【今週はこれを読め! ミステリー編】スペイン発のミステリー&読書小説『テラ・アルタの憎悪』をお薦め!

文=杉江松恋

  • テラ・アルタの憎悪 (ハヤカワ・ミステリ)
  • 『テラ・アルタの憎悪 (ハヤカワ・ミステリ)』
    ハビエル・セルカス,白川 貴子
    早川書房
    2,530円(税込)
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 ミステリーを読んでいてこんなツボを押されるとは思わなかった。

 最近のハヤカワ・ミステリは創刊70周年を記念して世界各国の作品を刊行している。通番で1999、刊行点数にして1899番目『テラ・アルタの憎悪』(白川貴子訳)は、スペイン、カセレス生まれのハビエル・セルカスが2019年に発表した作品である。

 舞台となるのはスペイン北西部カタルーニャ州の田舎町テラ・アルタである。ご存じの方も多いと思うが、カタルーニャはスペインからの独立運動が今なお盛んで、主人公が赴任した警察署でも、初対面の者に対して賛成か反対かをまず問うてくる。答えられなければ反対派と見なされ「スペイン野郎」と呼ばれるのである。そういう土地柄だということは、頭の隅に置いておいてもいいと思う。

 残虐な殺人事件が起きることから物語は始まる。テラ・アルタの地域経済を支えているのは、大手紙業のアデル美術印刷という企業であった。その社長夫妻が犠牲者となったのである。自宅において血みどろの状態で二人の遺体は発見された。まるで拷問されたか、あるいは快楽殺人の結果でもあるような遺体の損壊具合である。即刻捜査本部が設置される。主人公のメルチョール・マリンも、それに参加することになる刑事である。

 メルチョールとは変わった名だが、新訳聖書に出てくる東方の三賢者、メルキオール、バルタザール、カスパールの一人にちなんだものだという。むごたらしい殺人事件から幕が上がるので物語はその捜査が中心になるのが定石だが、作者は第2章でいきなり時計の針を大幅に戻してしまう。メルチョールの誕生から十代の成長までが語られることになるのである。母親は娼婦で、メルチョールは父親が誰かを知らない。単親ではあるものの愛に包まれて育てられたのだが、環境ゆえか非行の道に走り、彼は麻薬カルテルの末端で売人として働くことになってしまう。やがて逮捕され、実刑判決を受けた。幸運だったのは、母が雇った弁護士ドミンゴ・ビバレスが腕利きで、罪状からすると信じられないほどの短期刑で済んだことだ。

 その刑務所でメルチョールの運命は変わった。服役囚仲間に文学に傾倒したフランス人がいて、彼から読書の楽しみを教えられたのである。それまで本など読んだことがなかった青年を打ちのめしたのは、ヴィクトル・ユゴー『レ・ミゼラブル』だった。

『レ・ミゼラブル』の物語、貧困のためにジャン・バルジャンが罪を犯すという冒頭はあまりにも有名である。メルチョールも物語の主人公に自分を投影して読み進めていくのだが、そのうちにジャン・バルジャンを追い続ける執念の刑事、ジャベールに魅せられるようになる。ジャベールは「読者の軽蔑を誘うために創作されたような登場人物」だが、作者の意図とは別かもしれないところにメルチョールは彼の美点を見出したのだった。「法律に庇護を求めるしかない人たちを守り、公益を守るためには、自分の評判や幸福を犠牲にしてでも、妥協せずにだれかが引きうけるべきであるという騎士のような、理想家のような、英雄の道義心をもっている」と考え、それが決心につながっていく。自分もジャベールのような刑事になるのだ。

 服役囚から刑事、そんなこと可能なのか、とびっくりしたが、なんとかなってしまう。そしてカタルーニャ州の州都バルセロナで腕利きの刑事として鳴らすようになるのだが、ある事件がきっかけで過激派から命を狙われるようになり、ほとぼりを冷ますためにテラ・アルタへと赴任してきたわけである。そしてアデル夫妻殺人事件に遭遇した。

 このメルチョールの特殊すぎる経歴と個性が読みどころになっている。彼の読書趣味は小説の柱と言ってもいい。なにしろ読書の師匠である例のフランス人がメルチョールに教えたのは、小説は十九世紀に書かれたものに限る、ということだったのである。十九世紀の小説ばかり探していて、テラ・アルタで司書をしていた女性オルガと出会い、後に結婚することになる。来館したメルチョールに対し、最初にオルガが薦めた小説はカミュの『異邦人』だ。それはあまりお気に召さなかったので、次はパステルナーク『ドクトル・ジバゴ』を。メルチョールの感想は「二十世紀に書かれた十九世紀の小説みたいだった」で、それから、それから、と本を通じて二人は親しくなっていく。

 読書小説の要素がある作品で、捜査と並行して「十九世紀の小説はなぜ読むに値するのか」ということが語られていく。このくだりがめっぽうおもしろいのである。事件とは一見まったく関係ない要素のようにも感じられるのだが、メルチョールの志向を全体小説へのそれと考えると、社会のさまざまな位相を描こうとする作者の意図は、読書の対象となる作品と重なっているようにも見える。本作は三部作の第一作に当たるのだが、おそらく完結の暁にはカタルーニャを舞台とした壮大な絵図が書き上げられることになるのではないだろうか。

 殺人事件の真相は、スペインならではの事情が反映されたものである。フランコ政権の専制によって国民が大きな傷を負ったスペインでは、ミステリーにおいてもその影響が語られることが多い。社会が歩んできたのは平坦な道ではなかったのである。本作にもそうした近代史の闇を感じさせられるくだりがあり、その黒々とした影に鳥肌の立つ思いをした。

 セルカスはもともと内乱の時代などを描く歴史小説作家として名を成した人であり、本書で初めて警察小説を手がけたという。2022年に英訳され、英国推理作家協会賞最優秀翻訳小説賞を受賞した。英米の警察小説とは作品のまとっている空気がまったく違う。実に新鮮であったので、ぜひ一読をお薦めしたい。十九世紀の小説がお好きな方は特に。

(杉江松恋)

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