【今週はこれを読め! ミステリー編】台湾ミステリーの最高傑作『台北プライベートアイ』

文=杉江松恋

  • 台北プライベートアイ
  • 『台北プライベートアイ』
    紀 蔚然,舩山 むつみ
    文藝春秋
    1,980円(税込)
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 これまで翻訳された台湾ミステリーの最高傑作ではないかと思う。

 紀蔚然『台北プライベートアイ』は、1954年生まれで長く台湾大学演劇学部で教鞭を執っていた作者が2011年に発表した長篇である。原題は『私家偵探 PRIVATE EYES』だ。EYESと複数形になっているのは、言葉に多義性を持たせるためだろう。犯罪小説は社会構造に生じた歪みや矛盾を、個人の争闘を通して描くジャンルである。社会対個人という対立関係が重要になってくるので、必然的に視点の問題が浮上してくる。視点人物には彼らのいる社会がどのように見えているかということが大事なのだ。

 本書の主人公である呉誠は、劇作家として、また大学教授として声望を得ていた人物だが、ある日すべてを投げうって私立探偵に転じた。興信所に勤務するのではなく、独立した個人業者としての探偵になったのである。葬儀に関する店舗が多いことから死人街の別名もある、台北南東部の臥龍街に移り住み、看板を掲げて開業した。

 周囲からは行動を疑問視する声しか上がらなかったが、やがて初の依頼人がやってくる。あるときから夫の人が変わったようになり、中学生の娘も挙動不審なのだという。家の中に暗い空気が立ち込めていることに耐えられないので、夫がどうなってしまったのかを確かめてもらいたいというのが依頼の内容だ。初陣だが、呉はなんとかこの依頼をやり遂げる。途中で夫の尾行を頼んだタクシー運転手が、自分も妻の浮気が心配でこっそり後をつけてばかりいる、と告白するあたりのスラップスティックなやりとりがいい。この王添来という運転手は、後に呉を兄貴と呼んで押しかけ探偵助手にやってくる。

 ここまでが全十八章のうち九章のあらすじということになる。実は、話の本題が語られるのはこのあとで、呉は連続殺人事件の容疑者として逮捕されてしまうのである。降りかかった火の粉を払うため、探偵として本気で頭を使わなければならなくなるわけで、そうなってからのスリルある展開が読みどころということになる。つまり小説としては導入部がちょっと長いわけなのだが、前半部で作者は、呉という主人公を読者になじませるために、彼に大いに弁舌をふるわせている。その中には「台湾はアメリカ発のファーストフード文化をすでに根本から変えてしまった」というような興味深い観察もあり、読んでいて退屈することはない。呉誠はよく歩き回る主人公で、見聞した物事についてもよく喋る。彼が逮捕されてしまったのは、そのよく歩くという行為が災いしたのだ、ということが後にわかるのである。

 連続殺人犯を追う展開になってから一つびっくりすることがあった。彼が逮捕されるという展開は、主人公を危機に陥れて真剣に事態に向き合わなければならない状況を作るための作劇における常套手段なのだが、けっこうその手を読みなれていても、新鮮に感じるような奇手が使われていたからだ。具体的に書くと、第十二章の終わり近くに出てくる。そのくだりを読んで、思わず姿勢を正したくらいである。そうか、その手があったか。しろうと探偵小説のプロットに新たなバリエーションを付け加えた作品として本書は記録されるべきである。

 前述したように同時代観察や文化批評の要素も強い作品なので、ミステリーにそれほど関心がなくても、台湾という国が好きな読者は絶対に目を通したほうがいい。ミステリー読者向けのサービスとしては第九章にぜひ注目いただきたい。横溝正史『蝶々殺人事件』の中で由利麟太郎と三津木俊助が交わす会話を導入として、国の文化が殺人事件に与える影響について考察されており、ミステリー論としても成立している。その中で台湾は「内輪でケンカばかりしている社会には、隠れた連続殺人犯を育てる栄養分はない」のだと呉誠は断じるのだが、この言及を嘲笑うように物語の後半では、台湾ならではの殺人心理を持つ犯人の姿が明らかにされていく。結末で明かされる真相は独自性が高いものだ。奇怪な心理を作者は見事に描ききっている。

 本書の存在を知ったのは、おそらく2020年の暮れごろではないかと思う。台北駐日経済文化代表処台湾文化センターが発行している『台灣好書vol.1』という小冊子に「ユーモアと毒舌の炸裂する台湾ミステリー」として2021年前半刊行予定と紹介されていたのだ。そこに掲載された原書の書影には、呉誠と思われる人物が砂の中に頭を突っ込んでいる姿が描かれている。ダチョウは危機を察知すると、見なかったことにするために砂の中に自分の頭を突っ込むという俗説がある。それをなぞったものだろう。前述したように犯罪小説においては視点が重要な意味を持つ。中でも一人称を採用した私立探偵小説は、主人公が何を見て何を見ないかということが作品のすべてと言っていいのである。砂に頭を突っ込んだ呉誠の姿は、『台北プライベートアイ』がこうした私立探偵小説の基本構造に忠実な作品であることを示している。呉誠は何を見て何を見なかったのか。読者が関心を持つべきなのはその点である。

 喜怒哀楽の激しい主人公をはじめ、尾行マニアのタクシー運転手やら、経験な仏教徒の刑事部長やら、個性的な登場人物ばかりの小説である。キャラクターの多彩さを味わうのも一つの読み方だ。実におもしろいのでぜひ次も読んでみたい、と思っていたら訳者あとがきに、2021年に続篇『DV8』が刊行されたとの記述があった。どうやら呉は台北から淡水に居を移したらしい。淡水は台北から北へ向かう地下鉄(捷運)淡水線の終点に当たる街で、江の島よろしく海辺の情景を楽しむ観光客でいつも溢れかえっている。今度は港町の事件かい、呉誠。次も楽しみにしているぜ。

(杉江松恋)

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