【今週はこれを読め! コミック編】「今」を掬い上げる作品集『友達だった人 絹田みや短編集』
文=田中香織
ふと思い立ち、手元にある古い英和辞典を開いた。「follow」という単語を引いてみると、「~の後についていく」「~の次に来る」と訳されている。30年前ならばそれが当たり前だ。なんなら20年前だってそうだろう。
でも約15年前には違った意味が加わり、今ではその訳に親しみを持つ人の方が多くなっていると思われる。「Social Networking Service」──つまりSNSを駆使している人であれば、なおのこと。現在の「follow」には「(SNS上の)誰かのアカウントを追いかける」という意味が加わり、それは「フォローする」という和製英語として使われている。
表題作の『友達だった人』は、そんな「フォロー」から始まる物語だ。Twitter上で独自の言葉遊びにハマっている主人公の森本は、ある日、自分のアカウントがフォローされたことに気づく。フォロワーのハンドルネームは「ささみ」。プロフィールを見るとニワトリのアイコンで、ネイルと韓ドラ、甘いものとお笑いが好きな、同い年の女性だった。「生きてきた時間は同じなのに 生きている領域はまるで違う」と感じた相手を、森本は何気なくフォローバックする。
そうして森本とささみの間には、緩やかなつながりが生まれた。互いのつぶやきに「いいね」を押したり、垣間見える相手の生活に親近感を覚えたり。適度な距離で、森本の言葉遊びに反応してくれるささみは、森本にとっていつしか身近な存在となった。
しかしその関係も、ささみが希少ながんを患ったことで急転する。突然のことに動揺した森本は、それまでの関係から一歩踏み込んだ付き合いを選ぶが、ささみの病状は刻々と進んでいく。後日、ささみの妹が書き込んだ葬儀の告知を目にした森本は、互いの関係性に名をつけられないまま、葬儀場へと足を運んで──。
お互いの顔や本名を知らずとも、実際に会っているかのように親しくなれることを、今を生きる私たちはもう知っている。だがその関係が現実世界に持ち込まれた時、気持ちが揺らぐこともよくわかる。いったい相手の何を知っていて、何を知らないのか。何を知っているのが友達で、どこからがそうではないのか。周囲の目を気にしての線引きは、頼りなくもどかしい。
本書は4つの短編から成っている。表題作は同人誌で発表された。他の2作も同様で、残りの1作は描き下ろしだ。執筆や発刊に至るまでの経緯は、巻末のあとがきで8ページにわたりつづられている。その率直さと巧みさには、思わず吹き出しながら目を見開いた。
なお表題作を読み終わったら、そっと表紙を見返してほしい。机を囲んで語らう風景の意味が、きっと変わって見えてくる。どの作品も声高ではない。けれど驚くほど見事に「今」を掬い上げていた。うまく言葉にできないまま、それでも心の中を漂う確かな気持ちに、形を与えたかのような作品たち。出会えてよかった。
(田中香織)

