【今週はこれを読め! エンタメ編】サーカスで暮らした日々をたどるノンフィクション〜稲泉漣『サーカスの子』

文=高頭佐和子

 子ども時代の一時期をサーカスで暮らすという珍しい経験を持つノンフィクション作家・稲泉漣氏による一冊である。サーカスと聞くと私が思い出すのは、幼い時に連れて行ってもらった時のことだ。後方の席から見た空中ブランコと、動物園で見るのとは違う猛獣たちの姿が目に焼きついた。もう一度行ってみたいという願望は叶えられなかった。美しいけれどもの寂しい異世界のような怪しさ、どこから来てどこに行くのかわからない不思議な人々......。物語じみた仄暗いイメージだけが映画やら小説やらの影響で膨らんでいったが、大人になってから観に行ったサーカスは、驚異的な身体能力を持つ人々の活躍と、華やかにショーアップされた空間を楽しむ健康的な娯楽だった。数ヶ月おきに、舞台に立つ人々と動物たちが一緒に移動する生活とはどのようなものなのか。わくわくするような気持ちで手に取ったが、予想しない読後感に連れていかれた。

 著者の母親は、ノンフィクション作家の久田恵氏である。シングルマザーだった彼女は、本橋成一氏の写真集を手にしたことをきっかけに「サーカスで子育てをしてみたい」と考え、キグレサーカスの炊事場で働くことになった。著者はすぐにサーカスに馴染み、同年齢の子供たちと敷地内を走り回り、天幕の裾をめくっては繰り返しショーを観て過ごした。暮らしたのはたった1年だが、著者にとっては「帰りたい場所」であり続けたという。40年近い月日が経ち、著者はサーカスという「夢と現が混じりあったあわいのある場所」で過ごした経験を持つ懐かしい人々を訪ね歩く。同じ共同体で暮らしたからこそ聞くことのできたそれぞれの思いに向き合い、日本のサーカスが辿ってきた歴史を掘り起こしていく。

 サーカスの中で長く暮らした人も、短い時間いただけの人も登場する。入ったきっかけも人それぞれで、芸人の子もいれば、憧れて入った人も、芸人に恋をしてそのままサーカスで暮らすことになった人もいる。団員の子供たちは、2ヶ月おきの「場越し」に合わせて転校しなければならない。その環境に不安を感じた親によってサーカスから離されて生活する子どもいれば、子の就学をきっかけに家族で「降りる」人もいる。生き方もそれぞれである彼らに共通しているのは、サーカスでは皆が家族のようで、寂しさを感じない安心できる場所だったことと、キグレサーカスがなくなってしまった今も、故郷のように感じていることである。だが、閉じられた世界で旅と祭りを繰り返すように生きてきた人間が、外の世界で居場所を見つけることは簡単ではない。サーカスを出た後、孤独で心を病む人もいる。高齢ながらも舞台で働いていたのに辞めた後1年で死んでしまった芸人、2ヶ月に一度模様替えをせずにはいられなかったという元スター芸人の孤独が哀しい。ある人が口にしたという「サーカスの男っていうのはさ、寂しくて死んじまうんだよな......」という言葉が、心に残る。

 著者の母は、サーカスを出た後に雑誌ライターとなり『サーカス村裏通り』というノンフィクションを書いた。サーカスで働いた理由を「あなたにほんの少し、子供らしい時間をプレゼントしてあげたかったから」と社会人になった著者に言ったという。子供が子供らしくいられた場所は、人間が人間らしくいられた場所でもあったのではないだろうか。でもそこは永遠に続くユートピアではない。現代社会で生きていくためには、いつかは出ていかなければならない場所でもあったのだと思う。

 混雑した電車で職場と自宅を往復し、隣人のことも知らない生活を当たり前のように送っている私にとって、サーカスはフィクションのように遠い場所だ。プライバシーが保たれない場所では息が詰まるだろうとも思う。なのになぜか、失われた彼らの「故郷」を懐かしく思うのは、誰もが自分の役割を持ち助け合える場所を、人間としての本能が求めているからなのかもしれない。

(高頭佐和子)

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