第95回:上橋菜穂子さん

作家の読書道 第95回:上橋菜穂子さん

大人から子供まで圧倒的な人気を誇る『獣の奏者』を完結させたばかりの上橋菜穂子さん。代表作に「守り人」シリーズや『獣の奏者』がある。ファンタジー作家というイメージがあるかもしれないが、ご自分では、「ファンタジー」を書いているという意識はないという。幼い頃から読んできたもの、感じてきたこと、文化人類学についてのお話を聞くと、それも必ず納得できます。インタビューは現在教授として勤めている川村学園女子大学の研究室で。非常に楽しいひとときとなりました。

その6「意識の変容を書く」 (6/6)

獣の奏者 (3)探求編
『獣の奏者 (3)探求編』
上橋 菜穂子
講談社
1,728円(税込)
商品を購入する
>> Amazon.co.jp
>> HonyaClub.com
>> エルパカBOOKS
獣の奏者 (4)完結編
『獣の奏者 (4)完結編』
上橋 菜穂子
講談社
1,728円(税込)
商品を購入する
>> Amazon.co.jp
>> HonyaClub.com
>> エルパカBOOKS
ドゥームズデイ・ブック(上) (ハヤカワ文庫 SF ウ 12-4) (ハヤカワ文庫SF)
『ドゥームズデイ・ブック(上) (ハヤカワ文庫 SF ウ 12-4) (ハヤカワ文庫SF)』
コニー・ウィリス
早川書房
1,188円(税込)
商品を購入する
>> Amazon.co.jp
>> HonyaClub.com
>> エルパカBOOKS

――研究として趣味として、本当に幅広く読まれていますねえ。

上橋 : それがねぇ、いまはあまり読んでないです(笑)。一番読んでいたのは大学院くらいまでかな。いろんなものを読んでいたあの時代は、今考えると宝物ですね。浅田彰とか中沢新一が出てきた時代で、カスタネダも読んだし。民間の薬物治療の話を聞いていても、本来だったら音として感じられることが映像として見えてしまうとか、そういうことにも興味があった。意識が変容した時に見えるものが違うなら、ふだんの感覚って何なのだろうと、しきりに考えた。例えば青い色を複数の人間が青と言っているけれど、もしかすると互いに思っている色は違うものなのかもしれないとかね。でも、多くの人々が支障なく合意して生きていける状況を作り出せるこの精神状態って、ものすごく安定的な力を持っていると思うんですよね。そのとき考えていたことなんかも、私の書く物語に関わっていると思います。ファンタジーを書きたくて書いているのではなくて、そういうことが心の中にあって書いていると、ジャンルとしてはファンタジーと呼ばれるものになるのかもしれません。

――確かに、上橋さんの物語は、異世界のことが書かれてあっても、魔法や超人的な力で根本的な問題を解決したり、世の中を治めていく、という展開とは違いますよね。でも、今日お話をうかがっていて、上橋さんの物語のエッセンスがどこから生まれてくるのかが、すごくよく分かります。

上橋 : ファンタジーは、人間がもつ空想という力を最大限に活かせる物語かもしれない。それと、もうひとつ、私たちが日頃疑うこともない感覚を完璧にひっくり返してしまうような、意識の変容状態を垣間見させるようなものが書けるのも、ファンタジーの特徴だと思います。ただね、私は、そういう理屈でもって、ファンタジーを書きたい、ということはなかったんです。

――『獣の奏者』の展開も、お話を聞いて、改めて納得したといいますか。

上橋 : 『獣の奏者』の<探求編>と<完結編>では、過ぎ去ったものの「わからなさ」も書きたかったんです。過去の記録や伝承の断片を繋ぎ合わせた時に浮かび上がってくるものって、実際の姿とは似ても似つかないものになるかもしれない。例えばさっき縄文土器を手にして肌が粟立ったと言いましたが、その時私は男の人を想像していたんだけれど、もしかしたら女の人かもしれないですよね。ありとあらゆることが説明されることに慣れている読者にとっては、過不足なく伏線は回収されないと、納得できないかもしれないけれど、私はあえて抜きたいんです。分からなさ、届かなさを感じてほしい。そういうことがうまく書けているのは『ドームズデイ・ブック』かな。考古学者たちがフィールドワークで過去に行ってみるんだけれど、過去の英語の発音を完璧にマスターしていくのに、全然通じないんですよね(笑)。

――タイムスリップものを多く読まれていますが、上橋さんはそれとは違って異世界を舞台に選ばれていますよね。

上橋 : 歴史のどこか一点を書くということが、私には、ある意味でとても恐ろしいんです。例えば、たくさんの人が坂本竜馬を書いていて、いろんな竜馬がいる。書く人も、読む人も、フィクションだと納得しているわけだし、もちろんそれで構わないけれど、私は、どうも気になってしまうんですよ。過去に実在した人の姿を想像や解釈によって固定してしまうのが。むしろこれは異世界だと、読者が初めから納得してスタートすれば、物語を読みながら、ごく自然に、自分が生きている世界を相対化できるから、その方が私には落ち着くんです。
 というわけで、私は自分が書いているものがファンタジーがどうかは気にしていない。書店で棚に並べる時や人に説明する時にどういう系統の本か分かりやすいように分類する必要があるのでしょうが。ただ、しみじみ思うのは、ファンタジーが苦手な人って多いんだなぁということ。

――え、多いんですか。

上橋 : そうみたいですね。私の本について書いておられるネット評を読むと、「ファンタジーは正直苦手だけど、これは面白い」って書いている方が、けっこういらっしゃる(笑)。身近なことの方が感情移入しやすいし、現実的に「読む意味があること」が書かれている、と感じられるのかもしれませんね。ファンタジーは、読者自身が想像力を翼にして、遠くへ飛んで、はじめて見えてくるものが多いから。

――それが本を読む楽しみではないですか!

上橋 : だよねー(笑)!!!

――ところで、膨大な読書量ですか、この研究室以外にも、本はたくさんあるのですよね、きっと。

上橋 : 自宅にもあるし、その上に部屋を借りておいてあるし、あと倉庫に何百箱か...。封印したままですね。恐ろしくて引っ張り出せない...。

――でも『はるかなるラスカル』は封印せず手元にあるんですねえ。

上橋 : "布団の脇本"ですから(笑)。小説を書いた後は寝られなくなるので、寝る前に、何度も読みなれていて、リラックスできる本を読むんです。『トリエステの坂道』とか、あとは池波正太郎の食に関するエッセーとか。マンガの『築地魚河岸三代目』とか。食べ物の本は多いかな。こういうのは何回読んでもいい。耳に慣れた音楽を何回聴いてもいいのと同じですね。

――さて、今後のご予定は。書き終えたばかりだとは思いますが。

上橋 : まだ決まっていませんね。何かが降ってこない限り、何もできないんですよ。だから今の私はダメ人間。書いていない時は、生きていない気がするくらいです。物語の種よ、早く降って来て!(笑)

(了)