『時の光』河野道代

●今回の書評担当者●流水書房青山店 秋葉直哉

『時の光』
河野道代

 公孫樹並木を日々歩いている。だんだんと葉が黄色くなり、実が落ち、落葉していくさまを眺めながら、車ばかり多く走り、人通りのあまりないその道を何度往復したことだろう。やがて緑の葉に蔽われていくことを思い、夏には蝉の鳴き声に囲まれ、夏の終わりには秋の虫の音に包み込まれる静かな道をきまって朝と晩、歩いて通り過ぎることを、ぼくは大切にしている。

 11月半ばのある晩のこと、公孫樹並木を歩くことをせず地下鉄に乗って表参道に立ち寄った。予てより伝え聞いていた叢書の刊行がはじまったと知ったためだ。美しく、小さく、繊細な造本を施された3冊の書物はまるで、叢書の名《crystal cage》を姿かたちで体現しているかのようにジョゼフ・コーネルの、傷つきやすく触れると壊れてしまいそうな作品を思わせる。

  わたしたちは信じる、羽根で身を飾って
  そういう人のために、天使は行進すると──
  つぎつぎと列を組み、足並みそろえ──
  雪の制服を身につけて。

 コーネルの愛したエミリー・ディキンソンの、一篇の詩を思い出す。叢書を包む透明な函が「雪の制服」、そしてそこに描かれた図像、コーネルの《Panorama》の羽根を広げて飛ぶ蝶(蛾なのかもしれない)がこの詩を思い出させたのか。薄く、触れると溶けてなくなってしまうかのようなグラシン紙によってできた帯、それこそが羽根のようでもある。

 河野道代『時の光』には帯にディキンソンの詩が原文の英語で表記されている。クロス装は真っ白い雪(これこそ「雪の制服」だ)のようでもあり、影のない光そのものであるかのよう。雪景色のなかを舞う色鮮やかな蝶が美しい (バーネット・ニューマン『崇高はいま』は青空のなかを、港千尋『バスク七色』は夕暮れのなかを、蝶が舞っている)。

 河野道代の散文を読みたい、いつからかそう思っていた。1988年に亡くなった詩人について書かれた文章を読んでその思いを強くした。文末にある言葉は忘れることができず、常にどこかあたまの片隅にある。

<<だが、それにしても、なんということだろう。これをしたためた人は、もういない。人は長い時間をかけて、希うもの、その人に向って光りを投げかけているものに、近づく。それは、生きているにしても死んでいるにしても、同じことだ。>>

『時の光』は河野さんの待ち望まれていた散文集。公孫樹並木のある街での生活、そのなかで出会う植物や動物、人々などを丁寧に見つめ、記憶し、書き留めていく。カーテンのない、家の二階の窓からの光景について記された文章を読んでいくだけで、通り過ぎていく人や犬、咲いては散っていく花、その静かな描写だけで満たされていく。日常のなかにある小さな変化を注意深く見つめること、そこに歓びがある。帯に原文が、そして本文にその訳の引用があるように、「歓喜とは、進み入ること/深い深い、永遠の中へ」、その言葉が文章の隅々にまで、どこを切っても流れ出す血のように深くまで通っている。

 公孫樹並木を毎日歩くぼくは不思議な思いとともに読後深い余韻をのこした。日々の歩行が変質し、歩く速度まで変わってしまった。朝の太陽に照らされる木を見上げ樹上から聞こえる鳥の声をききながら、根方の灌木を、そしてさらにその下にときたま現れる大きな鼠を、木肌や目についた葉を毎日のように見る。変わっていくもの、変わらないもの。近くに見るもの、遠くに見るもの。それらを眺める歓びを日々の行き来のなかに見出すこととなった。

<<おびただしい黄葉は枝を離れるとき、時間そのものが剥落していくかのように、見る者を圧倒する。雪にも綿毛にも、舞い落ちるものすべてに、そぞろに心を揺るがすその属性はあるのだが、公孫樹のあざやかな黄落を見ていると、悲哀に似た感傷がどこか明るい諦観に変わっていくようにも感じられる。時間のスケールの異なりが潜在して、そう思わせるのだろうか。>>(「時空」)

 帰り道、暗い並木を歩いていると、降り積もった黄葉が月光に照らされて雪のように見える。もうすこし冬が深くなればほんものの雪が降り積もり、そのうえを滑らないよう気をつけながら、それでもまだ葉の落ちきった公孫樹を眺めることはやめないままに歩く日々となるのだろう。そしてまた緑色の葉をつける春がやってくる。その当たり前の光景を毎日眺めながら歩くこと、ぼくはなぜかそれがいつまでも続くものとして、どこか当然のことのように思っていた。しかしその日々は、あと2週間たらずで終わろうとしている。

 24の短い散文によって構成された本書は、タイトルすべてがふたつの漢字によってつけられている。末尾近くに「流水」という章がある。

<<水はすべてを潤わせつつ、流れ去ることでその清冽を保つ。手を浸せば、穢れも温もりもことごとく離れ去って、身にあるなにひとつ水にとどまるものはない。そうして手にはただ、しんとした冷たさだけが残される。>>

 かなしい気持ちもまたいつしか薄らいでいく。このさき何年ごと、何ヶ月ごとかに読み返すだろうこの本の、「流水」という章を読むたび読み返すたび少しずつこころのざわめきも静まっていくのだろう。それでもこの冬の、公孫樹並木の歩行によってかじかんだ手のしんとした冷たさ、それだけはいつまでも残るかもしれない。


「雪の制服」を身にまとったcrystal cage叢書がつぎつぎと眩い書物を刊行していくことを、列を組んで、足並みそろえて書棚に並んでいくさまを想像することがいま、ぼくを喜ばせる。

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流水書房青山店 秋葉直哉
流水書房青山店 秋葉直哉
1981年生まれ。新刊書店と古本屋と映画館と喫茶店を行ったり来たり。今秋ニュープリントでついに上映されるらしいロベール・ブレッソンの『白夜』を楽しみにぼんやりと過ごす日々。