コクテイル書房 3/3

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12月30日(水曜)

 高円寺を歩くと、昨日までは見かけなかったポスターがあちこちに貼られている。杉並区商店会連合会の年賀ポスターだ。「謹賀新年」という文字の下に牛の絵があり、「新年は 日から営業します」と、お店ごとに営業再開日を記入できるようになっている。

 セントラルロードの入り口にある古本屋「都丸書店」のシャッターにも、このポスターが貼られていた。ただし、「新年は 日から営業します」と書かれた部分には二重線が引かれている。ポスターの下には、「高円寺にて88年、皆様に支えられて営業してまいりましたが、2020年12月31日をもちまして閉店することになりました」と書かれた貼り紙がある。28日からずっとシャッターは降りたままだから、このままお店を閉じるのだろう。

 正午過ぎに「コクテイル書房」に到着すると、店内に脚立が立てられていて、「監督」と斉藤さんが改修工事をしているところだ。リニューアル・オープンから数日が経ったこともあり、細かな修正作業をしようとやってきたのだという。

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「監督」というのは、照明家の山口洸さん。普段は演劇の仕事をしていて、ここ数年で「コクテイル書房」のお客さんになった。改修工事は、狩野さんと斉藤さんだけでやるつもりでいたけれど、来店したおりに工事の話をすると、山口さんが乗り気になってくれたのだという。最初は照明だけをお願いするつもりだったが、自分たちで描いたざっくりした図面を渡すと、完璧な図面に仕上げて持ってきてくれて、山口さんに現場監督をお願いすることになった。

「監督、何時ぐらいまで作業します?」と狩野さんが尋ねる。改装工事中は監督がトップで、店主の狩野さんが一番下っ端だ。

「いや、もう終わりにしようかと思って」と監督が言うので、隣の「薮そば」から出前をとることになった。狩野さんと斉藤さんは鴨南蛮を、監督はけんちんうどんを注文して、小上がりで昼食をとる。小上がりはグループ客でなければ座る機会がないので、監督はちょっと嬉しそうだ。

「調理場の油はねガード、どうしよう?」うどんを啜りながら監督が切り出す。現状では調理場のコンロに囲いがなく、目と鼻の先にあるガラス戸に油が跳ねてしまっている。「ひとつには、ステンレス板を買ってきて、立てかけてビスで打つか。あるいは、耐熱ガラスを買ってくるって手もあるけど、それは特注になるから、どれぐらいのお値段になるかは見積もりを取ってみないとわかんなくて」

 監督の説明をしばらく聞いていた斉藤さんは、「油はねガード、要ります?」と狩野さんを見る。

「油はねガードをつけたとしても、どっちにしてもガラス戸に油は跳ねると思うんです」と狩野さん。
「それに、ステンレスの板を立てちゃうと、調理してるとこがお客さんから見えなくなっちゃう。油が跳ねても掃除すりゃいいんだから、ガードはなくてもいいと思うんですよね。料理してるとこがお客さんから見えてると、それはそれで緊張感があっていいんじゃないかと」

「たしかに、お客さんから見えてると緊張感あるね」と斉藤さん。

「オムレツとかね」

「そうそう、オムレツは緊張する」

 こんなふうに、監督は狩野さんや斉藤さんに確認を取りながら工事を進めてきた。ただ、監督のアイディアも存分に反映されている。たとえば、小上がりにあるテーブルは、黒いペンキがどこか汚らしく感じられるようになってきたので、これを機に処分するつもりだったものだ。でも、監督が「できるだけ物を捨てずに改装したい」と言ったことで、ヤスリで削って塗装を剥がして、足を付け替え、茶色く塗装しなおしたという。店主である狩野さんがすべてを決めるのではなく、改修工事に監督の感覚が入り込むというのは、どこか不思議な感じがする。

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「店っていうのは、店主のものじゃないんですよ」。料理の仕込みに取り掛かりながら、狩野さんが言う。昨日に引き続き、自家製オイスターソースを仕込んでいるところだ。

「いろんな人に『ここは自分の店だ』と思ってもらえたほうが、店も広がるし、長く続くと思うんです。そう思えるようになったのはここ1、2年のことで、それまでは『店は俺のもんだよ、俺が店だよ』と思ってた側の人間なんですよね。昔はほんとに社会性がなくて。個人商店って、社会性なんてなくてもやれるんです。うまいラーメン作ってりゃ行列ができるんだから、そこに社会性なんて必要ないじゃないですか。でも、商店会の活動をやっていくうちに、店というのも社会の中にあるひとつの空間なんだなと気づいて。だから店は店主のものじゃないと思えたし、だからこそ店主はサボらずに店を開けなきゃいけないと思うようになったんです」

 社会の存在を知ったのは、こどもと盆踊りのおかげだと思う――狩野さんはそう振り返る。児童館や保育園、そして小学校と、こどもを通じて社会と関わるきっかけが増えてゆく。そして、こどもが生まれたのと同じ年に現在の店舗に引っ越してからは、商店会と関わるようになり、現在では副会長を務めている。ぼくは「コクテイル書房」にそこまで頻繁に通ってきたわけではないけれど、この10年のあいだ、店が地域にひらかれていくのはずっと感じていた。

 窓の外を、親子連れが通り過ぎてゆく。年末年始の買い出しに出かけたのか、父親は大きな袋を2つ提げている。こどもはウルトラマンのソフビを手に、嬉しそうに駆け出す。

 15時になると仕込みを中断し、掃除にとりかかる。昨日と違って、今日はガラスというガラスをすべて磨く。別に年内最終営業日だからというわけでなく、定期的にすべて磨くようにしているのだという。全部のガラスを磨くだけで、50分以上経過している。

「昔はね、店番してんのがほんとに嫌だったんです」。カウンターを拭きながら、狩野さんが笑う。「店をやっていると、開店時間には否応なくお客さんがやってきて、それを僕は選べないわけですよね。だから、コロナになって店を休んだときに――酒場は休んでても、店に来て古本の仕事はずっとしてたんですけど――すごく楽だったんです。家に帰ると、『ああ、俺はもう、二度と店番やんない』と妻に言うぐらい、楽だったんですね。その期間に、自分は人間が嫌いだったんだなとしみじみわかって。これまでは人間が嫌いだなんて言う勇気がなかったんですけど、自分は人間が嫌いなんだとわかったことで、徐々に人間が好きになってくる。そうすると、お客さんに出す料理も変わってくるし、ここの空気も変わったんだと思います」


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 掃除機をかけ終えたところで、狩野さんは夕食をとりに帰る。今日も誘ってもらったけれど、お店のツマミをあれこれ注文してみたいこともあり、今日は遠慮しておく。ひとりで留守番していると、柱時計の音だけが響く。17時半に狩野さんは店に戻ってきて、火鉢に炭を入れる。今日の夜から寒波が襲来するとニュースが報じていたけれど、日が暮れた途端に風が強くなり、ガラス戸ががたがた音を立てる。

「もうやってます?」

 17時40分、最初のお客さんがやってくる。「ええと、6時からなんですけど、どうぞ」。狩野さんはお客さんにビールを出してから、店内を整えて音楽を再生し、表の札を「OPEN」に切り替える。この日は予約のお客さんが多かったこともあり、開店時刻の10分後には満席になる。隣に座った若者たちは漱石カレーを注文し、カレーを待ちながらカウンターの本を読んで過ごしている。狩野さんの手が空いたタイミングを見計らって、3食限定の「東坡肉(トンポーロー) 大根と煮卵添」(750円)を注文する。昨日、何にしようか迷っていた豚肩ロースだ。1杯350円のトリスハイボールをちびちび飲んでいるうちに、夜は更けてゆく。閉店時間が近づいたところで、「上海焼きそば 自家製オイスターソース!」(750円)を〆の料理として頼んだ。21時が近づくと、お客さんはひとり、またひとりと帰ってゆく。良いお年を、と狩野さんはお客さんを見送る。1時間以上も掃除していたところを見ているせいか、狩野さんは店主というより、管理人のようにも見えてくる。

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「ああ、ある意味では管理人に近いかもしれませんね」。閉店後の店内で洗い物をしながら、狩野さんが言う。「それは水平的な意味だけじゃなくて、垂直的な意味でもその感覚はあるかもしれないです」

 水平的が「同時代的」という言葉に置き換えられるとすれば、垂直的は「歴史的」に言い換えられる。

「コクテイル書房」が扱う古本というのも、過去から現在、そして未来へと、垂直的に引き継がれてゆくものだ。

「ある時期、古本の持つ意味って何だろうなと考えたときがあったんですよ。それは、永井荷風の『濹東綺譚』を昭和12年版で読んだとき、タイムスリップをするような感じであの世界に入っていけたんです。テキストを読むということは、元の版で読むのと、文庫で読むのと、電子書籍で読むのとでは全然違う経験なんじゃないかと思ったときに、古本屋ってのはなくならないなと思ったんですね」

 洗い物を終えると、狩野さんは火鉢から炭を拾い出す。鍋に入れた炭は、店先で水をかけて火を消す。この火鉢は、買い取りに訪れたお宅で、「古いものが好きな人に扱ってもらえるのなら」と譲り受けたものだ。


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「コクテイル書房」は、大正時代に建てられた古民家を改装したお店だ。改装工事を経た今でも、当時の面影は随所に残っている。リニューアルを機に設置したガラス戸も、新品ではなく、建具を扱うアンティーク・ショップで探してきたものだ。カウンターに使っている木材は、近所の中華料理屋が閉店するときに梁を譲り受け、加工してカウンターに使っている。


「これは別に、古い建具を意識的に継承しようとしてきたわけじゃないんです」と狩野さん。「ただ単に、僕は昔の時代が持っていた、ゆったりとした時間の流れが好きなんだと思うんです。昔の空気や時代感をまとっているものが好きで、意識せずにこういう建具を使ってきたんだと思います。一方で、昔のものが残るのが当然いいし、古い木造建築が取り壊されて新しくてつまんないものになるのは本当に悲しいんだけれども、それを嘆いていても仕方ないなとも思っていて。時間が進んでいくなかで、時代の空気感を残すためには、新しい空気を取り入れつつ、昔のものを腐らせないようにすることが大事だと思うんです」

 もう一杯飲んでいきませんか。狩野さんの言葉に甘えて、トリスハイボールをもう1杯だけ飲んだ。今は350円だけれども、消費税が上がるまえまでは300円だった(トリスウィスキーのシングルが250円で、ソーダ代が50円)。今から10年前に「コクテイル書房」で飲んでいたころは、今よりもっとお金がなくて、「すみません、今の段階でお会計はいくらですか?」と狩野さんに確認して、財布の中身を確認しながら飲んでいた。

 あの頃に比べると、ぼくも変わったし、狩野さんも変わったし、「コクテイル書房」も変わった。そしてこれからも変わり続けていくのだろう。だからこそ、今年のことは忘れないように、こうして日記に綴っておく。


※新型コロナウイルス感染拡大を受け、コクテイル書房は現在休業中です。

 改装工事を経て、コクテイル書房の缶詰工場は近日中に稼働予定です。
 最新情報はコクテイル書房のTwitterアカウント @cocktail_books よりご確認ください。