなく、クレイグ・ライスの小説の全モチーフを象徴しているし、おそらく作者の人生観そのものを現わしている〉(一九六〇年十一月号)と評した。

 たしかに、そうでなければ、ちょいと書けない文章である。ではあるがライス女史は、人生の修羅なぞとくとご存じであろう女史は、すぐさま、〈朝、とても早く、日の出る直前のことなのだ。苦痛と恐怖と心配の時間で、時には後悔の時間でもあるし、また半分目がさめ半分眠つている苦しい夢の時間だし、それから何度も何度も埋めてしまおうと苦労した記憶と、直面したくない未来の予感とが、湧きあがる時間なのだ。その上に、頭はひっきりなしにズキズキ痛み、焼けるように凄く咽喉が乾く〉と書きついでパラグラフをまとめ、二日酔いの繰り言としらばっくれる。ソフィスティケイテッド・レディ。

 二日酔いで思い出すのは、高校のころ、もっぱらハイボール一杯をちびちび啜るくらいだったぼくが、その夜は、クラスメイトだが親密とはいえぬHの家の二階にあがりこみ、床の間の前に陣取って、ふたりで一升瓶をあけていた。どうしてそうなったか憶えておらず、早くに病に斃れたHに聞くわけにもいかないが、愛読書は立原正秋の『冬の旅』だが文学趣味はなくSFには目もくれないHと、よく話が尽きなかったものだ。そして外が白みはじめると早々に辞し、駅へと向かった。文学部(掛け持ちしている部活のひとつで、他校では一般に文芸部と呼ばれていた)の後輩Mと約束していたからで、Mは家出して渋谷の「天井桟敷」の門を叩くつもりだという。鼻息荒く、東海道線の始発列車に向かうMを改札で見送ると、ふらふらと帰宅して蒲団に倒れこみ......目が覚めると、頭痛がするうえ、手や首まわりに蕁麻疹が! 左党の家系なのに、自分だけがアレルギー体質なのが判明。それからしばらくは、ビール一杯ですぐ顔が赤らみ、湿疹に悩まされたが、二十歳をすぎたあたりから湿疹はできなくなっても、二口ほどで頬を紅潮させるのは変わらず、いつのまにやら船を漕ぎだしたあげく眠りこんでしまうが、またやおら起きてまた飲みはじめるという、酒席をともにする相手には傍迷惑な酒癖が習いとなって幾星霜----。

OOHAZURE.jpg

 そんな不調法者では、ライス女史に藤四郎扱いされるに違いない。酔いどれ刑事弁護士J・J・マローンに鼻もひっかけてもらえない。そのマローンと、スクリューボール・コメディの美男美女カップルみたいなジェイクとヘレンの三人組は、なにかにつけ酒をひっかけ、しらふのときのほうが少ないくらい。のべつまくなし紫煙をくゆらせ、おまけに事件のせいでしょっちゅう寝不足だから、肝心な手掛かりを度忘れすることもしばしば。なのに、三者三様それぞれの思惑で、行き当たりばったりのドタバタのあげく、マローンが事件の謎を解いてしまうのが毎回の筋立てだ。

"アガサ・クリスティーの巧みさ、ダシール・ハメットのスピード、ドロシイ・セイヤーズのウィットを兼ね備え"なんて形容されてるのをみた気もするが、ライス女史が読者に供するのは、『大はずれ殺人事件』の江戸川乱歩氏の解説表題をそのまま引けば、"爆笑探偵小説"。それもカラッとしたホワイト・ユーモア。アメリカの代表的コメディ映画、ホープ、クロスビー、ラムーアの"珍道中"シリーズを連想させなくもない。

 さて、クレイグ・ライスを日本に初紹介したのは、例によって、戦後すぐから原書を貪欲に渉猟する乱歩さんだった。1946年、〈TIME〉誌1月28日号で、ライスがカバー・ストーリイに採りあげられ、委細を尽くして"アメリカ・ミステリの新女王"が紹介されると、乱歩さんはさっそく〈婦人春秋〉8月号に「爆笑トリオー新人ライス夫人の独創ー」を執筆(『大はずれ殺人事件』の解説はこれを加筆訂正)したが、邦訳はしばらく待たねばならなかった。

 というのは、占領下の日本で、GHQのCIE(民間情報教育局)の指導のもと、英米書の入札制翻訳権取得を許可されたのが1948年5月、翌年秋から民間の著作権代理業者を通じて版権交渉できるようになり、翻訳出版ブームを迎える1950年、〈宝石〉1月号に『素晴らしき犯罪』(兼井連訳)、6月号に『甘美なる殺人』(長谷川修二訳)が掲載され、新樹社の[ぶらっく選書]に『怒りの審判』(長谷川幸雄訳)『素晴しき犯罪』(新浜順訳)『第四の郵便屋』(妹尾アキ夫訳)が収録され、雑誌と単行本でダブったものの長篇4作が一挙に紹介された。

 その次のピークが5年後の1955年、8月にポケミスから『大はずれ殺人事件』が出て、〈別冊宝石〉50号(奥付・10月)"世界探偵小説全集/クレイグ・ライス篇"に『矮人殺人事件』(平井イサク訳)と『幸運な死体』(平井喬訳)が載った(注・ふたりの平井さんは同一人物)。『大はずれ殺人事件』の解説の著作リスト(*)に、姉妹篇『大あたり殺人事件』が同じ長谷川修二訳で同年中に出る予定だったが、1年ほど延びて発売は翌年6月になった。さらに、その1年後の57年6月に、ビンゴ・リグス&ハンサム・クザックの街頭写真師コンビが主役のシリーズ1作目『セントラル・パーク事件』(大門一男訳)と、『甘美なる殺人』が『スイート・ホーム殺人事件』と改題、長谷川修二氏の全訳版でポケミスに収録された。その直後にライス女史が急逝したこともあり、ポケミスの紹介は散発的になり、エド・マクベインが補筆した遺作でビンゴ&ハンサム物の『エイプリル・ロビン殺人事件』(森郁夫訳)を含め、60年代半ばまでに計10点の長篇が出たのだが......。

ATARI2.jpg

左/カバー・浅賀行雄 右/カバーイラスト・野中 昇

 そして半ば忘れられていたライス女史のルネッサンス(?)到来は、その10年後、[ハヤカワ・ミステリ文庫]の創刊で、28番目の作家にライス女史が選ばれ、『スイート・ホーム殺人事件』の文庫化に始まり、慶賀すべきは、ライス女史に惚れこんでいる小泉喜美子さんの改訳決定版『大はずれ殺人事件』『大あたり殺人事件』の2部作が同文庫で出たことだ。小泉さんによる同文庫の新訳版は『幸運な死体』『素晴らしき犯罪』と出ていったのだが......、残念なことに、2015年7月の「ハヤカワ文庫解説目録」をみると、ライス作品は、羽田詩津子さん訳の『スイート・ホーム殺人事件[新訳版]』しか残っていない。

 小泉さんに加えてライス女史作品翻訳史の重要人物は、小鷹信光さん。戦後の翻訳ミステリ界で最大のネックは、原書の入手だった。現在のネットで検索・注文できる時代と違い、新刊で流通していない作品は、内外の古書店を漁るしかなかった。だから、ライス女史のデビュー作と第2作はずっと翻訳されないままだったが、ついに小鷹さんが発掘。デビュー作『マローン売り出す』は光文社文庫海外シリーズの1冊で87年5月に出て、第2作『マローン勝負に出る』は同時期に〈EQ〉誌に連載された。もちろん、ともに小鷹さんの翻訳である。

 のちにその2作は、『時計は三時に止まる』と『死体は散歩する』と原題に即した邦題に改められ、創元推理文庫に収録される。同文庫は他に、田口俊樹さんの新訳『第四の郵便配達夫』、これまたライス大好きの山田順子さんの訳による新訳の『こびと殺人事件』と"マローン弁護士の事件簿Ⅰ"と付した『マローン殺し』が出ているが、残った短篇集の2冊目は、いったい、いつになったら陽の目をみるのだろう。

 1908年6月5日、シカゴに生まれたジョージアナ・アン・ランドルフは、乱歩の解説にあるように親の愛情を知らずに育ち、正規の教育を受けずに1925年、17歳のときからジャーナリストとして活躍し、1931年から8年間ラジオの放送作家・プロデューサーとして働いたのちフリーランスの作家になり、1939年、クレイグ・ライス名義の『時計は三時に止まる』がニューヨークのサイモン・アンド・シャスター、ロンドンのエア・アンド・スポティスウッドから出版されてデビュー。同年に最初の結婚をするが、10年もたずに離婚し、その後は再婚・離婚を繰り返す。『スイート・ホーム殺人事件』にあるように、娘2人息子1人をもうけるが、同書の一節、〈(子供たちは)今に大人になって、彼女の手許から巣立つでしよう。自分たちの人生を暮らさなければならないのは分つています。そして、中年になつた彼女は手提タイプライターで推理小説を叩き出しながら、ひとり淋しく、どこかのホテルの一室で暮らすことになるのでしよう〉が予見したかのごとく、1957年8月28日、16年間すみついたロサンジェルスのアパートメントでの急逝が報じられる。アルコール依存症でヘビースモーカーなのは周知の事実だったが、急性アルコール中毒とも睡眠薬の飲みすぎともいわれる原因不明の変死であった。享年49。

 いつでも笑いは妙薬、万能の人生処方箋であり、憂き世を渡る極意のはずだが......。


注(*)この著作リストには、My Kingdom for a Hearse(1946) と挙がっているが、実際にその題の長篇が出版されたのは、亡くなった年の1957年。タイトルを最初に決めて、それから書きだすのがライス女史のミステリ作法にしても、書きあぐねていたようだ。乱歩さんの解説にも、〈四番目の夫との間の不和が原因で自殺をはかり、生命はとりとめたが(これを狂言自殺だとする人もいる)、その後は執筆を続けることが出来なくなつてしまつたようである。しかし、これは長篇探偵小説の話で、短篇はその後も時々発表している〉とあり、1949年発表の『居合わせた女』(恩地三保子訳)から『わが王国は霊柩車』(中村能三訳)まで8年の空白があった。

P.S. 家出したMは、新学期がはじまるとアッケラカンとした顔で登校してきた。劇団が親元に連絡し、強制送還されたそうだ。


1958(昭和33)年・下半期[奥付準拠]
  7月31日(HPB 407)『ギデオンの一日』J・J・マリック(井上一夫訳)
  7月31日(HPB 413)『忙しい蜜月旅行』D・セイヤーズ(深井淳訳)
  7月31日(HPB 414)『死体が空から降ってくる』G・シムノン(原千代海訳)
  7月31日(HPB 419)『殺す風』M・ミラー(小笠原豊樹訳)
  7月31日(HPB 421)『ペニクロス村殺人事件』M・プロクター(加島祥造訳)
  7月31日(HPB 422)『一日の悪』T・スターリング(恩地三保子訳)
  7月31日(HPB 423)『腹の空いた馬』E・S・ガードナー(常盤新平訳)
  7月31日(HPB 424)『試行錯誤』A・バークリイ(中桐雅夫訳)
  7月31日(HPB 426)『スリップに気をつけて』A・A・フェア(宇野利泰訳)
  8月15日(HPB 420)『疑惑の霧』C・ブランド(野上彰訳)
  8月15日(HPB 425)『消えた街燈』B・ニコルズ(小倉多加志訳)
  8月15日(HPB 428)『洪水』J&W・ホーキンズ(亀山竜樹訳)
  8月31日(HPB 427)『運命』R・マクドナルド(中田耕治訳)
  8月31日(HPB 430)『女は待たぬ』A・A・フェア(田中小実昌訳)
  8月31日(HPB 431)『剣の八』J・D・カー(妹尾韶夫訳)
  9月15日(HPB 429)『ムーンフラワー』B・ニコルズ(大橋健三郎訳)
  9月15日(HPB 432)『死者のあやまち』A・クリスティー(田村隆一訳)
  9月30日(HPB 451)『シャーロック・ホームズの事件簿』ドイル(大久保康雄訳)
  10月15日(HPB 260)『長いお別れ』R・チャンドラー(清水俊二訳)
  10月15日(HPB 434)『可愛い悪魔』G・シムノン(秘田余四郎訳)
  10月15日(HPB 436)『動く指』A・クリスティー(高橋豊訳)
  10月30日(HPB 301)『Xの悲劇』」E・クイーン(砧一郎訳)
  10月30日(HPB 435)『影の顔』ボアロー&ナルスジャック(三輪秀彦訳)
  10月30日(HPB 439)『我が屍を乗り越えよ』R・スタウト(佐倉潤吾訳)
  10月30日(HPB 443)『毒薬の小壜』S・アームストロング(小笠原豊樹訳)
  11月15日(HPB 437)『気ままな女』E・S・ガードナー(宇野利泰訳)
  11月15日(HPB 438)『上靴にほれた男』G・シムノン(原千代海訳)
  11月15日(HPB 440)『十億ドルの死体』J・シャリット(野中重雄訳)
  11月30日(HPB 441)『花火と猫と提督』J・デイヴィー(北村太郎訳)
  12月15日(HPB 442)『溺れるアヒル』E・S・ガードナー(信木三郎訳)
  12月15日(HPB 444)『ゆがめられた昨日』E・レイシイ(田中小実昌訳)
  12月15日(HPB 445)『四つの兇器』J・D・カー(村崎敏郎訳)
  12月15日(HPB 449)『魔術の殺人』A・クリスティー(田村隆一訳)
  12月30日(HPB 433)『死後』G・カリンフォード(森郁夫訳)
  12月30日(HPB 446)『最後の一撃』E・クイーン(青田勝訳)
  12月30日(HPB 447)『トム・ブラウンの死体』G・ミッチェル(遠藤慎吾訳)
  12月30日(HPB 448)『おとなしい共同経営者』E・S・ガードナー(尾坂力訳)
  12月30日(HPB 461)『叫ぶ女』E・S・ガードナー(三樹青生訳)
  12月30日(HPB 462)『くもの巣』N・ブレイク(加納秀夫訳)
  12月30日(HPB 464)『憑かれた夫』E・S・ガードナー(中西正利訳)
  12月30日(HPB 465)『死者との結婚』W・アイリッシュ(中村能三訳)

(高橋良平)

« 前のページ | 次のページ »