第7回 花と水と夢の季節
アーケードを自転車で走らせると笹の香りに満ちている。毎年、この季節になると地域の幼稚園や保育園の子どもたちの七夕飾りが商店街に並べられる。「プリキュアになりたい」「アンパンマンの仲間になりたい」「ヒーローになりたい」。ささやかな願いの笹林は風に揺れ、静かに夜へ溶けていく。子どもたちの夢に見下ろされながら、僕は一年ごとに齢をとる。
尾道の夏は祭りの季節だ。六月から七月にかけての毎週土曜日、「土曜夜店」と題し商店街に数多くの屋台が並ぶ。はしまき、リング焼に焼きそば。くじ引きに射的。いつもはまばらな人通りだった夜のアーケードもこの日ばかりは肩をぶつけるほどの賑わいだ。この土曜夜店の期間には久保八坂神社の祇園祭、御袖天満宮の天神祭、水尾町の水祭りと毎週のように地域の祭りが続き、住吉花火大会で打ちあげられる大輪の花で夏の盛りを迎える。
僕がこのなかでも特に好きなお祭りは、古本屋から歩いて数分の通りで開かれる水尾町の水祭り。大きな川がない尾道は各路地に井戸を有し、かつては人びとの生活を支えてきた。今でも道の片隅や裏路地で昔の姿そのままに手押しポンプ式の井戸を見つけることができる。江戸時代後期、貴重な水に感謝をこめてはじまったこの祭りは一度廃れたものの、老舗のお茶屋、今川茶舗さんを中心とする実行委員ら有志の方たちの尽力によって現代に復活した。祭りでは指先から細長く水が出るように細工を施した人形が通りに並び、見物客は肌を濡らしながら涼を楽しむ。手作りの人形は姿かたちも様々で、時事ネタをもりこみ大谷翔平を模したもの、村上水軍や小林和作など尾道ゆかりのもの、井戸の上で浮かぶドラえもんのタイムマシンといった手の込んだものまで、優しい素っ頓狂さに溢れている。このおもちゃ箱のような祭りが好きで、僕の店も去年より僅かばかりの協賛金を出すようにした。夏の尾道に来る際は是非とも一度は立ち寄ってみてほしい。
週末の祭りが賑わうほどに、平日の夜は濃く深く静かに感じる。山側から聞こえる虫の声を裂くように貨物列車は轟音で走り抜ける。昼間には姿を見せなかったノラ猫は気怠い足取りで飲み屋街へと歩いていった。煙草を一本、二本吸っている間に来客が一人、二人とあり、あっという間にカンバンの時間となる。
「夢は何ですか?」とそのお客さんは聞いた。古本屋という商売をはじめ、まがりなりにも生きていられること以上に、今の自分に夢というものがない。強いて言えば「死ぬまで古本屋を続ける」ということ。何年も前から、自分の命を自分だけのものと考えなくなった。自分の命の半分はお客さんのものという意識が強い。彼女に対しても同じようなことを伝え、つまらない答えでごめんねと詫びた。
ひと月前、常連のお爺さんからお金を貸して欲しいと切り出された。金額は三千円だった。「明日、急きょ病院に行かんといけんのですけど、年金が支給されれば返すので」と。その方にはよく缶ビールを貰ったりとお世話になっていたし、こんな店を頼りにしてもらえるならばと、あげたつもりで貸すことにした。今まで買った本を置いていくという話だったが、それは断った。しんどい時はお互い様、僕もずいぶんと支えられてきた。三万と言われれば迷ったが、三千円なら僕の貰った酒でも足りないくらいだ。こういう時こそ、うちのような古本屋の出番だろうとも。お金を貸すとき、お客さんの名前を初めて知った。
それから数週間後、またもや缶ビール二本をおまけにしっかりと返してもらえた。素直に嬉しかった。人を信じてよかった。
古本屋というのは大勢の人を掬いとる場所ではないと思う。一人が一人であるままに生きるためにあるとさえ。古本の棚で永遠となる一瞬を探す。死してもなお、書かれた本は今を生きる人を照らす。夏の光が強くなるたびに影もまたしかり、その影で見つけることのできる言葉もある。夢は見上げるものばかりではない。もしかすると、希望は夜道に残った水たまりに写っている。
月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちてゐた。
それを拾つて、役立てようと
僕は思つたわけでもないが
なぜだかそれを捨てるには忍びず
僕はそれを、袂に入れた。
月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちてゐた。
それを拾つて、役立てようと
僕は思つたわけでもないが
月に向つてそれは抛れず
浪に向つてそれは抛れず
僕はそれを、袂に入れた。
月夜の晩に、拾つたボタンは
指先に沁み、心に沁みた。
月夜の晩に、拾つたボタンは
どうしてそれが、捨てられようか?
(中原中也「月夜の浜辺」より)
