『貧困旅行記』つげ義春

●今回の書評担当者●紀伊國屋書店仙台店 山口晋作

 「深夜特急」という本がなければ、自分の生き方も随分と変わっていただろうと思うのですが、旅行記というものはおもしろくて、店頭にあるとつい手が出てしまいます。もちろん自己満足の域を出ないようなものはおもしろくないけれど、旅の新しいスタイルを紹介してくれたり、知らない土地や知っている土地の知らないことを教えてくれたりする、そういう本を読むとどこかに出かけたくなります。先日、「いい日、旅打ち。公営ギャンブル行脚の文化史」という新書を読んだら、正直観るところがあまりないのではないかと感じていた北海道にばんえい競馬という魅力を見つけ、帯広競馬場にいってみたくなりました。

 私は旅行が好きなので、旅行記が好きなのだろうと思っていました。しかしよく考えてみると、小学生のときに子供版の「東海道中膝栗毛」を読み、宿場の団子やら桑名のハマグリやら、なんとうまそうであるか、いつかこのような旅をしてみたいと思ったことがあったのでした。旅行記が好きだから旅行が好きなのかもしれないません。

 この「貧困旅行記」は「ねじ式」などで知られる漫画家つげ義春が、昭和440代から60年代初頭に綴った紀行文を一冊にしたものです。本人の生活があまり豊かでなく(貧困や困窮というレベルでは決してありませんが)、また「暗くて惨めで貧乏たらしさに惹かれる」性格から、るるぶには載っていないような、そして今ではもしかしたら存在していないかもしれない温泉地や鉱泉の粗末な宿を巡っています。漫画同様、独特の世界観と視点で綴られるこの旅行記はそれだけでも大変に面白いものですが、そもそも彼はなぜこんな旅をするのだろうかと、考えてみるのも面白いのです。

 よく旅の目的や魅力を「日常からの逃避」という人があるし、もっともらしいので私もよく言います。しかし、ここに書かれている旅は決して「日常からの逃避」ではありません。名勝名跡を訪ね歩くのでもなく、高級旅館のもてなしを受けるのでもない。見るものもないような村で、鄙びた鉱泉宿や商人宿に泊まる。決して快適なものではない、それは日常そのものです。

 旅なのだからもちろん日常生活ではないけれど、日常ではある。彼はこの二つの言葉の間の世界を旅していた。その世界はとても狭いところで、「日常生活」マイナス「日常」は「生活」なのだから、非定住者の素質がないと入り込めないのかもしれない。などというのは私の勝手な感想ですが、つげが入り込めた視点に自分はどうやっても入り込めない気がする。

 残念ながら、彼が旅をした地名を調べてみても、無くなっているか、観光地化しているかで、この本そのままのところは少ないようです。もはや、このような旅をすることもできないだろうし、したいと思うこともできなくなってしまったのかもしれません。行くことのできない旅、でもこういうのってあったよねって知っている気がする旅、不思議な気分になる旅行記です。つげワールドと言ってしまえばそれまでなのですが。

« 前のページ | 次のページ »

紀伊國屋書店仙台店 山口晋作
紀伊國屋書店仙台店 山口晋作
1981年長野県諏訪市生まれ。アマノジャクな自分が、なんとかやってこれたのは本のおかげかなと思いこんで、本を売る人になりました。はじめの3年間は新宿で雑誌を売り、次の1年は仙台でビジネス書をやり、今は仕入れを担当しています。この仕事のいいところは、まったく興味のない本を手に取らざるをえないこと、そしてその面白さに気づいてしまうことだと思っています。