【今週はこれを読め! SF編】悠久のなかでの、ひとときの出逢い〜梶尾真治『もののけエマノン』
文=牧眞司
エマノンというのは本名ではなく、noname(誰でもない)を逆綴りにした、とりあえずの呼び名だ。彼女は、地球に生命が誕生したときから存在し、母から娘へと記憶を引きついで、三十数億年ものあいだ旅をつづけている。娘がエマノンの意識を得ると、母はエマノンだった記憶をなくし、普通の人間として暮らすことになる。
エマノンは悠久のなかを孤独に生きながら、「自分は一体何者か?」という疑問への手がかりを探している。彼女が放浪のなかでさまざまなひとに出逢い(その多くは一期一会だ)、エピソードが生まれる。
四十七年以上にわたってつづいている梶尾真治の人気シリーズ《エマノン》の、本書は七冊目にあたる最新刊。五篇が収録されている。
「またたきホイアン」は、エマノンが親友ヒカリとの約束を果たすため、ベトナムの町ホイアンを訪れる。物語の叙述は三人称だ。
ヒカリもまた、エマノンとは種類が違うものの、地球生命のなかの特異な存在だ。彼女自身は限られた寿命しかないが、太古から未来まで長大な時間軸のなかを不随に跳ばされながら生きている。その跳ばされた先で、たまたまエマノンに出逢う場合もある。だが、確実ではないし、年老いたヒカリが先にエマノンと逢い、それから客観時間の数年後に、幼いヒカリがエマノンの前にあらわれることもある。
こんかい、ヒカリがエマノンに頼んだのは、ファム・ヴァン・タンという青年の命を救うことだ。ヒカリは、自分の不随の時間跳躍のなかで、タンと出会って心を通じあった。しかし、その後の時間跳躍で、未来へ行ったとき、タンが事故に遭って亡くなったことがわかる。その事故を回避するように、過去に跳んだとき、エマノンに頼んだのだ。因果が少しややこしいので、箇条書きで整理すると----
A[過去]ヒカリがタンと出逢う
B[少し過去]ヒカリがエマノンに、タンを救うよう依頼
C[現在]エマノンはタンの命を救うためベトナムに行く
D[少し未来]タンが事故に遭う
E[さらに未来]ヒカリがタンの事故死の報にふれる
客観時間ではAからEへと順番に時間が進む。エマノンもこの客観時間のなかで生きている。
いっぽう、ヒカリの主観時間はA→E→Bの順にジャンプしている(CとDをヒカリは経験していない)。
ヒカリの願いは切実であり、エマノンは親友の頼みを叶えてあげたいと思う。しかし、エマノンがタンを救えば、D以降の事象は変わってしまう。それではタイムパラドックスではないか。
時間SFの名手でもある梶尾真治が、これをどう料理するか? この作品が優れているのは、エマノンはただヒカリの依頼を受けた第三者ではなく、事態の当事者として(そしてエマノンという存在の本質にかかわるところで)、このパラドックスに絡んでしまう展開だ。
すべてが終わったあと(時間軸でいうとEよりさらに先の未来)、エマノンとヒカリがふたたび出逢う。そこに流れる哀感が素晴らしい。
「ありあけジーン」は、私(名前はサクオ)の一人称視点で、エマノンとの散発的な出逢が綴れる。私の一番古い記憶のなかにエマノンはおり(ただし、そのときはエマノンという呼び名は知らない)、その後、少年時代、青年期、大人になってから、予測を裏切るタイミングでエマノンは私の前にあらわれるのだ。ぽつぽつと言葉を交わすようになるものの、彼女が私に会いにくる理由はわからない。私はほのかな思慕をエマノンに抱くが、それは若者の通過点のようなことで、けっきょく私は平凡に結婚し、その後もエマノンはあらわれ......。エマノンのとらえどころのない、しかし鮮烈な存在感が際立つ一篇。抒情的な物語だが、SFならではのアイデアが最後に待っている。
「まどろみフォッシル」は三人称で書かれているが、伊沢俊というひとりの人物の視点に沿った物語だ。彼は趣味のひとり登山の最中に道を見失い、普通なら人が来そうもないような場所で、ふらりと町中を歩くような格好の女と出逢う。それがエマノンだった。エマノンは俊にはあまり興味を示さず、ただ、「この世界にあってはならない不自然なもの」を探しているという。ひとけのない山中というシチュエーションが夢幻的な雰囲気を醸しだし、実際にこの世のものとは思えない、ホラー小説もかくやの光景があらわれる。この作品でもまた、ヒカリがエマノンに託したことが重要なキーとなる。
「もののけジャンクション」も、ホラー的シチュエーションの作品。そして、「ありあけジーン」につづき一人称の語りだ。語り手の私は、一点もののぬいぐるみをネット販売する個人事業主で、小さな山の中腹にある一軒家に住んでいる。ある日、近くの食堂で知りあいの吉井さんに誘われて山道を散歩し、その途中で、若い女性を見かける。そのときは声も交わさないが、読者には彼女がエマノンであることはその風貌(背が高く長い髪)から明らかだ。私はその先にあったケルン(方角を示す石積み)を崩してしまうが、吉井さんは意にも介さず歩きつづける。その夜から、私の家は怪異に見舞われた。次から次へと出てくる奇想天外なバケモノたちは、怪奇物語の愛好家なら知らない者はいない、江戸時代からの伝承『稲生物怪録(いのうもののけろく)』さながらだ。私は、この怪異が吉井さんとの散歩に関係があると感じ、まず、あの日、吉井さんと会った食堂を訪ねてみる。しかし、食堂の主人は「吉井さんというひとは知らない」と、けげんな顔だ。そう言われてみると、私はどこでどうやって吉井さんと知りあったのか、まったく思いだせない。
戸惑いながら私が手がかりを求めて山頂へ向かうと、そこにエマノンがいた。この作品のエマノンは、水木しげるの鬼太郎のような役回りだ。民俗学的な妖怪物語(作中に『稲生物怪録』についてもはっきりと言及される)の調子で、読者は怪しい領域へと誘いこまれていく。驚くのはその先で、これは実際に作品を読んで確認していただきたい。テーマは凄いSFになっている。
「さまよいサンクチュアリ」は三人称の作品で、海沿いの国道を歩いていたエマノンがたまたま見かけた食堂に入ろうとしたとき、剣呑な状況に遭遇する。ふたりの少女が食堂の外の木陰で、誰かからの追跡を避けるように身を隠していたのだ。少女のうち歳上のほうが、エマノンに思念を送ってくる。《お願いです。見なかったことにして下さい》。彼女の名はDカズコ。連れている歳下の子はFカズコだという。ふたりはサンクチュアリと呼ばれる施設から逃げてきたのだ。食堂内には水色の制服を着た、どうやらサンクチュアリ関係者と思われる男たちがいる。
この作品では、エマノンはできごとの中心ではなく、通りすがりにかかわった立場で、問題が解決に至るうえでのサポート役となる。カズコたちは危機的状況に直面しており、しだいに明らかになる境遇は読んでいて胸が締めつけられる。もちろん、安定の梶尾真治品質なので、後味の悪い結末にはならない。余韻があって、今後の《エマノン》シリーズへとつながる、いわばブリッジのようなエピソードだ。
さて、つぎはいつエマノンに再会できるだろうか。その日を楽しみに待ちたい。
(牧眞司)


