『テーラー伊三郎』川瀬七緒

●今回の書評担当者●ときわ書房千城台店 片山恭子

 最近面白い本は、と聞かれると年齢性別に関係なくお薦めしている一冊があります。勤務中も早く続きが読みたくて、そわそわし通しだったその本は、川瀬七緒さんの『テーラー伊三郎』です。

 語り手は福島の男子高校生・津田海色(つだ あくあまりん、以下アクア)。母親はヨーロッパを舞台に綿密な時代考証の上に成り立つ女性向け歴史エロ漫画を描く官能漫画家で、アクアは背景描きを手伝っています。公安にマークされていた思想に問題ありの活動家の父親(母とは31歳の年の差!)は6年前に蒸発、貧困母子家庭にこの名前、余計なトラブルに巻き込まれぬよう目立たぬよう暮らしていたのが、ある日、通学途中の商店街の一角にある紳士服の仕立て屋のショーウィンドウに突如飾られた芸術的なまでのコルセット(コール・バレネ)に目も心も奪われたことから、アクアの人生は思いもよらぬ方向へと進み始めます。

 製作者は伊三郎83歳、舌鋒鋭く「扱いづらい」老人。芸術品の如しとはいえ、女性用下着であるコルセットを飾った意図や、老人そのひとに対する好奇心は、それまでのアクアの生活信条を忘れさせ、彼自身、母の仕事のおかげで身に付き、持て余していた服飾の知識を理解してくれる人が近くにいたという驚きと喜びもあり、もはや抑えられません。

 伊三郎の作品を排除しようとする地域老人会や商工会議所などいわゆる体制側との対立は、これまで仏頂面の夫を孤立から避けるべく間に立っていた、明るく社交的な妻を亡くして深まりますが、詳しくは書けませんがこの局面すら「革命」に利用する老獪さに痺れました。更に頑固なだけではない柔軟さを備えつつも、生物学的に老人が人格者になりえない理由を語る姿は清々しくあります。そして衣服に関する哲学は輝きを放ち痛快の極み。またなぜコール・バレネだったのかを明かす場面は、多くの事情が絡み合い、あまりに複雑な感情が渦巻き、言葉が見つかりません。

 どこまでも人の目を恐れない魅力全開の母・咲子にスチームパンク娘の明日香、マッド・エンジニアの大澤カメラ店主や電子機器マニアの友人・隼人、味わい深いアクアの担任教師やコール・バレネの華やかさ、可憐さに引き寄せられ集うおばあちゃんたちのチャーミングなこと! 女性はいつだって美には敏感なのです。人物や境遇が丁寧に語られ、ひとりひとりへの感情移入必至。

 そして、実際にいたらトラウマになりそうなキャラクターの真鍋女史! 元教頭で頑ななまでの女性弱者説にある根拠が何なのかが気になるところですが、何より自分の中にも彼女のようなサイコパシーが宿っているのではないかという不安感を煽られるところが、じわじわ恐ろしい。しかしアクアは宿敵・真鍋女史からのひどい仕打ちに対し当然激しく動揺するものの、なぜ彼女はこうした振る舞いをするのだろうかと冷静にありのままを見ようと、あくまでも公正な視線を保とうとします(この辺で己の短気を猛省)。

 この小説になぜこんなにも心を揺さぶられるのだろうと考えたとき、日頃抱いている思いを登場人物たちが見事に代弁してくれているからなのだと気付きました。ここには書ききれない、本当に色んな思いを。

 本書のオビには「老若男女よ、全力で、着飾れ」と書かれています。忖度などくそくらえ、おもねるな! という伊三郎の叱咤が聞こえてくるようです。明日香の、「なんにも諦めたくないのに」という叫びがこだまします。

 一度しかない人生、嘆くだけではなく、自分自身に誇りを持てるような生き方をしているだろうか。静かに熱く、自らにそう問いかけたくなるこの骨太で力強い物語を、どうぞ全力で楽しんでください!

*川瀬さんには、一筋縄ではいかない老人たちと若者、サイコパス・モンスターも登場する『桃ノ木坂互助会』という傑作もあります。突き抜ける面白さ。『テーラー伊三郎』をお気に召した方はこちらもぜひ!

« 前のページ | 次のページ »

ときわ書房千城台店 片山恭子
ときわ書房千城台店 片山恭子
1971年小倉生まれの岸和田育ち。初めて覚えた小倉百人一首は紫式部だが、学生時代に枕草子の講義にハマり清少納言贔屓に。転職・放浪で落ち着かない20代の終わり頃、同社に拾われる。瑞江店、本八幡店を経て3店舗め。特技は絶対音感(役に立ちません)。中山可穂、吉野朔実を偏愛。馬が好き。