第1話 京都を終の住処に選んだ10の理由

 京都を終の住処に選んだのは、10年あまり東京との二拠点生活をしてみて、居心地が良かったから。東京と京都のどちらか(あるいは、東京でも京都でもないほかの街)を選ばなくてはならなくなり、よーく考え、妻ともよーく話し合った末、京都を終の住処に選んだ。ほかでも書いたことだけど、あらためてその理由を整理してみよう。

1 時間がゆっくりと流れる

 東京と京都の往復生活を始めてすぐ気づいたのは、新横浜駅や品川駅と京都駅の空気の違いだった。東京から京都に向かうときは、新横浜か品川から新幹線に乗る。新横浜線が開通するまでは、東横線で菊名まで行き、横浜線に乗り換えて新横浜に向かった。あるいは目黒線・山手線で品川へ。菊名も新横浜も目黒も品川も、どの駅も混雑しているけれど、京都に向かうときはさほど苦痛ではない。というかこれがあたりまえになっていた。京都で新幹線を降りて、市営地下鉄に乗り換える。JRも地下鉄も、駅構内は人の流れがゆっくりしている。観光客が多いせいもあるが、地元の人もゆっくり歩いている。最初はイラッとすることもあったが、そのうちこれが正常なのだと気づいた。東京の人は急ぎすぎる。
 京都で10日間すごして東京へ帰る。地下鉄で京都駅へ向かい、新幹線に乗る。車内でお弁当を食べて新横浜(あるいは品川)に到着。このとき駅構内の空気が京都とはまったく違うことに気づく。ピンと張り詰めているのだ。人の流れも速い。小走りの人も多く、なかには全速力で走る人もいる。こちらはひ弱な老人なので、ぶつからないよう端のほうを気をつけながら歩く。なんだかみんな殺気立っている。横浜線に乗り換えると、皆さん不機嫌そうな顔をしている。いや、べつに不機嫌なのではなく普通なのだけど、ぼくも10日前はこんな顔して電車に乗っていたのだけど、なんだか不機嫌そうに見える。
 駅だけでなく、街を歩いていても、京都の人はゆっくり歩いている。観光客はあっち見たりこっち見たりしながら歩いているから自然と歩みが遅くなる。地元の人もそれに合わせるかのようにゆっくり歩いている。この「ゆっくり」が老人のぼくにはちょうどいい。

2 街がコンパクト

 京都は東京に比べるとうんと小さな街だ。大阪や名古屋と比べても小さい。人口が少ないだけでなく、都市の機能がほとんど洛中に集まっている。もっとも、「洛中」がどこを指すのかはけっこう曖昧で、豊臣秀吉が作った御土居(京都の中心部を囲むように作られた土塁)の内側だという人もいれば、上京区・中京区・下京区の3区だという人もいるけれども。
 ぼくが住んでいるのは河原町丸太町という、繁華街からは少しはずれたところ。だけど大型書店もスーパーマーケットもデパートもたいていの施設は徒歩圏にある。観光名所でいうなら、銀閣寺も南禅寺も八坂神社も三十三間堂も西本願寺も二条城も自宅から歩いて行ける。
 日常生活する上で必要な施設が徒歩圏に集まっているというのは、老人暮らしにとって重要だ。ぼくは書店を取材するために全国のいろんな街に行ったが、地方の人口数万人から数十万人規模の都市は、駅前の旧繁華街がさびれてシャッター通りになり、商業施設は郊外の幹線道路沿いに点在しているところが多かった。クルマでの移動が前提で、運転できない人には厳しい。つまり移動の自由がない。京都はクルマなしで生活できる。

3 坂が少ない

 坂道が好きだ。とくに上り坂が好き。上りながらときどき振り返ると、さっきとは景色が変わっている。下りは慎重になるので、上りほどは好きじゃない。
 東京が坂の多い街だと実感したのは、2020年にアキレス腱を切ったときだ。退院した後もしばらくリハビリが必要だったが、左脚を装具で固定し、松葉杖をついて歩くとき、東京はなんて坂だらけなんだろうと思った。元気なときは坂があると嬉しかったけれど、ケガをして「坂の多い街は、年を取ると考えものだな」と思った。
 京都は三方を山に囲まれた盆地で、街はお盆の底にある。日ごろ食料品の買い物をしていて、坂がないことがどんなにありがたいか、たとえば重い大根や南瓜を買って帰るときなど痛感する。雨の日も。
 お盆の縁のほうには有名なお寺や神社──清水寺、八坂神社、知恩院、南禅寺、銀閣寺、金閣寺、仁和寺など──が点在している。坂が恋しくなったら、これらのお寺に行けばいい。

4 山と川と森林

 年をとって花鳥風月を愛でるようになった。これは自分でも意外だ。山を眺めたり、川べりを歩いたりすると、気持ちが落ち着く。京都は東・北・西に山がある。東には送り火で知られる大文字山をはじめ東山の峰が連なる。大文字山の北には比叡山。反対側、西には嵐山。
 丸太町通や御池通、三条など東西の通りを渡るとき、東を向くと東山が見え、西を向くと嵐山が見える。その日の天気によって見え方が変わる。晴れて湿度が低いときはくっきりと、湿度が高いとぼんやりしている。雲が低く降りていて見えないときもある。秋になるとところどころ紅葉する。ぼくは「ミッソーニのセーター」と呼んでいる。冬はときどき雪をかぶる。春先は山桜のピンクが見え、やがて新緑で輝き出す。
 家の近くを鴨川が流れている。週に何度か、川べりを散歩する。走る人(『鴨川ランナー』)、何かのゲームをする人(『鴨川ホルモー』)、ペタンクをする人、楽器を奏でる人(『息のかたち』)、ぼんやりする人。いろんな人がいる。川の音が聞こえ、山が見えるだけで、いい気分になる。
 京都御所・京都御苑の存在も大きい。木々の間を歩いていると気持ちが穏やかになってくる。

5 和菓子店が多い

 そもそも二拠点生活のきっかけは茶の湯だった。お茶の稽古に通ううちにお茶を点てる部屋がほしくなったのだ。茶の湯の楽しみはいろいろあるけれど、和菓子が重要だ。和菓子なしの茶の湯は考えられない。三千家や藪内流などの家元がいてお寺も多い京都には、いい和菓子店がたくさんある。ほんと、よりどりみどりの和菓子天国だ。そういえば、青木るえかさんは、和菓子の毒々しい色が苦手だといっていたけれども。

6 野菜がおいしい

 老人になったら、野菜が好きになった。若いときは、野菜なんて好きじゃなかった。ほんとうは肉を食べたいのだけど、お金がないのでしかたなく選択するのが野菜だった。それが年をとるにつれてだんだん野菜をおいしいと感じるようになり、旬の季節を待ち望むようになった。そして、二拠点生活をするうちに、京都の野菜のおいしさに目覚めた。たぶん水がいいからだろう。日較差が大きいことも関係していると思う。

7 本屋環境が整っている。

 京都も新刊書店が減っている。ここ最近でも、京都駅八条口前のアバンティブックセンター、四条通のジュンク堂書店、河原町四条のブックファースト、京都駅の三省堂書店、烏丸四条のくまざわ書店がなくなった。大丸のふたば書房も、烏丸四条の大垣書店も北大路の大垣書店も。うちのご近所だった三月書房も、建築書の大龍堂もない。
 でも、BALの丸善もあるし、大垣書店は四条通新町の本店をはじめ京都駅八条口のイオンモールなどあちこちにある。そしてご近所の誠光社をはじめ独立系書店がどんどん増えている。他の都市に比べるとまだまだ書店環境はよい。
 新刊書店だけでなく古書店も多い。江戸時代から続く老舗もあれば、もちろんブックオフも。京都大学や同志社大学の周辺には学術書を扱う古書店が集まっているし、寺町通には業界でいう黒っぽい本を置く店がたくさんある。もちろん古書の総量や古書店の集中度では神保町に及ばないけれども、小さな古書店を覗いて歩く楽しみがある。

8 飽きることのない街

 光村推古書院の『京都手帳』を愛用している。普通のスケジュール帳に京都のさまざまな行事が書かれている。観光地図や鉄道とバスの路線図も載っている。祇園祭の山鉾の位置と巡幸のルートなども。日記・手帳のシーズンになると、京都の書店には新しい『京都手帳』が並ぶ。
『京都手帳』を見ると、毎日のようにどこかのお寺や神社で何らかの行事があることがわかる。たとえば6月は何もない月と呼ばれているけれども、1日は貴船神社のお祭りや北野天満宮の雷除大祭があり、平安神宮では薪能がある。2日は本能寺の信長公忌と安楽寺のくさの地蔵縁日、3日は延暦寺の伝教大師御影供と萬福寺の開山忌というふうに。京都は行事が多い。
 三大祭りといわれる葵祭(5月)、祇園祭(7月)、時代祭(10月)のほか、節分祭(2月)やお火焚き祭(11月)もあるし、五山送り火(8月)や地蔵盆(8月)もある。それぞれの神社のお祭りやお寺の行事もある。KYOTOGRAPHIE京都国際写真祭(5月)もある。
 たいていの行事は、見るだけならお金がかからない。三大祭りは有料観覧席が設けられるが、地元の人は利用しない。ぼくはゆっくり歩きながら見る。
 冬はマラソンや駅伝の大会も多い。スポーツにはまったく関心がなかったけれど、高校駅伝を見て感動してしまい、それから沿道で応援するようになった。

9 病院と診療所が多い

 老人にとっては重要なこと。京都市は人口あたりの病院と診療所の数は全国平均より少し多い程度だけど、医師の数は全国トップクラスらしい。わが家から徒歩圏に大学病院や大きな病院が3つある(そのため、よく救急車のサイレンが聞こえる)。小さなクリニックはあちこちにある。お隣も内科のクリニックだ。
 長生きしたくはないけれど、痛いのや苦しいのや不快なのは軽減したい、と思っている年寄りは多いと思う。というか、たいていの人はそう思っているだろう。だから、実際に行くかどうかは別として、病院や診療所が近所にあると安心できる。
 もっとも、医師が多いからといって、みんな優秀かどうかは別問題。アキレス腱を切ったときに診てくれた整形外科医は、はっきり言ってヤブだった。あのとき東京に戻って手術していなかったら、杖が手放せない生活になっていたと思う。

10 タクシーがたくさん走っている

 東京ほどじゃないけれど、公共交通機関が発達している。鉄道とバスを使えばたいていのところに行けるし、本数もまあまあ多い。めったにタクシーを使わない。動く密室であるタクシーは、どちらかというと苦手なのだ。
 京都はタクシーが多い。どこでもすぐつかまれられるし、もちろんアプリも使える。そして、東京に比べると渋滞が少ない。インバウンドで京都は大渋滞なんてニュースが流れたりするけれども、混雑するのは清水寺や嵐山などごく限られた場所、桜や紅葉シーズンなど限られた時期だけ。この「いざとなったらタクシーがあるさ」というのも、老人暮らしの安心材料。病院・診療所と同じく、一種の保険みたいなもの。

 とりあえず10個並べてみた。この10個があるから京都を選んだというよりも、京都を選んだあとでよく考えたら10個が浮かんだという感じかな。

_DSC7589.jpg