第2話 老いを感じるとき

 老いを自覚してから、終の住処というものを意識するようになった。なんだか人生の「おしまい」が見えてきた、というわけである。
 ある日、見知らぬ老人が立っていた、よく見ると鏡に映った自分だった、なんて話をたまに目にすることがあるけれども、ほんとうかなぁ? 自分の顔はしょっちゅう見るでしょう。1日に何度も。顔を洗うときや歯を磨くとき。商業施設のトイレに入れば、洗面台(あそこで顔を洗う人はめったにいないから、手洗い台か)に鏡があるほか、出入り口には全身が映る鏡がある。鏡に映るのは見知らぬ老人ではなく、見慣れた顔の老人である。老いはゆっくり少しずつやってくる。
 老いを実感するのは、何年かぶりに友人知人と会ったときだ。メールはときどき交わしていたけれども、会うのは5年ぶり、10年ぶりなんてことがときどきある。相手が年をとったことにちょっとショックを受ける。白髪が増えた、皺が増えた、お腹が出た。いろいろと変化している。でも、たぶん相手もぼくを見て同じように感じているだろう。永江も年をとったなあ、おじいさんになったなあ、と思っているに違いない。

 たしかに鏡に映った自分の顔を見ると「年をとったなあ」と思う。髪の毛はまだあるが、薄くなった。毛が減ったというよりも、1本1本が細くなり、コシもなくなった。生え際が後退して額が広くなった。頭頂部が禿げていわゆるザビエル状態になったらスキンヘッドか坊主刈りにしようと思っているのだが、今のところまだ毛はある。
 毛はあるが、側頭部はほとんど白髪だ。頭頂部は白黒混じってグレー。後頭部は見えないからわからない。外出する時は帽子をかぶっていることが多いのだが、帽子から出ている部分は白髪だ。たまに電車で席を譲られることがあるが、「帽子から出ている部分を見て白髪の老人だと思っているのだろう(オレはそこまで老けてはいないさ)」と解釈している。もちろん礼を言って座らせてもらう。
 いや、違うのだ。席を譲った若者は白髪だけ見てぼくを老人だと判断したのではない。ぼくたちが他人の年齢を判断するときは、髪の毛だけでなく全身の感じを見ている。姿勢とか肌のようすとか(以前、漫画の入門書をチラ読みしたら、老人男性を描くコツは、膝を少し曲げて猫背気味に、とあった)。
 額や目尻などの小皺が増え、皮膚の張りがなくなった。首にも皺が増えた。頬に老人斑ができて、皮膚科で取ってもらったこともある。手の甲には血管が浮いている。そのくせ検査のために採血しようとすると血管が見つからない。ちりめん皺というのだろうか、細かな皺がたくさんある。老人の身体だ。ぼくは全体的に老人になったのだ。

 というわけで、日々、老いを実感するわけだけど、いくつかターニングポイントのようなものがあった。
 いちばん大きかったのは白内障だ。50代の終わりに飛蚊症が始まり、それと関係あるのかどうか知らないけど、白内障も気になるようになった。63歳のときに白内障の手術を受けた。手術そのものはどうっていうことなかったが、手術前の検査で瞳孔を開く薬にアレルギーを起こして結膜炎になり、その治療薬でもアレルギーを起こし、というひどいことになった。たまたま朝の情報番組「あさイチ」の仕事があり、真っ赤な目で涙を流しながら本の紹介をした。
 手術をしてものの見え方が劇的に変わった。手術前は白いレースのカーテン越しの世界にいるようで、しかも左目はあまり見えていなかった。それがくっきり鮮やかに見えるようになった。しかし、良いことばかりではない。ピントというものがなくなったことにいまだ慣れないでいる。
 手術で入れる眼内レンズは単焦点ものと多焦点のものがある。保険がきくのは単焦点。ぼくが手術を受けた白内障専門のクリニックでは、多焦点のものは小型自動車が買えるぐらいの値段だった。単焦点はよく見える範囲が狭く、そうでないところは眼鏡で矯正する。多焦点は近くも遠くもよく見える。しかし、多焦点には輪郭がにじむなどデメリットもあるらしい。困るのは試用というものができないことで、メリットとデメリットの情報を集め、想像して判断するしかない。
 ぼくは単焦点を選んだ。理由は、多焦点よりもクリアに見えるらしいことと、保険がきくこと。値段のこともあるが、保険がきくということは厚生労働省がOKしているということ。厚労省を信頼しているわけではないけれど、保険適用外=自由診療=自己責任と言われるとビビる。というわけで20〜30㎝の距離で焦点が合う眼内レンズにした。裸眼で本を読める。これは快適。寝床でもどこでも、どんな姿勢でも読める。眼鏡なしで本を読めるのは小学生のとき以来だ。
 しかし、ピントという機能がないというのは想像したよりも不便だ。目をこらしても見えない。焦点距離を固定して絞りを開放にしたカメラみたいなものである。いちばん困るのは針に糸を通すときだ。ハズキルーペに助けてもらう。
 遠近両用眼鏡を使えば万事OKだろうと楽観していたけれど、遠近両用は足もとがフワフワした感じで疲れる。仕事(パソコン操作)用、調理&食事用、外出用など、いくつかの眼鏡を使い分けている。

 目の次はおしっこ。トイレが近くなった。膀胱が小さくなったのか、ゆるんだのか。もともとトイレは近い方だった。クルマでどこかに出かけるときは、公衆トイレの位置確認が必須だ。それが年をとってひどくなった。といっても、医者に相談すると頻尿というほどではないらしい。
 以前、弘兼憲史さんが「尿意、ドンだよ」といっていたけれど、「トイレに行きたいな」と尿意を感じてから、「もう限界かもしれない」と切迫するまでの時間が短くなった。昔は「トイレに行きたいな」と思っても、30分やそこらは大丈夫だったのに、今は10分でもきびしいかも。
 しかも、どういう具合なのか、日によってはしょっちゅうトイレに行きたくなることがある。トイレに行って1時間も経たないのに尿意が襲ってくる。トイレに行くとちゃんと出る。水分の摂り過ぎということはないと思うのだけど。
 だから長い映画は映画館で観られない。『国宝』も配信になってから自宅で観た。途中、ポーズボタンを押してトイレに行き、戻ってプレイボタンで再開。安心、快適。プロジェクターで壁に投影すると120インチぐらいになるので、自宅でもけっこう楽しめる。
 それにしても、最近は長すぎる映画が多くないか。映画は1時間半から2時間が適正だと思う。その3時間は、どうしても必要な3時間だろうか。もっと刈り込めるところはないのか。短くできないのは監督に編集能力がないからではないか......なんて八つ当たりしたりして。老化とトイレ問題はなかなか深刻である。
 余談だけど、これは小説にもいえる。「この長さ、ほんとうに必要だったのかな」と感じる作品がときどきある。

 声が嗄れる。もともと声が小さいうえに嗄れるものだから、はなはだ聞き取りにくいことになっている。頑張って声を出すと喉が痛くなってしまう。しかも、その痛みが2〜3日続くから困る。ラジオや講演の仕事をしていたときは、のど飴(森下仁丹の「鼻・のど・甜茶飴」がすごくいいとNHKのアナウンサーに教えてもらい、しかしドラッグストアを何軒見ても見つからず、ネットで取り寄せたら、これがすごく良かった)と水でしのいでいた。
 昨年、両親と祖母の十三回忌、叔父の七回忌、従弟の妻の一周忌をまとめてやって、集まってくれた親戚を前に挨拶のスピーチをしたのだけれど、何を言っているのかぜんぜん聞こえないと大不評だった。
 50代のころ、近所の耳鼻科で診てもらったことがある。「「あー」と声を出してください」と医者に言われ、声を出しながら喉の奥の写真を撮られた。元々奇形で声帯がちゃんと閉じないらしい。声帯にヒアルロン酸を注入する治療法もあるけれど、ヒアルロン酸は数ヶ月で吸収されてしまうので効果は持続的ではないと言われた。
 最近、ますます声が嗄れるので、去年は別の耳鼻科で診てもらった。鼻から入れたファイバースコープで見ると、やはり声帯が閉じてない。しかし、こちらの医者は、「これは加齢によって声帯が痩せてしまったため。対処方法はありません」と言われてしまった。おじいさんになったのだなあ、と実感する。
 でも、放っておくわけにもいかない。妻の強いすすめもあって、ボイストレーニングに通うことにした。このボイトレ・スクールには65歳以上のシルバーコースもある。ということは、同じ悩みを抱えた老人が多いということだ。

 アイドルの見分けがつかなくなった。どのアイドルも同じ顔に見える。これはかなり前から。2003年、45歳のときに東京・奥沢に家を建てた。テレビの置き場所はつくらなかった。アンテナも立てなかった。当初はケーブルテレビを契約して、小さなモニターをつないでいたが、数年でそれも見なくなった。家の中ではFMかCDが流れていた。アイドルについてのぼくの知識はせいぜいモーニング娘。で止まっている。AKB以降はまったくわからない。そういえば、まだAKBのプロジェクトが始まったばかりでまだほとんどメディアに露出していなかったころ、何かの取材で篠山紀信さんにお会いしたら(六本木の防衛庁横にあった磯崎新設計のあの事務所だ)、AKBがいかにすごいかを篠山さんが例の調子で熱弁して、でもぼくはいまひとつピンとこなかった。
 アイドルに限らずなにごともそうだと思うのだけど、似たようなものを大量に見ていると、やがて個々の違いが見えてくる。ぼくは「ボールが止まって見える瞬間」と呼んでいる。たとえば「どうやってお金を増やすか」というテーマの実用書は大量に出ているけれど、10冊ぐらいまとめて読むと、「どの著者も共通して主張していること」と「他の著者は言っていない、その著者独自の考え」が見えてくる。それと同じで、アイドルについても大量に見ていると、それぞれのアイドルの個性や魅力がわかってくるのだろう。だからテレビも所有せずアイドル雑誌も見ない生活になると、どのアイドルの顔も同じに見るようになる。
 もっとも、アイドルの顔がみんな同じでも、ぼくにとって困ることはひとつもない。
(この項、続く)

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