【今週はこれを読め! SF編】数理世界と独特の抒情〜大滝瓶太『花ざかりの方程式』
文=牧眞司
好奇心旺盛な文学読者や目利きのSFファンから注目されている鬼才、大滝瓶太の短篇集。収録されている九篇は、それぞれが独立したストーリーだが、作品間をまたぐ仕掛けがあり、一冊を通してメタ世界を表現していると見ることもできる。順番に紹介していこう。
「未来までまだ遠い」は、幼なじみのアキマサとアキナ(年齢はおそらく十代前半)の物語。テレビでは、ハーフパンツを穿いたおじさん(物理学者)が「未来とは物質なのだ」の前提で、過去と未来が衝突して流れ星になると主張している。そうしたファンタスティックな超科学と、アキマサとアキナの噛みあうような噛みあわないような日常が対照的に描かれていく。作中作として、学校のクラス仲間がリレー式でつづけている漫画「リトマスくんのだいぼうけん」(リトマスくんはアキマサをモデルにしたキャラクター)が嵌めこまれているのが、作品の重要なアクセントだ。どことなく、井上陽水が書く突拍子のない、しかし懐かしい歌詞を連想させる味わいの一篇。
「騎士たちの可能なすべての沈黙」は、在野の数学者、岡崎忠邦の人生を、その息子が振り返る。忠邦は生まれながらに、数字が人間以上に人格を主張する世界に生きていた。タイトルは、チェスのナイトのコマを使ったナイトツアーという遊びに由来する。忠邦は人間関係が不器用で、息子のぼくにもただひとつの遊びを教えることしかできなかった。ナイトツアーは、N×Nのマスがある盤上の、まず任意のコマにナイトを置き、そこからナイトの動き(縦2+横1のL字)で盤上を旅し、すべてのコマを通過させるパズルだ。ナイトがたどる軌跡が時間線だとしたら、いくつかの可能世界が併存するわけだ。ナイトツアーは、この短篇集全体のなかで象徴的な意味を持つ。
「ソナタ・ルナティカOp.69」も、異貌の人生の物語。二十世紀の幕開けとともに、フィレンツェで誕生したイタロ=カステルヌーヴォ・カニーノは、変わったタイプの音楽家だった。若き日のカニーノに出逢ったエリック・サティは、こう評している。「これほどつまらない音楽を完璧につくれるというのは、むしろ才能だといえる」。退屈すぎる天才は、時代ごとの音楽シーンのなかで、さまざまな役割を演じていく。
「誘い笑い」は、不世出の夫婦漫才コンビ、脳みそ弱夫・弱子の経歴をたどる。カルヴィーノ『見えない都市』からの引用からはじまるネタ「見えない都道府県」は、観客がくすりとも笑わない演目だった。このコンビのなんとも言えない存在感(あるいは非存在感)は、「ソナタ・ルナティカOp.69」の主人公イタロ=カステルヌーヴォ・カニーノに通じるものがある。弱夫・弱子について記述をしている、この作品の語り手は、虚無的な就職活動をしている(というか、ロクにしていない)大学生のぼくだ。
「ザムザの羽」は、〈SFマガジン〉の特集「異常論文」に寄稿された作品。ゲーデルの不完全定理を、数理の領域のみならず、世界一般へと拡張しようという試みだ。その試みをおこなっている無名の数学者アルフレッド・ザムザの物語であり、この作品自体がその試みの実践(特殊解の提示?)でもある。
「演算信仰」は、東京オリンピックでの自爆テロ事件からはじまり、その背景を探るかたちでメインの物語が進む。天才数学者ウェイ・アイゲンベクターが導出した証明は、人間の知にとどめを刺すものだった。その結論は「演算的に解けない問題は存在しない」。つまり、ひらめきや創意といった、人間しかなしえないとされていた飛躍も、アルゴリズムとデータによって実現できる。この発見によって世界は変わっていく。作中に、「騎士たちの可能なすべての沈黙」の主役である岡崎忠邦の名前が出たり、「ソナタ・ルナティカOp.69」のイタロ=カステルヌーヴォ・カニーノへの言及があるなど、作品間の相互参照が仕掛けられているのがポイント。
「コロニアルタイム」は、冒頭のエピグラフにウェイ・アイゲンベクターの言葉が引用されており、「演算信仰」との関連が示される。メタフィクションの仕掛けだが、これを踏まえずに「コロニアルタイム」単独で読むと、非常にナンセンスで難解に思えるだろう。「河原でひろった左手はまだふかいねむりから目覚めていなかった」とか、「この国のはしっこにある電車のない町でちいさな女の子が昼と夜のあいだにおちてしまった」とか、「とおい未来の生きたひとたちは、はるかな、しかし有限の距離をのりこえはるばるやってきたのだという」などという叙述が、さらりと出てくる。ウェイ・アイゲンベクターの引用は「宇宙には相反するすべての事象が同居する世界さえその内に抱え込むだけの広さがある」と結ばれていた。これに立ちかえれば、作品中の不可解な叙述も、事象が重なりあった世界なのだと腑に落ちる。ナンセンスのなかに、しっとりとした情感がかよう一篇。
「白い壁、緑の扉」は、小説が書けなくなった作家(語り手)が、古い友人のライオネル・ウォレスと語りあう。二人の人生が対照される仕組みだが、なんと、H・G・ウエルズの有名短篇「白壁の緑の扉」(原題The Door in the Wall、ほかの邦題として「塀についたドア」や「塀のある扉」など)が、大滝瓶太による新訳として全篇が織りこまれている。超絶のマッシュアップ小説だ。ライオネル・ウォレスはウエルズ作品の主人公である。白壁の緑の扉は、無限のありえたかも知れない可能性世界の象徴となる。
そして表題作「花ざかりの方程式」が、短篇集のしめくくりに配置されている。これもまた、数学者の物語だ。桜塚八雲が見いだした方程式は、それ自体が植物であり、花を咲かせる。これは比喩でもなんでもなく、桜塚の論文を検証したすべての数学者が、その植物を視認するようになった。いったん見えてしまえば、方程式が植物であることは自明である。この作品にはウェイ・アイゲンベクターが登場し、ストーリーは「演算信仰」につながっている。そのほか、この短篇集に収録されているほかの作品への参照もあり、めくるめく印象を読者に与える。
一冊を通してみると、大滝瓶太が世界的にも稀な数学SF(あるいはテキスト宇宙)の書き手であるとわかる。作風としてもっとも近いのは円城塔だろう。しかし、円城塔の数学SFはたいてい、数理システムや再帰的ロジックの側へと世界を引きずりこみ、普通の意味での人間性は一顧だにされないが、大滝瓶太はどうにか人間側に踏みとどまっている。つかの間の幻としての人間性だとしても、そのまわりで物語が生まれていく。体温的というか、独特のペーソスが持ち味だ。
(牧眞司)


