第219回:今村翔吾さん

作家の読書道 第219回:今村翔吾さん

2017年に『火喰鳥 羽州ぼろ鳶組』を刊行してデビュー、翌年『童神』(刊行時に『童の神』と改題)が角川春樹小説賞を受賞し、それが山田風太郎賞や直木賞の候補になり、そして2020年は『八本目の槍』で吉川英治文学新人賞を受賞と、快進撃を続ける今村翔吾さん。新たな時代小説の書き手として注目される今村さんは、いつ時代小説に魅せられ、何を読んできたのか? 軽快な語り口調でたっぷり語ってくださいました。

その3「ダンスインストラクターから作家に」 (3/6)

――部活など、他に何か打ち込んだものはありましたか。

今村:家業がダンススクールやから、中3からはダンスをやってました。3つ下の弟は小6くらいから始めているから、僕は遅かったですね。だから弟のほうがはるかに上手いし、最後までダンスが好きとは思わなかったけれど、ダンスの先生をやっていました。
 僕、さっきも言ったようにアクティブなこととか別に好きなほうでもないし、弟と仕事でクラブに行っても、仕込みが終わったらあの爆音のところで文庫本読んでて、弟に「クラブで文庫本読んでんの、兄貴だけやぞ」って言われたりとか。
 ダンス自体は別にそんなに好きやなかったけれど、人にものを教えたり、子どもたちに何か指導するのは性に合ってました。コーチングが好きやったんやろうな。大げさにいうと、人と何かをするとか、人とともに生きる的なことは好きなんやと思います。そういうのが作風の中にも活きているというか。僕の場合、歴史の知識と、人と人との繋がりを描きたいっていうのがくっついてますね。

――社会人になって、ダンスインストラクターとして活動されていたと。さきほど、「40歳になったら書けばいい」と思っていたとのことでしたが、実際にはもっとはやくから小説を書き始めていますよね。

今村:30歳になった時かな。小説を書かずにいるのは、池波先生の言葉を言い訳にしているんじゃないかとふと思ったり、今やらんかったら40歳になってもやらんで「50歳になったらやろう」と言っているビジョンが見えたんですよね。それだときっと50歳になってもやらんだろうな、って。その瞬間に、「よし、じゃあ今やろう」って思って、その2週間後くらいに父親に「ちょっと仕事辞める」って言うて。それが2014年の11月。で、引継ぎとかをして2015年の2月にはまだ1作も書いていないのに辞めて、もうヤバい状態。
 書いてないのに無駄に自信はあって。歴史小説に関しては、この年頃で俺ほど読んできた奴はそういないだろうっていう自信がありました。で、書いてその年から新人賞に応募をはじめました。

――すぐ書けたんですか。

今村:すぐ書けました。やっぱ天才なんやと思った(笑)。

――あはは(笑)。

今村:(笑)。理由はないけど「いけるんちゃうか」という確信は間違ってなかったと思った。なんかこう、俺には読んできた先生たちのパワーが入っている、みたいな。歴史に関しては自分は面白い小説が分かるし、自分の目で面白いと思うものを書けばいいんやろうと思っていました。

――そこからいろいろな賞に投稿されたわけですか。地方の小説の賞も獲っていますよね。

今村:小説には詳しいけれど、小説新人賞には無知で、地方と中央の差も知らなくて、何の賞を獲ってもデビューできると思ってたんやろうね。片っ端から締切がきたもの順に送っていました。それで候補に残って「いける」って思ったり。2015年から投稿して、2015年の末にポンポンと獲ったのかな。最初に伊豆文学賞、次に九州さが大衆文学賞。伊豆文学賞では始まって以来の最高得点みたいなことを言うてくださって、嵐山光三郎さんが「俺がまだ編集者だったら絶対この子は買う」と言ってくださったけれど、その場に出版社の人が誰もいないからどうしようもない。2週間後に九州さが大衆文学賞の授賞式があって、北方謙三先生と話す時間があって、そこにいた祥伝社の人に「俺はこいつは絶対書けると思うよ」みたいなことを言うてくれはって。その時に「3か月くらいで何か長編書けるか」と訊かれて、憧れの北方先生やし、ハードボイルドも北方先生やったら読んでいたし、ここは男を試されてんねんなって思って「1か月で充分です」って言うたんですよ。北方先生めっちゃ喜んで笑ってました。ほんで1か月で書いたのが『火喰鳥』。それを祥伝社が「めっちゃ面白い」って言うてくれたんです。ただ、僕もシステム分かってへんから「絶対ほめ過ぎや」「自費出版させられる」って思ってた。

――ふふ(笑)。その『火喰鳥』を第一巻として、火消たちが活躍する「羽州ぼろ鳶組シリーズ」が祥伝社文庫から11冊も出ていますね。すごい執筆スピード。

今村:最初はさすがにそんな売れへんかったけど、いつぐらいやろう、17年の秋くらいからちょっと売れるようになってた。ただ、まだ中央の賞を獲ってないから、編集者に、プロになってからも応募できる松本清張賞とか、角川春樹小説賞とか、そういうのに出しといてください、みたいに言われたんですよ。で、応募を続けていました。17年は最終候補止まりで獲れへんかったけど、18年になったら僕「小説で食べていける」ってなって、その2月に専業になったんですよ。出版社も「大丈夫やと思います」と言ってくれたけど、「もう応募せんでいいですよ」とは言われてなかったんで、だから、その後も応募し続けていたんですよ。で、「ぼろ鳶」の5巻が出る時に「来週時間ありますか」みたいなこと訊かれて「いや、春樹賞の原稿あげなあかん」と言ったら「まだ応募してたんですか!」って驚かれて「あなた達が止めへんからやろ」って。それで書き上げて春樹賞に出したのが『童の神』で。

――わあ、それで受賞したんですね。しかも山田風太郎賞や直木賞の候補にもなって話題になって。

今村:逆に言うたら書いといてよかったって。書いてなかったら、ずっと単行本の世界に来んで、文庫でシリーズ書いてるだけやったかもしれへんから。

――さきほど専業になったとおっしゃっていましたが、ダンスインストラクターを辞めた後にお仕事されていたのですか。

今村:たまたま滋賀県の守山で募集してたんで2年間発掘調査をやりました。「歴史秘話ヒストリア」とかでよく見るような発掘現場の監督さんみたいな感じです。
 僕、本が好きすぎで歴史の資料とかも見ているうちに、最終的には発掘調査報告書とかも読むようになっていたんですよ。そうなるとまあ、発掘でどういうことが行われているかも分かるようなるし、土器の採寸とかもできるようになる。まあ、小学校の頃から史跡の行政の発表とかも母に頼んで見に行っていたので、その流れもあったのかな。現場の人もすごく応援してくれはったので辞める時も迷ったけれど、それで書くほうに集中できなかったら本末転倒やし、勇気持ってデビュー10か月で辞めました。

――仕事しながら新人賞に立て続けに応募するための原稿を書くのは大変だったのでは。

今村:頑張ってた。夏なんて発掘現場は死ぬほど暑いけど危ないから作業服着なあかんし、汗でドロドロになって5、6時に帰ってお風呂入って、そのままパンツ一丁で書き出してました。六畳一間で最初はみかん箱裏返して机にして、座布団もなかった。座椅子みたいなの買った時に感動したの憶えているもん。

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