第3回 2カ月 拡大と縮小

  • 幸せなひとりぼっち (ハヤカワ文庫 NV ハ 35-1)
  • 『幸せなひとりぼっち (ハヤカワ文庫 NV ハ 35-1)』
    フレドリック バックマン,坂本 あおい
    早川書房
    1,100円(税込)
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  • 超難関中学のおもしろすぎる入試問題 (平凡社新書)
  • 『超難関中学のおもしろすぎる入試問題 (平凡社新書)』
    松本 亘正
    平凡社
    1,034円(税込)
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 という訳で、前回宣言した通り、【誰? フェア】の話の続き。
 桜木紫乃の新刊『ヒロイン』(毎日新聞出版)から、〝なりすまし〟というテーマを思いついた訳だけど、それだと「なりすましフェアに選書されている時点でネタバレ」というケースが発生しそうで、どうも上手くない。ならばと、ひとヒネリしてみたのが【誰? フェア】という訳だ。そのラインナップは以下の通り(順不同)。

『民王』池井戸潤(文春文庫)
『偽者』ローレン・オイラー(岩瀬徳子/訳 早川書房)
『僕たちの戦争』荻原浩(双葉文庫)
『曲った蝶番』ジョン・ディクソン・カー(妹尾韶夫/訳 早川書房)
『八日目の蝉』角田光代(中公文庫)
『スキップ』北村薫(新潮文庫)
『君の顔では泣けない』君嶋彼方(KADOKAWA)
『象は忘れない』アガサ・クリスティ(中村能三/訳 クリスティ文庫)
『ふたりのロッテ』エーリヒ・ケストナー(池田香代子/訳 岩波少年文庫)
『復員殺人事件』坂口安吾(河出文庫)
『ヒロイン』桜木紫乃(毎日新聞出版)
『月の満ち欠け』佐藤正午(岩波書店)
『闇に香る嘘』下村敦史(講談社文庫)
『とりかへばや物語』鈴木裕子/編(角川ソフィア文庫)
『イヴリン嬢は七回殺される』スチュアート・タートン(三角和代/訳 文春文庫)
『王子と乞食』マーク・トウェイン(村岡花子/訳 岩波文庫)
『総理にされた男』中山七里(宝島社文庫)
『骨の記憶』楡周平(角川文庫)
『贋作』パトリシア・ハイスミス(上田公子/訳 河出文庫)
『おくり梅雨』早見俊(ハルキ文庫)
『秘密』東野圭吾(文春文庫)
『ある男』平野啓一郎(文春文庫)
『砂の器』松本清張(新潮文庫)
『オレと俺』水生大海(祥伝社文庫)
『首無の如き祟るもの』三津田信三(講談社文庫)
『豆の上で眠る』湊かなえ(新潮文庫)
『火車』宮部みゆき(新潮文庫)
『誓約』薬丸岳(幻冬舎文庫)
『柳生十兵衛死す』山田風太郎(河出文庫)
『おれがあいつであいつがおれで』山中恒(角川文庫)
『ブルーもしくはブルー』山本文緒(角川文庫)
『蟻の菜園』柚月裕子(角川文庫)
『彼女たちの犯罪』横関大(幻冬舎文庫)
『犬神家の一族』横溝正史(角川文庫)
『影武者徳川家康』隆慶一郎(新潮文庫)

 これだけの幅を持たせれば、「ラインナップをもとに作品の結末が予想出来てしまう」といった不都合は解消されるのではなかろうか? 無論、これらをただ並べただけでは「何のこっちゃ?」と理解して貰えないかも知れないので、フェアの看板も自作した。大きさは、A3を横に2枚。

誰? パネル.jpg

 ついでながら、看板、パネル、ポスター、POPなどなど、拡材(拡大販売材料)に関しては、出版社が作ったものは極力使わないようにしている。「俺の方がセンスがいい」などとうぬぼれている訳ではなく、既製品ってのはどこでも目にする分だけ、逆に目立ちにくいと言うか、刺激に乏しいと言うか、記憶に残りにくいと言うか。

 試しに、今日、電車やバスなどの公共交通機関を使った人、そこで目にした筈の広告をどれだけ覚えてますか? っていう話。よほど関心のあるテーマ以外は、殆ど記憶に無いのが普通じゃなかろうか?
 見ても興味を持たれない、覚えて貰えない、そんなPOPなら、邪魔なだけじゃん? だったら、下手でも自作した方がなんぼかマシ......ではなかろうか。その方が「売らされた」のではなく「自分で売った」という手応えも得やすいし。

 勿論、新聞広告の切り抜きを持参して「この本あります?」ってな問い合わせは、日常茶飯事。だけどそれは、数ある広告の中から自分の関心の高いものを取捨選択した後の行為な訳だ。

 対して店頭での拡材の場合は、
①それを購入するために来た人に「ここにありますよ」とアピールするのは最低限で、
②全く違うものを買いに来た人にも「おや?」と思って貰いたいし、
③そんな商品が存在することすら知らなかった人も「何これ?」と足を止めて貰いたい。
④しかもチャンスは、お客さんがその場を通り過ぎる僅か数秒間。
 こんな厳しい条件で、あっちこっちで目にする既成のPOPが、果たしてどこまで効くんだろう? 見慣れた、もっと言えば見飽きたPOPで、上記のような効果を期待できるんだろうか?

 更にエラそうなことを言えば、出版社の仕事は、いい本を作って、それをきちんと書店に届けるところまで。それをどうやって売るかは、本屋の仕事だと思うんだよね。
「だから出版社は拡材なんか作るな」と言いたい訳ではないよ。自分たちで丹精込めて作った本ならば、そりゃポスターだってPOPだって作りたくなるのが人情だし、それを否定するつもりは毛頭無いけど、本屋の側が最初っからそれをアテにするのは手抜きじゃね? と思っちゃうんだな、私は。

 仕事への取り組み方ってのは十人十色で「これだけが唯一の正解」なんてものは無いんだろうから、後輩にそういった考え方を強要しないようにはしてるけど、少なくとも私自身は〝本を売るための工夫〟を、作り手側に依存してしまうことには、かなりの抵抗を感じると言うか、もはやストレスでしかない。
 前にも似たようなことを書いたけど、入って来た商品を並べて、版元が作った拡材をディスプレイするだけなら、作業を担うのが私でなければいけない理由はどこにあるんだ?

〝やり甲斐〟だとか〝存在価値〟などと気負っている訳ではなく、〝やらされてる仕事〟だけじゃ面白くないじゃん、ってことね。
 多分、大抵の人にとって、仕事の九割までは〝やらなきゃいけないもの〟だろう。放ったらかしておくと後で余計面倒になったり怒られたりする。だからみんな、かったるくても面倒くさくても、我慢してやっている。
 でも、と言うかだからこそ、〝やりたい仕事〟〝楽しい仕事〟は、無理にでもスケジュールにねじ込みたい。

 そんな訳で私の場合、フェアの準備は選書やパネル作りも含めて──余り褒められたことではないんだろうけど──大抵、休日に自宅でやってる。いや、勤務時間中は忙しくってそれどころじゃないのよ。本屋ならみんな、分かってくれると思うけど。
 だからと言って「書店員たるもの、そのぐらいの覚悟を以て仕事に臨むべきだ」などと露ほどにも考えている訳ではなく、先ほども言ったように、その方が仕事で〝楽しいと感じる時間〟が増えるから。

 無論、時間外手当なんぞ入らないし、「休日まで使って頑張ってるな」なんて思ってくれる上司がいるかと訊かれたら、多分、一人もいないと思う。ってか、私がフェアの仕込みを自宅でやっていることすら知らないだろう。
 それを、損だと捉えるかどうか、ってことだと思うんだ。
 私の場合は、「やらなきゃいけない仕事を終えたら、あとは余計なことはするな」と禁じられる方が、損と言うよりツラいだろうな。

 要は、好きでやっているだけなのだ。会社のためでも、上司のためでもなく、自分のためにやっている。やってもやらなくても、貰える給料は変わらない。だとしたら、〝楽しいと感じる時間〟が増える分、やった方が得ではないか。
 それが絶対だと言い張るつもりはないけど、そういう考え方もあっていいよね、とは思う。

 ふと思い出した言葉がある。フレドリック・バックマン『幸せなひとりぼっち』(坂本あおい/訳 ハヤカワ文庫NV)という作品で、少年時代の主人公に、父親が優しく諭して言うセリフだ。

《いい仕事はそれ自体が褒美だ》

 至言、だと思う。自己満足と紙一重ではあるし、何を以て〝いい仕事〟とするのかという問題はあるけど、「いい仕事をしている」という手応えを感じている時の高揚感や、それを首尾よくやり遂げた時の達成感は、誰しも経験があるだろう。

 つまらない仕事を嫌々やったのなら、そりゃあ報酬でも貰わないと割に合わないとは思う。だけど、やってて楽しかったなら、そして完了した時に充実感を覚えたならば、「元は取った」と思っていいんじゃないだろうか。
 うろ覚えだが、嬉々として何かに打ち込んでいる子どもに報酬を与えるとモチベーションが下がる、という実験もあるそうだ。

 因みに件の小説は、偏屈で人嫌いな初老の男性が、馴れ馴れしい隣人たちの騒動に巻き込まれるうちに次第に心を開いてゆくという物語。ユーモアとアイロニーに溢れた文章は、こなれた翻訳のお蔭もあって、笑いを堪えて読み進むのは困難だ。何度読んでも「人生も世の中も、そう悪いことばかりではないよな」と思わせてくれる作品なので、この機に強くおすすめしておきたい。

 さ、フェアの話に戻ろう。
 脱線が相次いで、もはやどこからが脱線でどこからが本筋なのか分からなくなってきたけど、フェアの仕込みとして、実は毎度、こんな小冊子も作っている。A4の紙を横に使って、週刊誌なんかと同じ両面印刷・中綴じ。表紙も含めて20ページから24ページぐらい。
 これを大量に製本してフェア台に置いて、好きに持ち帰って貰う方式でやっている。

フェア小冊子.JPG

 こんな面倒なことするよりも、ブログなりFacebookなりを使った方が効率的ではないか? といった質問を何度か受けたことがある。
 出た。伝家の宝刀〝効率的〟!

 例えばネットで気になった記事を〈お気に入り〉とか〈あとで読む〉とかに保存しておいても、私の場合は大抵そのまま放ったらかしで忘れてしまう。或いは、今やアカウント無き者は人に非ず、といった感のあるSNS。そこでバズッたトピックスのうち、半年後も人々の話題になり続けるネタが、果たして何割あるだろう? 或いは「去年の今頃、何がバズッてた?」と訊かれて即答出来る人がどれだけいるだろう?

 そこへいくと、紙媒体の場合、何となく手に取ってカバンの中に入れっ放しになっていたものが、電車の中でスマホゲームに飽きた時なんかに、ふとした気まぐれで読んで貰えるかも知れない。リビングのテーブルの隅に放ったかしてあるのを、家族の誰かが目にとめてくれるかも知れない。或いは、その時すぐには効果が無くても、何度かパラパラめくっているうちに、気になる作品が出て来るかも知れない。

 恐らく日本人の平均よりも遥かに多くの本を読んでいる私ら書店員でも、見てすぐレジに持って行くような本は、そう頻繁には無いだろう。買いたい、読みたいという気持ちは、じわじわと満ちてくることの方が多いと思う。
 速攻で広範囲にという勝負ではとてもSNSに敵わないけど、紙媒体には紙媒体の強みがあるのではないか。

 それともう一つ。実は、そのフリーペーパーで紹介した作品そのものが、必ずしも売れなくてもいい。
 例えば「今日は『ONE PIECE』の発売日だな。どうせなら、あの店に行ってついでに小冊子も貰って来よう」。そう考えて来店してくれれば、それで充分苦労の甲斐はある。
 勿論、一番の目的はフェアの商品が売れてくれることだけど、休み明けに出勤してフリーペーパーがごそっと減ってたりすると、嬉しいもんだよ。

 これも、始めた頃──確か2007年とか、そのぐらい──は、A3のペラ1枚だったのが、やってて楽しいから自分なりにモデルチェンジを重ねた結果こうなった。版元の営業さんなんかが「凄いですね!」とびっくりしてくれることがあるけど、初めからこうだった訳じゃないんだよ(笑)。継続は力なり、ってね。

 それともう一つ。フェアって、こうやって準備に手間ひまかけると、充実感や達成感の他にも自分の中に財産が増えてゆく、という点には言及しておくべきかも知れない

 一つのテーマを決めてそれに合う作品を調べたり(例えば前述の【狭くて深い本 フェア】)、先に軸になる作品を決めてそれに寄り添える作品を探したり(今回の【誰? フェア】)、その時々でプロセスは異なるけど、どんな方法を採ろうと変わらないのは、フェアをやる度に知らなかった作品、見過ごしていた作品に出会えるということ。平たく言えば、商品知識が増える。
 そりゃそうだよね。数週間に1回のペースで、全く違うテーマで数十点の本を選ぶんだから、手持ちの情報だけで足りる訳がない。調べまくり、訊きまくる。結果、知識のストックは増す。

 それを「得したな」と捉えることが出来ると、精神的にだいぶラクになる。

 脱線、続ける。
 時給なのか月給なのかはたまた年俸制なのかにかかわらず、我々被雇用者は、決められた金額で雇われている。だから、同じ金額を貰えるのなら出来るだけラクをした方が得だ、という考え方もある。それはそれで否定するつもりはない。私だって、無駄に苦しいよりもラクな方がいい。
 ただ一方で、こんな考え方も出来やしないだろうか。

「どう働こうと収入は変わらないのであれば、お金以外の何かで得をしよう」

 店の商品や備品を失敬しようという意味ではないよ、念のため。そうではなくて、技術でも知識でも或いは人間関係でもいいから、給料以外に何か一つ手に入れることが出来たら、その分得したことになるんじゃね?

 例えば、接客用語を手始めに言葉遣いを覚えよう、でもいい。資料を作る過程でExcelやPower Pointに習熟するでもいい。手際のいい掃除の仕方でも、電話応対のイロハでも、報・連・相の基本でもいいし、職場を離れてもつき合える友だちだっていい。とにかく、給料以外にも何か持ち帰ることが出来たらラッキーだよね、と。
 もっと直接的な言葉を使った方が分かりやすいかな。つまり、

「こんな安月給だけじゃ損だから、仕事のついでに何か役に立つことを身につけよう」

 しかも、そうやって手に入れたプライスレスな何かは、異動、転職、定年退職などで今の職場を離れた後も、きっと自分を支えてくれる。

 まぁ昨今は〈やり甲斐搾取〉なんて言葉もあるぐらいで、雇う側がこれを言うのは卑怯だと思うけど、雇われる側が考える分には自由だろう。
 給与明細を見て「給料上がんねぇかな」と望み薄な期待をするより、「安月給だけど、代わりにパワポ使えるようになった」などと考えた方が、心にゆとりが出来るんじゃなかろうか。

 少なくとも、私は、そう考えるようになって気持ちがラクになった。だから、かつての私のように「安月給でここまで働かされて割に合わねぇよな」と腐っている若い人がもしいたら、試しに上記のように考えてみてはどうだろう? ことによると、毎朝の出勤の足取りがほんの少し軽くなるかも知れないよ。

 それが私の場合は、フェアを通しての商品知識だったりフリーペーパー作りだったりした、というだけの話だ。さっき、自分のためにやっていると言ったのは、そういう意味も含んでいる。
 要は、好きなんだな。

 業界の人が「立派ですね」というニュアンスで誉めてくれることがたまにある。「創意工夫が立派ですね」「続けることが立派ですね」「手間を惜しまず立派ですね」といった調子だ。だけど、立派というのは、嫌いなこと、苦しいことでも辛抱してやり遂げる人のことを言うのだと思う。
 私の場合、好きでやってるだけだからなぁ。

 それでもアドバイスめいたことを一つ加えるとすれば、私も最初から「フェアを得意科目にしよう」などと考えていた訳ではない、という点だろうか。

 フェアのテーマを考える、それに沿って選書する。その作業自体が、まず楽しい。楽しいから、またやりたくなる。やる度に商品知識は増えていく。次はああしてみよう、今度はこうしてみよう、なんて具合にもっと工夫しようという気にもなる。そうやって経験を重ねるうちに、「フェアに関しては、他の人より得意かも」といった自信もついてくる。
 好きで得意なら、子どもだって続けられるよね(笑)。

 だから、この項で言いたいのは「オリジナリティで勝負するために、書店員なら独自のフェアを実践すべきだ」なんてことではない。フェアが苦手だったら、他で勝負すればいいだけの話だ。

 接客が好きなら、そのスキルを磨けばいい。「今日は何人のお客さんに笑顔を貰えるか」「何人のお客さんから『ありがとう』って言われるか」、そんなことを目標にするのもいいだろう。ぶっきら棒で居丈高なお客さんを笑顔にしたら私の勝ち、なんてゲーム感覚を取り入れるのもアリだろう。
 POPを描くのが好きなら、「1日1枚、必ずPOPを描く」とかね。自分がPOPを描いた商品が1か月で何冊売れたか記録を続けたら、1年後、2年後には、面白いデータが揃うかも知れない。好きな作品を30点選んで、敢えてタイトルを伏せたPOPと一緒に展開して【どれがどのPOPでしょう? フェア】なんて楽しいかも。

 好きこそものの上手なれ。そうやって〝好き〟なものを〝好き〟だけで終わらせず、より楽しむための工夫を考えてみる。楽しい要素が増えれば続けられる。いつの間にか「あの人の接客は、若い人のお手本だよね」とか「あの人がPOP描くと売れるよね」とか、言われるようになっているかも知れない。
〝個性〟とか〝持ち味〟とかいうものは、一朝一夕には出来ないけれど、同時に誰にだって手に入るもの、でもあると思う。

 などと話が脇道に入りまくってる間に、例の『超難関中学のおもしろすぎる入試問題』松本亘正(平凡社新書)が売れている。10月ひと月で46冊も売れた。再展開を始めた8月から3か月間で、98冊の売上だ。こうなるともう、なまじの新刊よりも動きがいい、という事態だ。完全に軌道に乗ったと考えて間違いない。
 あと気をつけなきゃいけないのは、切らさないように追加の発注を常に意識しておくこと......だけじゃないんだな。

 売れてるさなかにこんなことを言うのもアレだけど、展開を縮小するタイミングが実は大変難しい。

 どんな商品でも〝売れている〟状態が永遠には続かない。いずれは〝売れていた(けど今はそうでもない)〟という状態へと下降してゆく。その時に〝売れている〟と〝売れていた〟の明確な境界線があれば助かるのだが、そんなものはある訳ない。
 そもそも同じ「46冊売れました」という結果でも、50冊も60冊も売れる商品が幾つもある時期なら「そこまで売れてる訳じゃない」と判断せざるを得ないし、目だったヒット商品が他に無い時期なら「今はアンタが主役」ということになる。

 更には、我々の主観の問題も見逃せない。
 例えば事前に「20冊ぐらいは売れるだろう」と考えていた商品が46冊売れたら、「やべ、スゲー売れてる!」となるし、逆に「100冊は売れそうだ」と期待していた商品が46冊だったら、「あんまり売れなかったな」と感じてしまう。

 要は、売れてるとか売れてないとかは、実は非常に相対的かつ主観的な問題で、だから、まだまだ売れるのに縮小してしまったり、売れ行きがだいぶ鈍っているのに大展開を継続したりという罠にハマる。
 私の場合は、特に今回のように自分の気づきをきっかけにテコ入れをした商品は、愛着もあって、売れ行きが落ちてからもついつい粘ってしまうことがよくある。
 或いは「これは売れそうだ」と思って展開したのに、期待したほど売れなかった時。「うーん、もうちょっとしたら売れ出すんじゃないかなぁ」と、〝売れていない〟という現実よりも、己の期待を優先してしまう失敗を、何度も繰り返してきた。

 勿論、当初の期待通りに売れなかったら、「ダメだこりゃ」と返品する前に、POPを替えるとか場所を変えるといった悪あがきは、一通りした方がいい。売上の面だけでなくマナーの点からも、そうすべきだ。

 だけど、ある程度の努力をしても売れなかったら、それはもうしょうがなかろう。狙ったものが全て狙った通りに売れるほど、ラクな商売をしている訳ではないのだ我々は。

 例えば、縦5面、横6面、併せて30面並ぶエンド台の一角で、4面を占めている商品がちっとも売れていない、という場合。そのエンド台は〝26面しか無い〟のと同じだ。別の言い方をすれば、店の売り場面積を削っているということだ。どこかで諦めて、他のもっと売れそうな商品に場所を明け渡さないと、売上に響く。
 その上、〝売れない商品〟=〝お客さんが興味の無い商品〟の展開を続けることで、「つまんねぇ店だな」と思われて足が遠のいたりしたら、取り返しがつかない。

 商品の展開を縮小することは、拡大することよりも難しい。売上は、ある商品の展開を拡大することでは落ちないが、縮小しないことが原因で落ちることは、ままあるのだ。

 そんな慎重論も頭の片隅に置きつつ、さすがに『超難関~』に関しては、再展開してお客さんの反応が出始めたばかりだから、当面は追加手配のチョンボで品切れを起こすことを心配すべきで、さっそく電話で50冊ほど、発注したのでした。