【今週はこれを読め! エンタメ編】身体の上の「国境」〜朝比奈秋『あなたの燃える左手で』

文=高頭佐和子

 国境とは、どこにあるものなのだろう。土地の上にあったり、海の上にあったりすることは知っている。人と人の間にも、あるものなのだろうと思う。島国で生まれ育った私には想像し難い思いを、それに抱く人がいるのだろうと考えさせられたこともある。だけど、人間の体の上に「国境」があったらどうなのか。そんなことは思いつきもしなかったし、状況を想像してみることすらうまくできない。

 主人公のアサトは、日本人の看護師である。父の仕事の都合で高校時代に渡欧し、そのままオーストリアで就職をしたものの、手先の器用さを生かした仕事をしたいという思いから、ハンガリーの大学の看護学部に入学した。大学で出会ったウクライナ人女性ハンナと結婚してそのままハンガリーで暮らしてきた。ある時、左手に違和感を覚え検査したところ、悪性の腫瘍であるという診断を受けてしまう。切断後に誤診であることがわかったが、切り落とした左手をもう戻すことはできない。愛国主義者という噂のあるハンガリー人医師ゾルタンにより、アサトには他者の左手が移植されるのだが、それは繊細な動きを得意とするアサトの手とは全く違う、肉体労働で使い込まれた肉厚な白人男性の手だった。

 理不尽な形で肉体の一部を失ったアサトは喪失感と幻肢痛に悩まされる。そして、移植された左手に対する強烈な違和感と拒絶反応により、さらなる不安と苦しみに襲われてしまう。その身体感覚と追い詰められていく心理の描写に、一人の日本人患者としてアサトの心身の変化を観察するゾルタンの冷徹な視線と、クリミア出身でジャーナリストとして活動した経験を持つハンナの生き方が、慎重に重ね合わされていく。

 国境がないというのはどういう感覚なのか、とつき合い始めた頃のハンナはアサトにしつこく訊いてきた。日本が手の移植を行わないのは、日本に国境がないからではないか、とゾルタンは言う。その言葉を投げかけられたのが私であったとしたら、どんな答えも意見も容易に出すことはできないと思った。自分が自分であることに対し、あまりに無自覚であったことに気がつかされ、打ちのめされている。

 現役医師でもある朝比奈秋氏は、人間の身体と医療をテーマにした作品を書いてきた。体というのは何よりも身近なものであるはずなのに、目をそらし続けていたのだということを朝比奈氏の小説は気がつかせてくれる。体験したことはないはずなのに体の一部分がゾクっとするほどリアルに感じられる感覚描写と、想像しなかった視点で組み立てられていく物語に、読者として興奮している。朝比奈秋氏の今後から、目を離せない。

(高頭佐和子)

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