第6回 5カ月 庶民シュート

  • クスノキの女神
  • 『クスノキの女神』
    東野 圭吾
    実業之日本社
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  • クスノキの番人 (実業之日本社文庫)
  • 『クスノキの番人 (実業之日本社文庫)』
    東野 圭吾
    実業之日本社
    990円(税込)
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 こんにちは。ちょっと間が空いてしまったけれど、相変わらずでございます......。

 って言うか、またやらかしたよ。正確には、やらかす一歩手前で事なきを得たんだけど、我ながらホント相変わらず。
 順番にお話ししましょう。

 6月に東野圭吾の『クスノキの女神』(実業之日本社)が出たじゃん。これがドカンと売れるだろうなってのは、ベテランの書店員じゃなくても簡単に予想がつく訳だ。更に本書は、去年の4月に文庫化された『クスノキの番人』(実業之日本社文庫)の続編だってことも、文芸書とか文庫を担当している者ならば、言われなくても分かる訳だ。問題はその後。

 言われなくても分かることを〝どう行動に結びつけるか〟?

 新刊の『~女神』に合わせて文庫の『~番人』も一緒に並べようってのは、恐らく誰でも思いつく。だけど、私はそういうのが好きじゃない。何のヒネリも工夫も無く皆と一緒に前へ習え! ってのに抵抗がある。
 しかも『~番人』は文庫化されたのが僅かに1年前で、その時は店の一等地にドーンと積んで散々売った訳だ。当然それはどこの書店もやったろうから、オリジナリティだの持ち味だのといった要素はゼロ。
 それを、今ここでまた大展開するのかぁ? そんな芸が無いことやりたくないなぁ。

 と思ってたら、後輩君が『~女神』の発売に合わせて『~番人』を発注してドカ積んでた(笑)。
「まぁいいか。売り場の構成として全然ワクワクしないけど、一応セオリー通りで間違ってる訳じゃないんだし」というのが、その時の私の正直な気持ち。
 ところがどっこい、蓋を開けたら驚き桃の木山椒の木。

『~番人』がいやはや売れた。なんと、文庫の週間ベストで3位にまで上がった。同時期に『白鳥とコウモリ』も幻冬舎から上下巻で文庫化されたから、週間ベストで1位『白鳥とコウモリ 上巻』、2位『白鳥とコウモリ 下巻』、3位『クスノキの番人』という、東野圭吾1、2、3フィニッシュが2週続いたりもした。

「スゲーな、東野圭吾!」とか、のんきに驚いている場合ではない(いや、凄いのは確かに凄いんだけど)。

 後輩君が『~番人』を注文していなかったら、週間ベストで2週連続で3位に入るほどの──しかも3位陥落後も暫くはベスト10内に居座ったほどの──売れ筋を、そうとは気づかずスルーするところだったんだぞ! 分かってんのか、俺っ!?
 何やってんだろうね全く。『B型自分の説明書』の頃から、全然成長してねーな(涙)。

 ここで言い訳──ではなく、皆さんの反面教師となるべく、私の思考の道筋を説明してみたい。

①まず『クスノキの番人』は著者が東野圭吾なだけに、単行本が発売された2020年の春にもドカンと積んだしドカンと売れた。
②前述の通り文庫化された去年の春にも、やはりドカンと積んでドカンと売れた。
③さすがにもう売り切ったろう、と考えた。
④全く売れないとまでは言わないが、棚前に1面積んでおけば充分だろう、とも考えた。
⑤加えて、『白鳥とコウモリ』が文庫になった。こちらは上下巻だし、たとえ熱心なファンでも、そうそう東野圭吾の本にばっかりお金を遣う訳にはいかんだろう。
⑥その上、自分の売り場をあちこちの書店と似たような風景にしちゃうのは、俺の主義に反する。

 とまぁ、そんなことを(ここまできちんと言語化した訳ではないけど)考えたのだ。
 今振り返ると、我ながら「何が主義に反するだ、笑わせんじゃねーよ」である。

 私がこの業界に足を踏み入れた1990年代半ばってのは、識者とか知識人とか呼ばれる方々に、書店業界が散々に批判された時代であった。曰く「日本の書店は没個性的」、曰く「どこに行っても金太郎飴の如し」、曰く「価格競争が無いぬるま湯に甘えている」etc......。
 で、当時は会社の上層部の人たちもそれを真に受けたんだか憂えたんだか、「特色を出せ」、「提案型の売り場を作れ」みたいなことを頻繁に口にした。それでいてリアリティのある改善策や方法論は殆ど聞いた記憶が無いから、恐らくはエラい人たちも具体的にどうすりゃいいのか分からないまま、〝個性〟とか〝提案型〟といった言葉に酔っていたのではあるまいか。

 そういう環境で育ったが故に、他の店と似たような売り場を作ることにアレルギーとでも言うべき反応を示す書店員は、とりわけ私と同世代には少なくなかろう。
 その結果、例えば私の場合はフェアで工夫する術を身につけたりした訳だからプラスの面も無くはないんだが、「どこの店もやってるから」と言ってベスト10入りするほどの人気商品をスルーするなど、もはや〝個性原理主義〟と嗤われても反論の余地は無い。

 例の如く、少し話がくどくなるのを許されたい。

 今、日本で一番売れる小説家の一人、東野圭吾の新作『クスノキの女神』が発売される。→きっとたくさん売れるだろうってのは予測と言うより、もはや前提。
→そしてその作品は1年前に文庫化された『クスノキの番人』の続編である。
→ならば正編の『~番人』も同時に展開して、改めて購買意欲を刺激しようではないか。

「誰でも思いつくから」という理由で私が嫌ったこの売り場づくりは、喩えるなら『SLAM DUNK』(井上雄彦/集英社)で桜木花道が言うところの、〈庶民シュート〉なのだ。それを疎かにして個性だ持ち味だオリジナリティだとイキがる私を、赤木がいたらきっと大声で叱り飛ばしたに違いない。
「お前が〈庶民シュート〉と侮ってる基本中の基本すら出来ないくせに、スリーポイントなど狙うな馬鹿者がっ!」

 まぁ今回は後輩君のファインプレーで事なきを得た訳だが、いやぁ、本って「100%売り切った」って断言できるもんじゃないんだなぁ。
 だって、『~番人』が文庫になった時って、日本中の書店で精一杯仕入れて精一杯販売したんだよ!? それが僅か1年後に、またベスト10入りするほど売れるか? そんな風に疑ってかかったのは、私だけか?

 では何故、『~番人』がこんなにも売れたのか? 「東野圭吾だから」と言ってしまうとそこで思考が止まってしまうので、もうちょっと深追いしてみよう。

①上記で私自身も考えた通り、いくらファンだといっても、そうそう東野圭吾の本ばっかりは買わないのだ。そこは多分、間違ってない。だとすれば、いや、だからこそ『~番人』が文庫化されてから1年間、読もう読もうと思いながら後回しにして忘れていた人、なんかが結構いたんじゃないか。

②忘れていた訳ではなく、買おうかどうしようか迷ってるうちに続編が出ちゃった! みたいな人たちが「これを機に」という感じで買ったケースも案外多かったのかも知れない。

③特に東野圭吾ファンではなくても、新作の『~女神』がどこに行ってもドーンと積んであって、ちょっと気になって手に取ったらどうやら続編で、正編の方は既に文庫でお手頃価格になっているじゃん、ということで買ってみた、みたいな〝裾野〟のマーケットが予想以上に大きかった。

 などなど後知恵の感が無きにしも非ずだが、まるで見当違いと言うほどズレてもいないのではないか。
 勿論、続編が発売される度に全ての正編が必ず売れる訳でもなかろうが、売れても慌てない準備はしておくべきだろう。今回のケースで言えば、あらかじめ仕入れて積んでいたからこそ、お客さんは「思い出したり」「気になったり」した訳で、後輩君の下ごしらえが無かったら、お客さんの心理は、そういう風には動かなかったに違いない。

 つい先日、久し振りに読み返したヘミングウェイの『老人と海』(小川高義訳/光文社古典新訳文庫)に、こんな文句があった。84日間も釣果に見放されたサンチャゴ翁が、それでも、いざという時の為に準備を怠らないことの大切さを、己に静かに諭す場面だ。

《おれは厳密にやる、と老人は思っていた。いまは運がなくなっただけのことだ。まだわからない。きょうにも運が向くかもしれない。夜が明ければ新しい日だ。もちろん、運がいいに越したことはないが、まずは正確を期していたい。それでこそ、いつ運が来てもいい》

 メジャーリーグの年間最多安打記録保持者・イチロー選手も、「失敗した時に〝言い訳〟になる材料をあらかじめ排除しておく」みたいなことを言っていた。神は細部に宿る、なんて言葉もある。
 庶民シュート、侮ること勿れだ。ホント勉強になった。よい子のみんなはマネしちゃダメだよ。

 といった感じで、いい歳こいて初心者みたいな失敗ばかり繰り返している私が、こんなアドバイスめいた連載などしてていいのか? という点に我ながら疑問を感じなくもないのだけど、失敗したからこそ、「これやっちゃうとマズいよ」ということは言える。
 上記『クスノキ』の話とはまるで重ならないけど、そんな経験で思い出したことがあるので、書いておく。

 前回だったかその前だったかに話した通り、私は本に触っていたいからこの業界に入っただけで、マネージメントに興味は無かったし、接客業がやりたかった訳でもない。
 だから若い頃は、閉店後に出社して開店前に退勤したいと本気で思っていた。接客とか他のスタッフとのやり取りとか一切無しで、本だけ相手に仕事が出来たらさぞ楽しかろうと。
 だから、品出しなどでてんてこ舞いしている最中に、お客さんから呼び止められてお問い合わせを受けたりすると、内心「マジかぁ、忙しいのに~」とか思ってた。多分、顔にも出てたと思う。
 いやぁ、こんなこと白状するの、さすがにちょっと勇気が要るんだけど、でも「分かるわソレ」って書店員も決して少なくないんじゃないかなぁ。

 だけどね、ある時、気づいたの。

 お問い合わせを受けた際にさ、「忙しいのにもうっ」と思いながら不愛想に対応したからといって、奪われる(という言い方もアレだけど)時間が短くなる訳ではないよね。
 逆に、「どうぞどうそ、何でも訊いちゃって」って感じでウェルカムな対応をしたからといって、費やす時間が長引く訳でもないよね。まぁ、「話しやすい店員だ」ってことでプラスαの質問が少々増えることはあるかも知れないけど、3分で済む筈が30分になったりはしない。

 であるならば、だ。
 最初っから愛想よく対応すれば、お客さんも気分がいいし、自分自身もイライラしないし、ことによると「お忙しいのにありがとう」なんて笑顔を貰えたりすることもあったりして、こっちの方が断然お得ではなかろうか?
 接客に〝損得勘定〟を持ち込むことに抵抗がある人もいるかも知れないけど、「全てはお客様の満足の為に」みたいなテレビCMだって、突き詰めれば顧客増、売上増を狙ってのことでしょ? 損得勘定じゃん。

 私なんぞはもう結構な歳だから仕事で夢を実現する、みたいなことはあんまり考えてないんだけど、それでもつまらないよりも楽しい方がいいし、イライラしているよりも笑っている方がいい。
「幸福とは何ぞや?」みたいなことにまで話を広げるつもりはないけど、少なくともイライラしている時間に幸せを実感する人はいないだろう。逆に言うと、イライラしている時ってのは、自分が幸せを感じる為の時間を削っている訳だ。
 これは、接客云々以前に自分自身が損ではないか?

 例えば今の時期なら、通常の新刊・補充に加えて文庫3社の夏フェアが入荷したりして、売り場で文字通り右往左往している書店員はさぞ多かろう。

 その最中にお客さんに呼び止められるケース。
→「この本あるかしら?」みたいなお問い合わせを受ける。
→「うわぁ忙しいのに~(泣)」と思いながら渋々対応する。
→お客さんは気を悪くする。
→自分自身もイライラして楽しくない。

 これ、絶対に誰も得してないよね。下手すりゃ、態度が悪いってクレームにもなりかねない。

 だったら、「ちょっといいですか?」って声をかけられた時点で、エイヤって気持ちを切り替えちゃえ。「それが簡単に出来るなら苦労しないよ」という声が聞こえてきそうだが、だからこその〝損得勘定〟なのだ。

「今、イライラしながら不愛想に対応しても、『ハイいらっしゃいませ、何でしょう?』って笑顔で対応しても、削られる作業時間は大差無い。だったら、お客さんも自分も笑顔になれる分、明るく対応した方が得だ」

 そう考えてみる。楽しいから笑うのではなく、笑うから楽しくなるのだ、なんて言葉もあるぐらいだ。それで「ご丁寧にどうも」なんて言葉を貰った日には、イライラしながら作業を再開するよりも、能率まで上がってるんじゃないかと思うぐらい気分が上向く。

 いつだったか、何の本だったか忘れちゃったけど、こんなことがあった。
 作業中に文庫のお問い合わせを受けて、お客さんがタイトルも著者名もはっきり覚えてたからすぐにご案内で来たんだけど、それが、「1巻」「2巻」みたいな表記ではない続編だったのね。『クスノキの女神』みたいな感じ。

「念の為、これって〇〇の続編ですけど宜しいんですよね......?」
「え? 続編? じゃあ1巻目があるってこと?」
「ええ、こちらです」
「なんだよ、タイトルだけじゃ分からなかったよ(笑)。じゃあ両方貰ってくわ」
「え、2冊ともですか? なんか、押し売りしたみたいになっちゃってすみません」
「いいんだよ、こういうのは親切って言うんだよ」

 この時のやり取りからもう何年も経つんだけど、未だに思い出すと気持ちが明るくなるんだよね。あの時、面倒くさがらずに対応して、絶対に得してるでしょ俺。

 くどいようだが、イライラする方向に心を働かせるというのは、〝仕事の中の『楽しくない時間』を増やす〟行為だと思う訳だ。で、我々労働者階級ってのは起きてる時間の半分を仕事に振り分けている以上、その仕事の中で〝楽しくない時間〟を増やすということは、取りも直さず〝限られた人生の中で『楽しくない時間』を増やす〟ことに他ならない。
 とまで言ったら言い過ぎかなぁ。

 もちろん私だって未だにイライラすることはある。あるけど、上記のような相関関係に気づいてからは随分減ったし、イライラが減れば当然、ストレスは減る。心当たりのある人は、騙されたと思って一度お試しあれ。

 イライラつながりでもう一つだけ。

 職場の人間関係っつーのは今も昔も、退職理由トップ3の常連らしいけど、その人間関係について、「こう考えるようにしたら、ちょっとだけラクになったよ」という話。あくまでも、入社1年目とかの初心者向けね。

 職場ってのは、生まれも育ちも違う赤の他人が、見たくなくても目に入ってしまう近距離に何人も寄せ集められている場所だ。だから、摩擦や衝突が起きて当然。馬が合う人もいるけれど、どうにも折り合いが悪い人もいるのが普通。
 そこで、だ。同じ職場の人たちを(学校の部活でもPTAでも町内会でもいいんだけど)、〝好きな人〟と〝嫌いな人〟に二分するんじゃなくて、〝どちらでもない人〟という項目も設けて、人間関係を三通りに分けてみる。〝好きな人〟〝好きでも嫌いでもない人〟〝嫌いない人〟という分類だ。これだけで〝嫌いな人〟が一人か二人減る人も多いだろう。

 さっきのイライラの話と同じで、〝嫌いな人〟は、出来れば少ない方がいいのである。努力して好きになる必要は無い。ってか、努力したって、〝嫌いな人〟を好きにはなれんだろう。だけど、「嫌いではない」という程度までなら、感情を緩和できるケースも案外あると思う。

 とは言え、勿論〝嫌いな人〟が一人もいなくなることはない。そんな相手でも、挨拶だけはちゃんとしよう。
 小学生かよ、とバカにしてはいけない。

 挨拶ってのは「おはようございます」「お先に失礼します」だけを言うんじゃないよ。何かして貰ったら「ありがとう」。やらかしちゃったら「ごめんなさい」。余分な手間をかけさせた後には「ご面倒をおかけします」。先方が退勤する際には「お疲れ様です」。
 そういう一言を、省略しないようにしよう。

 何故? それはね、
「あなたは私のことが嫌いかも知れないけど、そして私たちは反りが合わないかも知れないけど、でも、あなたと一戦交えるつもりはありませんよ」
というメッセージになるから。

 相手も「好かない奴だけど、怨恨がある訳ではないらしい」ということは分かる筈。
 何も、職場のみんなと友だちにならなきゃいけない訳ではない。仲がいいなら勿論その関係を続ければいいけれど、合わない人とまで友情を育もうとしても無駄だろう。
 ただ敵対はしない。それでいいのだ。確か田中角栄も、「味方になってくれなくても、敵に回らなければそれでいい」みたいなことを言ってたと思う。

 もう少し続ける。

 じゃあ、その合わない相手が、ろくに返事もしてくれない時は?
 それでも、挨拶だけはしておこう。何も、相手に媚びへつらえと言うのではない。これも〝損得勘定〟だ。

 例えば先々、不幸にして相手とひと悶着起こってしまったとする。
〝こっちの挨拶に返事もしなかった相手〟と〝無視されてもきちんと挨拶していた自分〟と、旗判定になった場合どちらに多くの旗が上がるだろう? VAR判定になった場合、どちらのファウルになるだろう?
 きちんと挨拶が出来る人と、ろくに挨拶も出来ない人の見分けぐらい、周りの人たちも大抵はつけているものだ。

 といったことも無視できない要素ではあるけれど、それ以上に〝自尊心〟の問題が大きいと私は思う。
「『反りが合わないから』といってろくに返事もしない奴と、返事をして貰えなくても礼儀正しく挨拶だけはする自分と、人として器が大きいのはどっちだろう?」
そう自問してみよう。答えは考えるまでもない筈だ。
 その自尊心を杖にすれば、多少よろめくことはあっても立っていられる、というケースもあるのではないか。

 勿論、パワハラ、モラハラ、セクハラなどにまで至ったら、それは話が全く別だ。コンプライアンスデスクなり何なりに掛け合うべきだ。ただ、ハラスメント未満の嫌がらせに対して対抗心を燃やしても、無駄に消耗するだけでいいことは無いように思う。
「もっともよい復讐の方法は自分まで同じような行為をしないことだ」と、確かマルクス・アウレーリウスも言っていた。

 更に言えば、〝嫌いな人〟のことを考えている時間というのは当然ながらウキウキもワクワクもしない訳で、やっぱり〝限られた人生の中で『楽しくない時間』を増やす〟ことではなかろうか。そんな勿体ないことに時間を浪費するよりも、商品やお客さんや気の合う職場仲間に向き合う時間を増やした方が、なんぼかマシだ。

 まぁそうは言っても嫌な奴は嫌な奴だし、ストレスにもなるけれど、家族と違って職場のメンツはいずれは入れ替わるから、それまでは別のところに楽しみを見つけよう。お客さんから「ありがとう、助かったわ」なんて言われて、イライラが嘘のように霧消した経験は、誰にだってあるだろう。そういう方向に魂のアンテナを向けていこう。

 といったところで、話が尽きた。また1か月後までに、何かネタを探しておかなきゃ。暑くなってきたから、皆さん、体調に気を付けて。