【今週はこれを読め! ミステリー編】二度と戻らない青春のきらめきを描くミステリー〜アレン・エスケンス『あの夏が教えてくれた』

文=杉江松恋

  • あの夏が教えてくれた (創元推理文庫)
  • 『あの夏が教えてくれた (創元推理文庫)』
    アレン・エスケンス,務台 夏子
    東京創元社
    1,386円(税込)
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 青春とはいかにはらはらさせられる時間なのだろう。

 アレン・エスケンス『あの夏が教えてくれた』(務台夏子訳/創元推理文庫)は、一夏の思い出を描いた青春ミステリーとして出色であり、現在につながるアメリカの宿痾を物語の必須構成要素として用いた犯罪小説である。

 巻頭に作者の注記が置かれている。エスケンスはこの作品を1991年に発意して書き始めたが、20年取り組んだ後で棚上げにした。ようやく再開できたのは作家としてデビューを果たし、別の小説を5作書いた後のことだという。つまり作家としての成熟が伴わないことには書けない物語だったということだ。本国での刊行年は2019年、28年かかってようやく完成できた作品なのである。この注記でまず期待が高まる。

 舞台となるのはミズーリ州の田舎町ジェサップである。主人公ボーディ・サンデンは、ジェサップにある聖イグナチオというハイスクールに通う一年生だ。彼は以前、ジェサップという高校を退学になっている。喫煙しているところを見つかってしまったためである。特に煙草を吸いたかったわけではなく、不良グループに入りたかったためのかっこつけ行動だった、というのが彼の未熟さを物語っている。仕方なく入った高校だが、ボーディは聖イグナチオが嫌いで、いまだになじめず校内で孤立している。

 ある日彼は、聖イグナチオを仕切っている四年生、ジャーヴィス・ハルコムのグループが学食で悪ふざけをしようとしているのを見てしまう。自分と同じ一年生のダイアナに、プディングをぶっかけようとしているのである。なぜそんなことをするのか。ダイアナが聖イグナチオで唯一の黒人生徒だからだろう。唯一。そう全校に一人だけしかいないのだ。母親が学食で働いているからダイアナは授業料も免除されている、とボーディは聞かされている。

 自分には関係ないこと、と無視しようとするが、ボーディはその悪ふざけをつい妨害してしまう。そのためにジャーヴィス・グループとの間に因縁が生まれ、彼の高校生活には緊張が生まれる。これが物語を引っ張る最初の出来事だ。

 このエピソードが物語るとおり、ボーディにはごく普通の正義感も備わっている。だが、それが社会全体に向けられるほど彼は賢くない。サンディ家の隣にはホーク・ガードナーという男性が一人で住んでいる。黒人で片手が不自由、顔面には傷もある。彼がどうしてそうなったのか、なぜ一人で住んでいるのかをボーディは知らないが、好意と尊敬の念をもって接している。だがホークに対し無神経な発言もしてしまう。たとえば「プロ・フットボールのチームに黒人のクォーターバックがいないのは、白人ほど頭が切れないからだ。悪いやつらってわけじゃない、ただちがうっていうだけ」というような。ホークはそんなボーディを咎めず、優しくこう言う。「そうか、偏見がないってのは結構なことだね」。

 高校一年生の等身大の物語だから、ミステリーとしての主部は彼に見えないところで進行していく。町の主要産業であるライク工業で働いていたライダ・ポーという黒人女性が失踪した。工場からは多額の金が失われており、彼女が不正に関与した疑いが囁かれる。そうした動きがある中で、ライク工業の工場長が罷免され、新任者が赴任してくる。そのチャールズ・エルギンは黒人で、なんとサンデン家の隣人になるのである。チャールズにはボーディと同い年のトーマスという息子がいた。二人はビー玉がぶつかり合うみたいな出会い方をして、あっという間に仲良くなる。『あの夏が教えてくれた』は、ボーディとトーマスが無二の親友になって過ごすひと夏の物語なのだ。だが聖イグナチオにジャーヴィスのグループがあるように、ジェサップにはCORPSを名乗って不穏な動きをする一団がいた。彼らの存在がやがて、サンデンとエルギンの両家に黒い影を落とすようになる。

アメリカが建国200年を迎えた1976年に、海の向こうでなんとなくお祭り騒ぎが起きているという感じがあったことをおぼろげながら覚えている。『あの夏が教えてくれた』はその時期の物語なのだ。大統領はジェラルド・R・フォードである。翌年にケネディを思わせる風貌のジミー・カーターが就任するのだが、彼は国民に好かれながらも大統領としては成功としたとはいえない人物だった。そのあとをロナルド・レーガンが継ぎ、合衆国は次の段階に入っていくことになる。ヴェトナム戦争で負った癒し切れない傷をなんとかしようとして、それまでのアメリカを捨てていくのだ。その前の小康期に、時計の針は合わされている。

 穏やかといっても決して問題がなかったわけではない。皮膚の下に押し込められていた膿が噴出し始めていた。その醜い現実が本作の中では描かれることになるだろう。エスケンス既訳作品をお読みの方なら先刻ご承知のように、ボーディ・サンデンはいくつかの長篇に登場する人物である。元弁護士で、今はロースクール教授として無実の罪に問われた人々を救済する活動を続けている。その正義感がいかに培われたかということが、本作を通じて描かれているわけである。

 だが、そうしたことは頭の隅に置いておけばいい。本作で第一に味わうべきは、世間知らずで向こう見ずなボーディが送る青春の日々のきらめきである。二度と戻らない時間を描くエスケンスの筆致は美しい。語り手の〈わたし〉は成長したボーディだが、終盤でこう綴る。

----時間を止めて、ある瞬間を永遠に変わらないまま自分のなかに留めることができるなら、その記憶は決して手放せない貴重なものとなるだろう。だが記憶は写真とはちがう。記憶には過ぎていく時を止めることはできない。記憶とは道を行く人の歩みのようなもので、その一歩一歩が直前の一歩によって定められ、それにつづく歩みによって潤色されてしまうのだ。

----長年にわたり、わたしは何度もあの午後の記憶を呼びもどそうとしてきた。瓦礫のなかからそれを引っ張り出し、汚れをぬぐい落そうと。しかしこの世にはどうしても成しえないこともある。

(杉江松恋)

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