第1話 ここから何処にも参らず
「場所に囚われずに生きたいんです」
旅人の青年はそう言った。帳場前の会話だ。私の友人とどこかの店先で会話が弾み、連れだって僕の店までやってきた。大きなリュックに古めかしいフィルムカメラを提げている。旅をするように暮すというのは自由な生き方で、羨ましくないわけではない。そうね、そういうのもいいねと心では思いながら、意地悪な僕は「でも僕は店を持つという、場所に囚われる生き方を選んだけどね」と返した。青年はちょっと不服そうに「囚われるのがいいというのと囚われてもいいは違いますよね」と答える。それはもう言葉遊びだね、と苦笑いで僕もまた返す。聞くと、彼はいま二二歳らしい。僕が尾道に移り住んだ年齢と一緒だ。
ある深夜のお客さんを思い出す。綺麗な東北訛りの青年。彼も京都で学生時代を過ごしたようで、京都話で盛り上がった。今は地元、青森で勤めているらしい。彼が会話のなかでふと「東京嫌いなんですよね、みんな持っていっちゃうから」と漏らした。みんなが何を指すかはあえて聞かなかった。実感の籠った言葉だった。でも、と彼は続けて「新宿二丁目に初めて行った時、こんな世界があるんだ、こんな自由な場所があるんだと思った」と続けた。僕には彼の矛盾が分かる。町や場所に対して矛盾を持たずに生きることのほうが難しい。
数年前までよく通っていたお好み焼き屋があった。(今は店を閉め、駐車場となって跡形もない)ガレージを改装して作られた店は尾道駅裏の住宅街にひっそりと佇み、店名は主の名前にちゃんが付された、古き良きスタイル。おかあさんと嫁いだ娘さんの二人で切り盛りをしていた。お客のほうも、ご近所のおばちゃん達に家族連れ、昼間から酒をひっかける爺さんと、屈託のない店の雰囲気のなかで食べるお好み焼きは幸福な味だった。遠方からお客さんがあるたびに、この雰囲気を味わって欲しくて連れだって昼を食べていた。
東京からの学生さんを連れ、店の娘さんと楽しく会話していた時のこと。学生はフットワーク軽く、いろんな地域をまわっているようだった。その話を聞いた娘さんは「東京にも行ったことがない」と何気なく話した。連れの学生がどうしてですか?と聞く。娘さんは鉄板に目を落とし、「この町から離れるのが怖かったから」とこぼした。昼間の一瞬の会話。その言葉が今も強く残っている。
町に囚われることと、守られていることは紙一重かもしれない。逃げるように尾道に移り住んだ自分の身からすれば、なおさらその思いが強い。夜、店を開けると、訪れたことのない町や国、僕の知らない世界を持ったお客さんがやってくる。町から離れないことによって、僕は遠くまで旅をする。
商店街を自転車で走らせば、必ず一人や二人知り合いとすれ違う。数少ない呑み屋に行けば、噂話の人物登場となる。互いに愛想笑い混じりの酒盛り一夜。店を続けていれば、いつの間にか「深夜の古本屋さん」でどこでも挨拶をすることになる。店を持つというのは、誰とも拘らず、深窓静かにというわけにはいかない。煩わしい瞬間もない訳ではないが、僕にとっては町の雑音にまみれて生きることが性に合っている。これを「町に囚われている」とするならば、まさしくその通りだ。町に囚われたまま、狭い路地で僕は踊っている。
夏の終り わたしの旅も終った
国の涯へきて 海を見ながら
旅の終り わたしの青春もまた終った
悲しみを欺きながら 欺きを抱いて
あけがた わたしはひとり出発した
大木実「出発」(『大木実全詩集』潮流社)