『ホームグラウンド』はらだみずき

●今回の書評担当者●丸善書店津田沼店 沢田史郎

 例えば今から100年余り前、ウィルバーとオーヴィルのライト兄弟が人類初飛行の夢を追いかけていた時、周囲の大多数の人は「いい歳こいて何を馬鹿な」と、半ば冷笑していたそうである。火星にまで有人ロケットを飛ばそうかという現代から見ると俄かには信じられない話だが、当時、空を飛ぶというのはそれほど奇想天外な絵空事だったらしい。ってかそもそも夢なんてもんは、他人の目にはしばしばアホらしく映るものなのかも知れない。それが現実になるまでは。

 なんてことを考えながら、『ホームグラウンド』を読了した。

 主人公は、不動産会社に勤める圭介(24~25歳?)と、その祖父で休業農家の雄蔵じいさん(71歳)。業績不振の圭介が、祖父の休耕地に賃貸マンションやら駐車場やらを建てようと熱心に営業を続けるも、あともうひと押しのところまできて、雄蔵が翻意してしまう、という出だし。心変わりの原因は何なのか? 休耕地を今後一体どうするのか? 詰め寄る圭介に雄蔵が訥々と語ったのは、独居老人の無聊を慰めてくれる一人の男の子の話。どこの誰とも分からないその子と触れ合ううち、いつしか【芝生の上でサッカーをする子供たちの姿を眺めたくなった】のだそうだ。

 そんな雄蔵を、周囲の人々──圭介とその両親、圭介の同僚などなど──は当初、冷やか且つ遠巻きにして眺めている。「何考えてんだ、このじーさん?」と、口には出さないまでも呆れている。だが、黙々と土地を耕す雄蔵の姿に触発されて、圭介が自身の夢を思い出す辺りから、物語は走り始める。即ち、バカバカしいと白けていたそれぞれが、半ば巻き込まれるようにして雄蔵の夢を共有するうち、記憶の底で埃を被っていた自分自身の夢と希望を思い出す......。

 以降、雄蔵の"ホームグラウンド"が徐々に形を成していく過程と並行して描かれるのは、親子の葛藤、夫婦の絆、家族の愛情、そして何よりも、夢を抱き続けることの難しさと素晴らしさ。興を削ぎかねないのでお喋りはこのぐらいにしておくが、これほど幸福な読後感を味わえる作品には、1年を通してもそうそう出逢えるもんじゃない、とだけはキッパリ断言しておきたい。

 夢など見ずに毎日をただ淡々と過ごしていた方が、傷つくことは多分少ない。挫折したり破たんしたり、行き詰ったり打ちのめされたり。夢など見なければそんな苦汁は舐めずに済む。だけどそれで満足なのか? と、この小説は問いかけてくる。「いい若いもんが、夢の一つや二つ持たんでどうする!?」という、雄蔵じいさんの叱責が聞こえてくる。読了後、年甲斐も無く柄にも無く、自分の将来にもう一度期待してみたくなるのは、賭けてもいい、オイラだけではない筈だ。

 かの文豪・ゲーテだって言っている。【どんな時でも希望を持っているのは、絶望しているよりもはるかに良い。可能性の限界を計ることは、誰にも出来ないのだから】と。

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丸善書店津田沼店 沢田史郎
丸善書店津田沼店 沢田史郎
1969年生まれ。いつの間にか「おじさん書店員」であることを素直に受け入れられるまでに達観致しました。流川楓君と身長・体重が一緒なことが自慢ですが、それが仕事で活かされた試しは今のところ皆無。言うまでも無く、あんなに高くは跳べません。悩みは、読書のスピードが遅いこと。本屋大賞直前は毎年本気で泣きそうです。読書傾向は極めてオーソドックスで、所謂エンターテインメント系をのほほ~んと読んでいます。本屋の新刊台を覗いてもいまいちピンとくるものが無い、そんな時に思い出して参考にして頂けたら嬉しいです。