北澤書店 1/3

1月27日(水曜)


 明け方に雨が降ったせいか、地面はまだ少し濡れている。10時40分、北澤一郎さんはビルの入り口に立て看板を出す。開店時刻は11時だけれども、今日は早めに店に着いたのだという。2階にあるお店の入り口には、本が積み上げられている。

「ビルの屋上に物置があって、そこから本を下ろしているところなんです」と一郎さん。「来週の市場に出す本を用意しようと思ったんだけど、本を移動させるのがキツくなって、最近は人にお願いしてるんです。こういうのも古本屋の大事な仕事なんですけど、10年前に背骨の大きい病気をしてからはもうしょうがないってことで、体力がある人を雇ってます」

 店内には妻の惠子さんと、長女の里佳さんの姿もある。店内には音楽が流れている。昔はBGMをかけていなかったけれど、お客さんにリラックスした状態で本を見てもらえるようにと、静かにジャズをかけている。惠子さんは買い物に出かけると、2リットルのミネラルウォーターのボトルを2本抱えて帰ってくる。その水を使って、コーヒーメーカーでコーヒーを淹れる。一郎さんと里佳さんはカウンターに並んで座り、パソコンに向かって作業をしている。

「××さんから『お振込口座を教えてください』ってメールがきてるよ」と里佳さん。

「こちらにはまだ届いてないよ」と一郎さん。

「左上のぐるぐるっていうやつ、押してごらん」

「左上の?――ああ、届いた。返事の早い人はありがたいね」

 インターネットで注文するお客さんには、急ぎで本を手にしたい人が多く、対応が半日遅れただけでも「遅い」とクレームが入ることもある。反対に、注文後に連絡が途絶えるお客さんもいるそうだ。

「こないだもね、『日本の古本屋』というサイトを経由して注文があったんだけど、うんともすんとも言ってこなくて。1週間経っても振り込みがなかったから、『キャンセルさせていただきます』とメールを送ると、翌日に同じ人から再注文があった。どういうことだろうと思ったら、もう1週間待つと25日の給料日にかかるんだよね。だから、もう1週間待ってあげようと思って、『再注文をお受けしますから、26日までにお振込ください』とメモをつけて再注文のプロセスに入ったんだけど、今朝の時点ではまだ振り込まれてないんですよね」

 そんな話をしているところにコーヒーが完成し、惠子さんが運んできてくれる。一郎さんは何通かメールを返信すると、「ちょっと休憩です」とコーヒーを飲んだ。「北澤書店」の3代目にあたる一郎さんは、1955年、神保町に生まれ育った。当時の神保町は今とはずいぶん雰囲気が違っており、「あの頃は神保町にも市場があったんですよ」と教えてくれた。

「昔はね、神保町にも生鮮食品なんかを売ってる市場があったんですよ。それ以外にも、生活用品の専門店がそれぞれあったんですね。八百屋もあった、魚屋もあった、もちろん肉屋もあった。薬屋も、お裁縫道具を売ってる店もあった。神保町って家庭的な町で、全部ここで用事が済んだんです。このすぐ裏に映画館もあったしね」

北沢書店 - 22.jpeg

 今ではビル街となった神保町の風景だけを見ていると、「家庭的な町」という言葉が不思議に感じられる。一郎さんが小さい頃は、古本屋の経営者も従業員も住み込みで働いているところが多かった。仕事終わりに銭湯に行けば、同業者同士で顔を合わせて、湯に浸かりながら言葉を交わす。この界隈は「神田村」とも称されるけれど、「村」という言葉がぴったりくる。

「もし時間があれば、落丁がないか一緒にチェックしてもらえませんか?」コーヒーを飲み終えた一郎さんに、里佳さんが小さな本を差し出す。それはイギリスのチズウィック・プレス社から刊行されたシェイクスピアの作品集だ。

「これは××さんにお渡しする予定なんだけど、一緒にチェックしてもらえたらと思って」

 里佳さんは今、「KITAZAWA DISPLAY BOOKS」と看板を掲げ、ディスプレイ洋書を販売している。洋書を身近に親しんでもらえるようにと、空間を彩る装飾として洋書を売り出している。最近ではディスプレイ洋書を販売する業者も増え、メートル単位で料金を設定しているところもあるけれど、「KITAZAWA DISPLAY BOOKS」では1冊ずつに値段をつけ、店舗とオンラインストアで展開している。

「北澤書店」の中に、常時1万冊以上の在庫を取り揃え、お客さんに本を選んでもらえるようになっている。そこから本をお客さんに選んでもらうこともあれば、モデルルームやショウルーム、各種撮影や店舗内装に向けて、コーディネートを任されることもある。洋書自体にも興味を持ってもらえるようにと気を配りながら仕事を続けてきたおかげで、最近はディスプレイを入り口に「北澤書店」の顧客になってくれる人もいるのだという。

 チズウィック・プレス社からシェイクスピア作品集が出版されたのは、今からおよそ120年前のこと。それはちょうど、「北澤書店」が創業された時期とも重なる。

「北澤書店」の創業者である北澤弥三郎さんは、明治17年、滋賀に生まれた。16歳で上京すると、2年ほど神保町の書店で修業したのち、明治35(1902)年に独立する。現在の「北澤書店」の帳場には、祖父が経営していた時代の写真が置かれている。天井までぎっしり本が並んだ店内に、学生服姿やハットをかぶった男性が立ち、本を手にしている。

「この写真だとたくさん人がいますけど、祖父の時代は来客のない店だったそうです」。一郎さんが教えてくれる。「店頭で不特定多数のお客様を相手にするんじゃなくて、日本全国の大学や、台湾や朝鮮、満州建国大学なんかにも本を送っていた。当時は洋書専門じゃなくて、国文学を中心に扱っていたようです。1902年から1958年までが祖父の時代で、そのあとが父の時代です」

 一郎さんの父・龍太郎さんは大正6(1917)年生まれ。東京帝国大学で英文学を学んだこともあり、太平洋戦争が始まると海軍軍令部で敵国の情報を解読する部署に配属された。終戦後は研究者となり、東京都立大学で英文学を研究していたけれど、弥三郎さんが癌を患ったのを機に「北澤書店」を継いだ。

「父は戦争中、海外の情報を原文で読んでいたときに、西洋っていうのはすごいところだってことを自分なりに気づいたらしいんだよね。だから戦争が終わったとき、『海外の新しい思想を取り入れなきゃ駄目だ』と思ったみたいで、それでアメリカやイギリスの文学の研究者になったんです。この商売を継ぐか研究者を続けるか、相当迷ったみたいだけど、店を継いだときに『洋書は北沢』と看板を掲げて、洋書の輸入販売に切り替えたんです」

 弥三郎さんが亡くなったのは、龍太郎さんが店を継いで間もないころだった。当時3歳だった一郎さんは、お葬式のために大勢の人がお店にやってきた風景をよく覚えているという。実家が書店であり、そこで扱っているのは海外の本だということは早くから知っていたけれど、「内面的になじむことはなかったですね」と笑う。

「中学に入った頃から、父に英語の本を読まされるようになったんです。仕事を終えて、酔っ払って帰ってきた父と一緒に、英語の本を読むわけ。早く寝てくれと思ったけど、辞書を引きながら、一文ずつ訳していく。嫌でしょうがなかったけど、それで英語力がついたのは事実です」

 一郎さんの少年時代というのは、アメリカが輝いていた時代でもある。英語の勉強は嫌だったけれど、アメリカに対するあこがれは強く、高校3年の夏休みには交換留学生としてハワイに渡った。

「それまで映画やなんかである程度イメージはしてたんだけど、実際に行ってみると、やっぱり違うなと思ったことがあるんです。それはね、匂いですよ。風景は写真から想像した通りだったけど、空気の匂いが違ったんです。高校を卒業したあと、大学に入るまでのあいだに友達とアメリカ一周旅行に出かけたんだけど、そのときにも『これがアメリカの匂いなんだな』と思った。それを知ってから本を読むと、また迫ってくるものがあったんだよね」

 一郎さんが慶應高校を卒業し、慶應大学の文学部に入学するのは1973年のこと。この年、『宝島』という雑誌に、「J・J氏と神田神保町を歩く」と題したルポルタージュが掲載されている。書き出しはこうだ。


  「きょうは、どこに行こうかな......」

  おそい朝。その日の計画を立てるJ・J氏の頭のなかには、六本木、三軒茶屋、神保町――と、いくつかの街の光景が浮かんでいる。街の中心にはかならず、古本屋や洋書店がなければならない。あの本屋とあの本屋をまわって、それから、あの喫茶店でコーヒーを飲もう。多くの場合、J・J氏の外出スケジュールは、こんなふうにきまってゆく。そしてやっぱり、J・J氏の足は、ゆたかな収穫の期待できる神保町に向かうことが多い。


 その日、「J・J氏」こと植草甚一は「進省堂」と「東京泰文社」で本を買い込んだあと、「北沢本店」に立ち寄ると、6冊の本を手に取る。「『近頃の若い人はあまり値切らないようですが、値切るのが本当なんです』といいながら、J・J氏はじつに堂々と値切る」。そして「『先生にあっちゃかないませんな』などと、本屋の方も、結構たのしそうにまけている」と記されている。

「植草さんは、うちにもよく見えてたようですよ」と一郎さん。「先代である父が重病を患って、ぼくは学生時代から店を手伝ってたんですよ。当時から古本を扱ってはいましたけど、ぼくには新刊のほうが面白く感じられた。新刊だと、なんとなくその時代に合ったものが多いけど、古本は何の本かもわからないものも多くてね。ただ、父の中には『これからは古本をやんなきゃ駄目だ』という考えがあって、今のビルを建てるときに、1階で新刊を、2階で古本を扱えるように設計したんです。父は工事が着工した1981年に亡くなってるから、このビルが完成するところは見届けられなかったんだけど、『昔の本がどうやって読まれてきたかを勉強しないと、今のこともわからない』という考えが父にはあったんでしょうね。だから、大学を卒業して店を継いでから、ぼくは古本部門に力を注いできたんです」

 インターネットが登場するずっと前の時代、洋書の輸入販売に欠かせなかったのがブックス・イン・プリント――書籍総目録である。

「イギリスとアメリカで出版された書籍の全てが載っている目録があって、著者で引くのが4冊と、タイトルで引くのが4冊、こんな分厚い目録があったんです。書評や論文で本を知ったお客様から、『こういう本があるらしいんだけど』と問い合わせがあると、ブックス・イン・プリントで一個一個引いてね。それを見ると、なんていう出版社から、いくらで出てると書かれてある。換算レートから計算した値段を伝えて了承されたら、海外に注文を出す。エアメールは高いから船便で取るんだけど、スムーズにいっても3ヶ月はかかるんです。この本読みたいなと思っても、手に入るのは注文してから3ヶ月後だから、相当気の長い話なんです。その本が着いたらば、お客様には葉書でお知らせする。葉書ですよ、葉書。そうするとお客様が飛んでやってきてくれて、喜んで帰っていく。それが洋書の受注販売の基本的な姿だったんですね」

 一郎さんがお店を手伝い始めたころには、祖父の代に「北澤書店」で働いていた人の息子さんで、「人間ブックス・イン・プリント」と呼ばれていた人もいたという。その店員さんは四六時中ブックス・イン・プリントを繰っていて、タイトルを聞けばその本の在庫があるかどうか、在庫がなかったとしてもどこに注文すればどれぐらいで届くのか把握していた。「今はインターネットで大体のことはわかっちゃうけど、人力には人力のよさがあったかもしれないですね」。一郎さんはそう振り返る。

 本が届くまで3ヶ月も待ち、入荷を知らせる葉書を手に、書店に急ぐ。そんな時代を、ずいぶん遠くに感じてしまう。

 かつて神保町には、「北澤書店」だけでなく、「東京堂書店」の洋書部があり、アメリカ文学者・蟻二郎の経営する――そして「コクテイル書房」の狩野俊さんが働いていた――「ワンダーランド」があり、洋書の古本屋も何軒か存在していた。神保町の他にも、銀座には「イエナ」があり、高田馬場には「ビブロス」があり、渋谷の「大盛堂書店」にも洋書部があった。しかし、その多くは姿を消してしまった。

「ちょっと、資料会に行ってきますね」。惠子さんはコートを羽織り、出かけてゆく。東京古書会館で開催される古書交換会のうち、洋書を専門に扱うのは火曜日の洋書会だ。ただし、他の曜日の市場にも洋書が出品される場合もあるので、念のため確認に行くのだという。古書会館に出かけたあと、惠子さんは閉店間際の銀行に立ち寄り、通販の入金を確認してお店に戻る。

「他に入金はなかった?」と一郎さんが尋ねる。

「それだけでした」と惠子さん。

「再注文を受けた本の代金は、結局振り込まれませんでした」。一郎さんが残念そうにつぶやく。「本屋っていうのはやっぱり、注文が入ると喜ぶわけだよね。売れるっていうことは嬉しいことだから。それが後になって抹消されちゃうと、最初から注文が入らない方がいいわけです。だから、自分なんかがレストランを予約するときにも、ものすごく気を遣うんだよね。どうしてもキャンセルしなきゃいけなくなった場合、やむをえないときは頭を下げてお願いするけど、相手はがっかりしただろうなと思うからね」

 肩を落としていたところに、新たな注文が入る。今度の注文は代引きなので、すぐに発送手続きにとりかかった。「領収書を同封して欲しい」とリクエストがあったので、領収書も用意する。この領収書を、封筒に入れたうえで、本と一緒にぷちぷちで包んだ。

「裸でそのまま入れる店もあると思うんですけど、ぼくは封筒で入れるようにしてます。向こうからメールで『領収書を同封してください』と言ってきているわけだから、お客様としては領収書というのは大事なアイテムなわけですよね。こっちは荷造りして発送しちゃえば終わりだけど、お客様のほうでは荷物が届いてから始まる。『ああ、やっと届いた』と、楽しみにして開けてくださると思うんです、きっと。そこで一瞬でも『領収書が入ってないんじゃないか?』と思わせると、がっかりすると思うんです。お客様の期待に水をかけるようなことはしないようにって考えると、店頭で販売するときよりもかえって気を遣うんですよね」

 パソコンを導入したのは、30年近く前のこと。当時はまだ今のようにインターネットが普及していなかったけれど、コンピュータに詳しい社員に奨められて、独自のソフトを開発し、仕入れと販売、それに顧客のデータを管理するシステムを構築した。

「コンピュータを入れてから、目録作りはすごく楽になりました。それまでは本を引っ張り出して、原稿をタイプして、ノートに貼りつけて印刷屋に持っていく。目録を作るたびに、その作業を繰り返してたんです。そういう作業をやらなくて済むようになった一方で、朝から晩までコンピュータに向かって仕事をするようになった。人間がパソコンにくっついているような感じがして、人間の自由があんまりないなと思ったんです。自分もパソコンを使って仕事をせざるを得ないんだけど、コンピュータによってどんどん人間が追い込まれてるような感じがしましたね」

 パソコンを導入して10年が経過したころに、問題が浮上した。独自に開発したシステムを使い続けるにはアップデートが必要となり、そのためには相当な金額がかかるという。迷いに迷った挙句、一郎さんは投資を決断する。アップデートには成功したものの、インターネット書店の台頭により、洋書の売り上げは下降し始めていた。そこに、アップデートのための投資が負債としてのしかかる。このままでは経営を維持できないと判断し、2005年8月31日、「北澤書店」は一時閉店する。

「自分の決断としては、あの投資は大失敗だったんだよね」。一郎さんは静かに当時の心境を振り返る。「あのときはもう、そのまま店を辞めることも考えたんです。1階と2階を一緒に借りてくれる人がいれば、洋書店を辞めようと思った。でも、両方借りてくれるテナントがどうしても見つからなくてね。とにかく借金を返さなきゃいけないから、2階の古書部門だけを存続させて、家内とふたりで店を続けることにしたんです」

 新刊の売り上げに比べると、古書の売り上げの下げ幅は緩やかであるように感じられた。スピードが求められる新刊に比べると、古本であればまだ存在価値があるのではないか。「そんなふうに漠然とした、一種の信奉とともに船出したような気がしますね」と一郎さんは語る。

「北澤書店」が再出発したのは、2005年10月12日である。リニューアルにあたり、一郎さんは売り上げ目標を立てた。最盛期の古書部門の売り上げを200とすると、せめてその半分、100は売り上げようと決めた。再出発した初年度の売り上げは、100の目標に対し、15パーセント届かなかった。当初の目標は達成できないながらも、数年前にはどうにかお店が抱えていた借金を返済し、「北澤書店」は今も営業を続けている。

「売り上げノートを見てみると、今週はちょっと少なくて、昨日なんかは買ってくれたお客さんはひとりだけで、売り上げは400円だったんです。売り上げがゼロの日も、1回か2回だけありました。20年前までは、売り上げがゼロは経験したことがなかったんです。台風で交通がストップするような日でも、店を開けていればお客さんがきて、本を買ってくれた。そういう経験が、今も深いところで支配している部分があるんです」

北沢書店 - 2.jpeg

 16時になると、惠子さんがもう一度コーヒーを淹れてくれる。ヤマト運輸の配達員が集荷にやってきて、荷物を運び出す。コーヒーを淹れ終えると、惠子さんは本の仕分け作業に戻ってゆく。

「これは来週の市場に出す本なんですけど、こうやって見始めると、全部うちの店に置きたくなっちゃうんです」。本を手に取りながら、惠子さんは笑う。

 ディスプレイ用に洋書を販売する。そのアイディアを思いついたのは惠子さんだった。ディスプレイ用に仕入れたものでも、その本がもう一度、内容で選ばれるチャンスを得られるように必ず一郎さんにチェックを入れてもらい、必要であればディスプレイとは別の棚に置いてもらうという。

「家内とふたりで店を始めてしばらく経った頃に、彼女がカゴを買ってきて、トーストを並べるみたいに本を並べ始めたんです。それが全部売れて、まとまった金額になったんですね。ぼくは本の中身で値段をつけたんだけど、見た目で本が買われていくことがあるんだな、と。それで『ディスプレイ』って言葉を使って、こつこつ家内が始めたわけです」

 最初のうちは、装飾のために本を売ることには少し抵抗を感じていた。創業から100年以上の歴史を誇る「北澤書店」が、本を飾りとして売るのかという批判もあった。ただ、昔の方法論で洋書を販売しているだけでは、売れ行きは右肩下がりになってしまう。

「父の時代は、良い本さえ持っていればそれでよいという時代だったんです」と一郎さんは語る。「お客様が自分で探して到達してくれるから、良い本をいつも揃えていることが大事だ、と。だから父は、本を仕入れてくると『店に置いとけ』と指示するだけで、店頭でお客様に接することはほとんどしなかった。でも、今のような状況で本を売ろうとすると、相当な努力が必要になる。もともと本に関心がないような人にまで、なんとか興味を持ってもらおうとしないと売れないわけ。そのへんのところは時代が変わったのかなと思いますね」

 時代の変化に対応できるようにと、2018年の秋に店内を大幅にリニューアルした。それまでディスプレイとして販売する本は外の廊下に並べていたけれど、冬は寒くて夏は暑い場所で本を選んでもらうのは商売としておかしいのではないかと、本の配置を大幅に変更したのである。現在では、英文学を中心とした専門的な洋古書と、インバウンド向けに日本をテーマにした洋書と、ディスプレイ向けの洋書、この3つを同じ比率で店内に並べている。

 閉店時間を迎えたところで、「北澤書店」をあとにする。途中で「東京堂書店」に立ち寄ると、常盤新平さんの『片隅の人たち』が文庫化され、平積みされていた。これを買い求めて、コートのポケットに入れて、駅を目指す。地下鉄の車内で文庫本を取り出し、ページを繰ると、こんな箇所に目が留まる。

 道玄坂を少しあがって、両側に洋服屋や化粧品屋などが並ぶ路地をはいっていくと、碇さんの古本屋があった。店先に新着の「プレイボーイ」が吊してあって、その下には「ライフ」や「サタデイ・イヴニング・ポスト」などの雑誌が山積みにしてあり、左右の壁にはペイパーバックがぎっしりと並び、奥の書棚にはハードカバーがおいてある。アメリカの雑誌と本だけを扱う古本屋はほかになかったので、はじめて行ったとき、僕は宝の蔵にはいった気がした。

 この古本屋の名前をいまだに知らない。はたして名前があったのかどうか。夏は暑いし冬は寒い店だったけれども、そんなところへ毎日のように通ったのは、おそらくそこに新しい、しかし薄汚れたアメリカがひっそりあったからだろう。汚れてない本はほとんど一冊もなかったが、新宿の紀伊國屋書店にも日本橋の丸善にも、またときどき覗いていた銀座のイエナにもアメリカのペイパーバックはまだなかったし、雑誌もなかった。(...)

(常盤新平「翻訳の名人」)


 ぼくが手にしているのは真新しい文庫本だ。こうして目で文字を追っていると、汚れた本の手触りがどこか伝わってくるような気がしてくる。そして、自分がほとんど嗅ぐことのできなかったアメリカの匂いを想像する。