『ヒトラーの防具』帚木蓬生

●今回の書評担当者●丸善書店津田沼店 沢田史郎

  • ヒトラーの防具(上) (新潮文庫)
  • 『ヒトラーの防具(上) (新潮文庫)』
    帚木 蓬生
    新潮社
    853円(税込)
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 例えば、だ。大学受験に失敗したり、好きな女の子にフラれたり、理不尽な左遷を言い渡されたり、嫁姑の仲がこじれたり、とにかくまぁ辛かったり悲しかったりすることが人生にはあれやこれやと多い訳だが、落ち込んでるヒマがあったら『ヒトラーの防具』を読んでみないか? 大抵の悩みや心配事など全く以って取るに足らん! という気にさせてくれるのみならず、現代の日本に生まれたことを神様とか仏様とか両親とかに、感謝せずにはいられなくなる筈だ。

 《贈 ヒトラー閣下 皇紀二千五百九十八年》とかって記された剣道の防具が、旧東ベルリンのどこだかから発見された!? っつーのはどうやら事実。では何故そんな物がそんなところに? っていうのは未だに謎で、その謎の部分を帚木さんが想像力を駆使して描き出したのがこの作品。文庫本で上下巻合わせて一千ページ以上という大作から迸り出るのは、ただただ"ヒューマニズム"の一語のみ。

 時代は、世界情勢がいよいよ風雲急を告げる1938(昭和13)年。在ベルリン日本大使館に勤める武官補佐官・香田光彦は、ヒトラーとナチスの暗部を目の当たりにする。即ち、回復の見込みの無い病人やアルコール中毒者、浮浪者やジプシー、同性愛者などを厄介者扱いして、次々と強制収容所へ送り込む。労働力として価値が無くなれば、切り捨てる。栄光の大ドイツは、弱者を排除することで成り立っていた......。

 そして遂に悪名高いホロコーストへと至る歴史のうねりの中で、光彦の運命を決定的に変える出逢いが生じる。或る夜、ゲシュタポに追われた若きユダヤ人女性・ヒルデを助けたことが、光彦にとって幸せだったのか否か、それは皆さんが本書を読んでそれぞれに答えを探して頂きたい。

 この作品には、凄惨な戦場の描写も血なまぐさい戦闘シーンも、実は殆ど出てこない。即ち帚木さんが描いたのは、戦争そのものの脅威ではない。にもかかわらず、戦争の悲惨さをこれほどまでに胸に叩き付けられた読書というのは、記憶に無い。何故か? それは、戦争という狂気が人々の生活を、幸せを、未来を、夢を、蹂躙していく過程を克明に記した作品だから、だと思う。

 本書を読む際は、どうか想像して欲しい。光彦やヒルデや、オーボエ奏者のルンテシュテット氏や、隣人のヒャルマー爺さんが、あなた自身やあなたが大切に思う誰彼であったなら、と。そうして読み終わった時には、きっと胸を張って断言出来る筈である。

 ちょっとやそっとの挫折や失望を味わうことぐらい、戦時下に生きることに比べればナンボかマシ! と。

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丸善書店津田沼店 沢田史郎
丸善書店津田沼店 沢田史郎
1969年生まれ。いつの間にか「おじさん書店員」であることを素直に受け入れられるまでに達観致しました。流川楓君と身長・体重が一緒なことが自慢ですが、それが仕事で活かされた試しは今のところ皆無。言うまでも無く、あんなに高くは跳べません。悩みは、読書のスピードが遅いこと。本屋大賞直前は毎年本気で泣きそうです。読書傾向は極めてオーソドックスで、所謂エンターテインメント系をのほほ~んと読んでいます。本屋の新刊台を覗いてもいまいちピンとくるものが無い、そんな時に思い出して参考にして頂けたら嬉しいです。