『記号の国』ロラン・バルト

●今回の書評担当者●リブロ池袋本店 幸恵子

  • 記号の国―1970 (ロラン・バルト著作集 7)
  • 『記号の国―1970 (ロラン・バルト著作集 7)』
    ロラン・バルト
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『記号の国』は、かの著名な『表徴の帝国』の新訳である(新訳は2004年の刊行、旧訳から数えれば30年振りになるらしい)。この書物には、バルトの経験したさまざまな日本が登場する。その中には、わたしたちにも馴染みのある食べ物の話題がいくつか出てくる。

 例えば、天ぷら。バルトは、天ぷらの衣を「レース編み細工」と例える。その「揚げ油の中で結晶化した」衣は「すきまだけから作られて」いて、そのすきまは「食べられるためだけにつくられて」おり、料理人は客の目の前で調理をし、その仕事ぶりは「書画家のようだ」。と、バルトは驚いているのだが、いや、わたしもこれはどこの国の食べ物なのだと一緒に驚いてしまった。

 例えば、すきやき。すきやきには中心がない、というのは本書の中でも有名な箇所の一つであろう。バルト曰く、すきやきとは、食卓の上で作りながら食べる料理で、材料が鍋に入れられ取り出されることが食べているあいだじゅう繰り返される。そして、その繰り返しには、材料が載った大皿が運ばれてくるという始まりをしめすものしかなく、ひとたび始まってしまうと中心がなくなってしまうのだと。そしてバルトは、すきやきをしている横には「材料の行き来を取り仕切っている補佐役の女性」がいるとこれまた驚いているのだが、それはわたしにとっても仰天な話である。

 斯くして、わたしは自分が高級店で食事をしたことが殆どしたことがないということを自覚し、少々侘びしい気持ちになったりしたわけだが、この書物は食べ物についてだけかかれている訳ではない。日本でバルトが体験したさまざまなことが記されている。日本の箸、おじぎ、贈り物、包み、文楽、建物、都市、微笑み、まぶた、パチンコなどなど。それらのひとつひとつや、図版に添えられたバルトの言葉を読むと、天ぷらやすきやきを例に出すまでもなく、ここに表出している日本は、架空のものなのではないかとの思えてしまわなくもない。

 しかしながら、この書物は架空の、ましてや現実の「日本論」を展開しているものなどでは決してない。そもそも日本を評価などもしていない。いうなれば、これは日本についての蘊蓄を語ったものなどではなく、日本に恋をしたバルトの驚きという快楽を綴った書物なのだ。

 俳句を好んだバルトは(本書でも俳句や言語についてはかなりの分量をさいている)、晩年に小説、そしてロマネスクへの興味と喜びを見つけていくことになるのだが、その興奮の一端がすでにこの書物からも伝わってくるようだ。

「翻訳不可能なもののなかへ降りてゆき、その衝撃をけっして和らげようとはせずに、(中略)衝撃を感じようとすること」それが、バルトの態度であり、この書物を読むということは、その衝撃の思考の課程とその先を読むということなのだ。そこには蘊蓄や理屈は要らない。

 書かれた言葉を媒体とした快楽を味わう。その幸せ。それだけでよいのだ。

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リブロ池袋本店 幸恵子
リブロ池袋本店 幸恵子
大学を卒業してから、大学の研究補助、雑貨販売、珈琲豆焙煎人、演劇関係の事務局アシスタントなど、脈略なく職を転々としていた私ですが、本屋だけは長く続いています。昨年、12年半勤務していた渋谷を離れ、現在は池袋の大型店の人文書担当。普段はぼーっとしていますが、自由であることの不自由さについて考えたりもしています。人生のモットーはいつでもユーモアを忘れずに。文系のハートをもった理系好きです。