第4回 「ロッキング・オン」の始まり
1970年に浪人生だった渋谷陽一は、新宿のロック喫茶でロックの同人誌「Revolution」を見つけて投稿し、最終号に掲載された。同じ号に彼より一回り年上の岩谷宏(1942年生まれ)の投稿も掲載され、2人は知りあう。また、彼らの原稿を読んで刺激を受けた橘川幸夫が、「Revolution」の終刊を知らず同誌に投稿した。それを知った渋谷が、1歳上で大学生だった橘川に電話し、新しい雑誌を作りたい旨を伝え協力をとりつける。また、渋谷は当時、DJのアルバイトをしていた新宿のロック喫茶「ソウル・イート」で知りあった人たちにも声をかけており、そのなかにアルバイトをしながら「自滅回路」というバンドをやっていた同い年の松村雄策がいた。
そうして集まったスタッフが持ち金を出しあい、同人誌、ミニコミの形で「ロッキング・オン」は1972年にスタートする。だが、初期には売れ行きが悪く、スタッフが1人、2人といなくなるなか、残って1970年代の「ロッキング・オン」を支え持続させたのが、渋谷、岩谷、橘川、松村の4人だった。彼らは、創刊4人組と呼ばれたりする。
以上のような創刊までの経緯や、1970年代の「ロッキング・オン」の歩みについては、渋谷陽一の「メディアとしてのロックン・ロール-1」、「同-2」、「同-3」、「同-4」、「同-5」というエッセイや、橘川の著書『ロッキング・オンの時代』(2016年)などで、当事者の視点から回想されている。このうち渋谷のエッセイは、1972~1978年の彼のロック評論をまとめた『ロッキング・オン増刊 メディアとしてのロックン・ロール』(1979年)に書き下ろしで収録されたのが、初出だった。その後、『ロッキング・オン増刊 メディアとしてのロックン・ロール』と『同 ライナー・ノーツ』(1980年)から抜粋された渋谷の新たな選集『音楽が終った後に』(1982年)に再録され、さらに彼の没後に編まれた『メディアとしてのロックン・ロール 渋谷陽一評論集 1972-1996』(2006年)、『同 1997-2025』(同)の前者にも収録され、書名にもされている。「メディアとしてのロックン・ロール」とは、渋谷の生涯の活動を象徴するフレーズなのだ。

「ロッキング・オン」の創刊号は1972年8月号だが、渋谷がその直前の1972年2月2日付発行のロックのミニコミ誌「how to」NO.5に参加していたことが確認できる(同誌には「ロッキング・オン」創刊号に執筆した加部燎子、久保直も名を連ねていた)。また、岩谷は1970年に「朝日ジャーナル」の懸賞論文で「"生活"の中に何が発見できそうか」が入選していた。また、橘川は『ロッキング・オンの時代』で自身が投稿少年だったとふり返り、「週刊読書人」の読者欄や「Z会」会報の読者頁などに掲載経験があったと語っている。バンド活動をしていた松村も含め、「ロッキング・オン」の始動には、当然のように表現欲求を抱えたメンバーが集まったのである。
彼らには、それ以前から投稿や同人誌活動へのかかわりがあったわけだが、なかでも水上はるこが編集長だった「Revolution」の影響が、やはり大きかったようだ。渋谷は「メディアとしてのロックン・ロール」で「自費出版のミニコミ」だった同誌を「ロッキング・オン」の「前身となる雑誌」だったと述べている。彼はそのエッセイで「72年当時、ロックはひとつのシンボルとしての役割を負わされていた」、「単なる音楽ではなく、若い世代の時代意識やイデオロギーを反映したメッセージであった」と書く。日本でもロックを文化的に語ることが流行したが、既存メディアの伝え方に渋谷は「聴き手のひとりとして」不快感、不信を覚えたという。「そうした時だったからこそ「レボリューション」も「ロッキング・オン」も生まれて来たのである」と渋谷は記す。美術評論家や映像評論家などが第三者的に語る文化的ロック論ではなく、聴き手の立場からロックを論じるメディアとして2誌を位置づけたのだ。
また、橘川は『ロッキング・オンの時代』において、渋谷から新雑誌への協力を求める電話があったことに関し、こう回想する。「レボルーションは行き詰って解散したので、新しく雑誌を作りたいと思うのだが、協力してくれないか、とのことであった。どうやら、投稿者であった渋谷がレボルーションを乗っ取って、自分のやりたい編集方針の下に再スタートしたいということのようであった」。そして、彼が目をつけたのが「Revolution」の投稿者だった岩谷と橘川だったというのだ。「Revolution」終刊号と「ロッキング・オン」創刊号の執筆者、スタッフのクレジットをみると、共通するのは渋谷陽一と岩谷宏の2人だけ。2誌はコンセプトに共通性はあっても、連続性は直接的なものではなく、「乗っ取って」ということでもなかったようにみえる。
ただ、水上はるこは当時のことについて、2025年7月24日のXで「渋谷さんたちは「Revolution」のフォーマットをほぼ継承した「ロッキンオン」(あるいはロッキングオン)を出版する。このくだりは渋谷さんの書籍に載っているらしい。私は読んでいない。書籍を送ってくれることもなかった」と明かしていた(水上は同日、渋谷との後の交流についてもポストしている)。また、同年9月5日にも「しかし「投稿者」どうしが知り合うには、私の仲介がなければあり得ない。結果、渋谷、岩谷、橘川の三者の意図が一致し、ロッキング・オンが誕生したわけだが、なぜ私がはずされたか。それは岩谷、橘川に語ってもらいたい」とポストしている。関係者各人の発言をたどってみると、それぞれ当時の記憶や受けとめ方などにズレがあるようだ。
「ロッキング・オン」創刊への影響としては、「Revolution」だけでなく、吉本隆明が1961年9月に創刊した同人誌「試行」の影響もよく指摘される。吉本は、学生運動が盛んだった時代の知的な若者に影響力があった思想家・詩人である。「試行」は原則として、原稿料は支払わず無償の投稿によって作られ、基本的に一般書店には配本せず直接購読制をとった。それに対し、初期の「ロッキング・オン」は無償の投稿によって製作され、スタッフが書店に直接配本していた。
「ロッキング・オン」の場合、岩谷の発案がきっかけで第4号(1973年4月号)以降は、出版取次会社を通して全国発売されるようになる。内容の方も創刊号のように参加者のロック論をただ並べるだけでなく、次第にインタヴューやディスク・レヴュー、企画もの、コラムなどが盛りこまれるようになり、後にはカラー頁も増えて音楽雑誌らしい誌面構成になっていく。この雑誌の出発点でもある論考の部分については、創刊号では2頁のものから8頁のものまで各人の原稿の長さがまちまちだったが、やがて見開き2頁で揃える形に落ち着く。誌面が少しずつ整い商業ベースに乗る過程で、1982年からは掲載された投稿に原稿料が支払われるようになった。同年には運営組織としてのロッキング・オンを株式会社化している。企業規模が拡大するにつれ、社員も増えていった。
ただ、1990年5月号から編集長が渋谷から増井修に交代し、取材記事が多くなって頁数が増え、1970年代とは見違える姿になった「ロッキング・オン」にも、初期から残るものがあった。全体のボリュームが膨らむなかで、もはや誌面の一部にすぎず、読者の一番の目当てでもなくなった創刊号以来の論考コーナーを、編集部が「本文原稿」と呼ぶ慣習は残っていたのだ。また、1990年代はじめまで「編集部からのお知らせ」欄に「ロッキング・オンの記名原稿は全て投稿です。あなたの力作がロッキング・オンを作るのです。内容に制限はありません。何でも自由に、どしどし投稿して下さい」と記されていた。
それは、すでに実態とズレた文言だった。編集者=ライターだった当時のロッキング・オンでは、社外の常連投稿者でレギュラー化した者も含め、新作発表やアーティストの来日など、タイミングを見計らって編集部が特定テーマで依頼したものが、記名原稿の大半を占めるようになっていた。自発的で純粋な投稿は、わずかだったのだ。それでも社員を含め、原稿は投稿のように自由な態度で書くべしという理念が、形骸化しつつも残っていたのかもしれない。そうした理念に吉本の「試行」は影響を与えたとみられる。
渋谷が死去した際、橘川は2025年7月25日のXで「渋谷陽一は都立千歳が丘高校の社研か新聞部にいた」(※正しくは「千歳丘高等学校」)、「渋谷も吉本に強く影響を受けた一人だったと思う。吉本の「大衆の原像」という思想は、一人一人の生活者の目で世界をとらえる立場だ」などと連投した。「社研」とは社会科学研究部の略だろうし、学生運動が盛んだったその頃、「社会科学」の文字は、マルクスなど左翼的イメージと結びついていた。また、橘川は『ロッキング・オンの時代』で、渋谷と出会うきっかけになった「Revolution」を、東京の水道橋にあったウニタ書肆でみつけたとしている。それは、学生運動の機関誌とともにアングラ劇団のパンフレットなどもあつかう書店であり、政治意識を持つ若者と、(サブカルチャーというよりカウンターカルチャーと呼ぶ方がふさわしい)カルチャーの距離が近かった時代を象徴する場所だった。
吉本はそんな時代の全共闘世代に人気だった思想家であり、渋谷も読者だった。渋谷は1990年代以降、ロックだけでなく他のカルチャーや政治をあつかった雑誌も発行し、憧れの人だった吉本に原稿を依頼し、取材するなど親交を持った。2012年に自社サイトで吉本の死去に触れた際には、「これまで何度も書いて来た事だが、僕は吉本さんに影響されなかったらロッキング・オンを創刊しなかった」(渋谷陽一の「社長はつらいよ」https://rockinon.com/blog/shibuya/65361)と記している。その「何度も」のうちの1回が、吉本の主要著作に関し、17回にわたって渋谷が話を聞いた『吉本隆明 自著を語る』(2007年)の「インタヴュアー あとがき」だ。そこでも「僕にとって吉本隆明の影響は巨大であり、吉本隆明が居なければ自分で雑誌を創刊しなかっただろうし、今のように出版社を経営することもなかっただろう」と書いていた。
『吉本隆明 自著を語る』では、「試行」に連載された『言語にとって美とはなにか』についても語られている。その冒頭で渋谷は、「この雑誌の創刊と『言語にとって美とは何か』を同時に書かれたことは、すごく関係があるのではないかと私は思ったんですが」と尋ねる。それに対し、吉本は「そもそも『試行』は、村上一郎と谷川雁と僕の三人が創設同人みたいな形で、始まったわけ。この三人は何かっていうと、60年安保闘争でみんなあぶれた奴っていうか(笑)」と話し始める。その後、渋谷が特に「試行」に言及する場面はないが、1970年代の「ロッキング・オン」を知る者が読めば、感じるところがあるのではないか。その頃の「ロッキング・オン」が、同時代のロック・ジャーナリズムに不満を持った創刊4人組の結びつきによって持続し、成長したことを渋谷や橘川などはしばしば語っていた。先の渋谷と吉本のやりとりでは、4人組と似た関係性が先行して「試行」の創設同人3人にもあったように感じられるし、「大衆の原像」など吉本の思想面だけでなく、そうしたメディアの立ち上げ方が、渋谷に影響を与えたように思える。
ただ、「試行」からは間もなく谷川、村上が離れ、吉本の個人誌の性格を強めたのに対し、「ロッキング・オン」でも松村は寄稿や渋谷との対談記事を長く続けたものの、橘川、岩谷は1980年代に離脱していったのだった。
