第26回 アウタービューアー伊丹十三 鑑賞篇9

■伊丹十三というひと

 映画監督、俳優、エッセイスト、レポーター、デザイナー......多才なるダンディというのが、僕の伊丹十三観だ。若い人には『あまちゃん』の夏ばっぱ役である宮本信子の亡き夫というと少しは通じるか。謎の自殺を遂げた一九九七年十二月二〇日のことは忘れない。まだ僕が日本映画学校の学生で、千石にある三百人劇場へ『台湾映画祭』を観に出かけた夜、近くの食堂で夕飯を食っている時に知ったのだった。キン・フーの名作に酔って、瓶ビールと餃子で映画のハシゴをしようと考えていた、いい気分の真っ盛りであった。テレビ画面に眼が吸い込まれ、飛び降りたという、ちょっと信じられない死に様に薄ら寒いものを感じたのだった。恐ろしいことに鞄には伊丹十三著『ヨーロッパ退屈日記』『女たちよ!』(ともに文春文庫)が入っていた。喉を潤す麦の液体は、粘り気を帯びたように喉を通らなくなり、次の映画を観るために立ち上がった時、軽い貧血を覚えた。次に観るつもりでポケットに入っていた前売券は、伊丹と因縁浅からぬ黒沢清『キュア』だったのも強烈な思い出になっている。
 僕が伊丹十三が好きになったのは、まず俳優としてだ。『峠の群像』の吉良上野介役を観て「あれ、誰よ?」と母に訊ねた。すると昔は一三と名乗っていたがいまは十三になった伊丹というひとよと答えが返ってきた。その後『家族ゲーム』で松田優作演じる家庭教師・吉本を迎える父親役でクラクラするほど好きになり、背伸びして市川崑『細雪』を観に出かけたのは伊丹十三を眺めるためだった。この頃、伊丹十三は『お葬式』『タンポポ』を撮り、映画監督志望の小学生は「やっぱりあの人はすごいんだ」と好きから尊敬へ移っていったのだった。『お葬式』が蓮實重彦から無視されたことなどの逸話は後年知ったが、その痛手の推測は別の話なので、ここではしない。映画監督・伊丹十三はダイアローグがやたらに巧いと思った。『お葬式』と『タンポポ』ではエロ描写に参ってしまって映画どころじゃなかったが、『マルサの女』『マルサの女2』での台詞のやりとりや、それまでの邦画にないスピード感を感じたものだ。まあ、『マルサの女2』での三國連太郎が愛人の柴田美保子に投げかける「顔にセックスが出る」云々が強烈な疑問符として童貞岸川少年に突きつけられただけといえばそれまでだが......。
 どういう塩梅か山口瞳の本を読んでると伊丹十三が出てきていて、映画だけではなくエッセイも書いていると知った。僕の中では当時、ビートたけしやとんねるず、椎名誠に松田優作という偶像たちを崇拝する習慣が出来ていた。その中で、伊丹十三はちょっと別格な匂いのひとだった。中三の夏に『赤西蠣太』を観て伊丹万作という脚本家・監督を知り、その息子が十三だとわかった時の驚き。同じ頃に手にとった『万延元年のフットボール』の作者で、当時オーケンと呼んでいた大江健三郎が義理の弟だったという驚き。ダメ押しはニコラス・レイ『北京の55日』に出ていたとはという駆け出し映画狂の初歩的な驚き。なんともまあきらびやかな! そう思ってほれぼれとしたものだ。
 「本の雑誌」でも伊丹十三のエッセイは高く評価されていて、ケチな慎重居士であった僕はそのへんを知ったうえで手を出した。『ヨーロッパ退屈日記』はたいへんに気取っていて、エスプリとやららしい言葉が散りばめられていて、ちょっと舌打ちしながら読み進めた記憶があった。その何冊目かで『小説より奇なり』にぶつかったのだった。

■『小説より奇なり』から感じるもの

 
 この本は文庫ではない形で手に入れた。古い新聞のような装丁がかっこ良く、ジャケ買いに近かった。中身は整然としたものではなく、著名人インタビューと一般のひとへの聞き書き、ハゲに関するアレコレが雑然と配置されている。基本はひとの語りだけで構成された〈声の書籍〉だ。スタッズ・ターケルのような社会性はなく、伊丹十三の面白いと感じるものを並べた声の本だ。
 のっけは輪島だ。力士、親方からプロレスラーになった輪島さんだ。なにを喋るのかと読んでみると、食い物につてだ。

ワジマ カニは食べる――海のもんではカニと――エビ類ですね。エビとかシャコとか――それから細いやつ。なんと言ったかな――ああクルマエビ――そのくらいだな。あ、ナマコも好きだね。でも、コノワタはあんまり好きじゃない。
 こんなのもある。寿司屋でなにを食うかという流れでの語り。

ワジマ いや――カッパ(笑)――カッパ、玉子、アワビ――それくらいしか食べないです。僕は上品だから(笑)。

 いま読んでも、妙に可笑しい。正直どうでもいい情報だ(笑)。途中で伊丹が綱取りについて訊くので「それが本題?」と思うのだが、家族関係の話題になってしまう。で、食の話題に戻り、オコゼの味噌汁がどうとか、タコは釣るのかどうかを板前さんらしきカッチャンに意見を求めたりしてると、場所が移って六本木の高い店である瀬里奈で輪島が宮本信子と喋るのだ。大学でのことを訊かれて、輪島にまた生産性のない情報を喋らせる。

ワジマ そういえば生物の試験にチャンコ鍋のこと書いたっていうひとがいたなあ(笑)それで優をもらちゃった。
ミヤモト まさかァ。
ワジマ ほんと――俺だもん(笑)。

 ホントにどうでもい(笑)。これまで紹介したインタビューや聞き書きでこれほど生産性を欠如したものはなかった。けれど、なんか読まされてしまうヘンな引力があるのだ。この意味不明の導入は、後に荻昌弘が登場して「食の話」なのねと安心させられる。これ一本だけだと、闇夜に現れたニヤニヤ笑いの電信柱のようで、不気味でしょうがない。この輪島の後に一般のひとの聞き書きが一人称で書かれる。イキイキした長台詞のようで、これもまた、よおく考えるとどうでもいい話ばかりなのだが。

■どうでもいい話が動きまわる

 中でもタクシー運転手に訊いた「人世劇場 疾走車輪篇」が僕のお気に入りだ。

 お客さんはモテるんじゃろうねェ――なんせ、あれですもんネ、東京ベンいうのは、かなわんですもんネ、ここらで東京ベン使たら
まァ、女のコはコロッとまいりますもんねえ、キミンチドコダイやとかねえ、ボクンチコイヨとかいうたらねえ、そら女はまいりよるで。

 これが導入部だ。伊丹聞き書きには独特の癖があって、〈モテる〉〈あれですもんネ〉とか〈キミンチドコダイ〉〈ボクンチコイヨ〉というカタカナを挿入する。〈ねェ〉のェなんてよく見かける。地の文の訛りは運転手が九州の出ではないかと思わせる。じっさい、後半で明かされるわけだが、どんな人物なんだ? というヒューマンインタレストで最後まで挿話の可笑しさと共に読まされてしまう。この饒舌、無意味はクエンティン・タランティーノの語り口にも似ている。どうでもいいのだ、本当に(笑)。

 バックしとってね、フッと気がついたらねなんかお尻のへんが冷たいんでしょう。アレ、なんでこないに冷たいんかな思たらね、お尻が水に濡れとるんです。窓から水がはいりよるんじゃネ、ひょいと前見たらねェ、まわりが青いんじゃなァ、なんでこないに、まわりが青いんかな思いよったら、そのうち車がプカーッと浮いたですからネ、ああ、水の底に沈んどったんかと気がついてネ。車いうんは一辺沈んだらまた浮くんじゃねェ、アレ、まわりが青いよ、思とるうちに、スーッと浮いたですからね、窓開けて外へ出たんじゃけど、あれもびっくりしたですよ。

 この運転手さん、大丈夫か? と心配になるほどの話だ。運転席でイタしてしまう客の話や、カラダで払うと粘る女性客の話は可笑しいのだが、やや不気味で、語り手の運転手が上っ面だけの表現を使い、内面を見せないがために密室でのヒヤッとする感じがユーモアの中に紛れ込んでくる。このような巧さは、いままで挙げた吉行淳之介や高平哲郎にはない。センス一本で描き上げるというものだ。
 伊丹十三は耳はイイ。巷の与太話を聞き取るだけではなく、話し手の描写を抑揚や繰り返し、口癖というディティールを詰め込んで、ギットリした色調の絵に仕立て上げる。現実の模写と再構成の妙手だ。
 この本にある、ほかのハゲ談義や犬がいいか猫がいいかなどは、どうでもいいの極地であって有用性など放擲して、どっかへ行ってしまってる。最終的には「人世劇場 神兵衰弱篇」で〆る。宮古島にいた兵隊の話なのだが、特攻や決死の作戦を語っているのだが、どこかヒトゴトなのだ。

「で、あなたの階級は何だったっけ?」
「ウン、だから一等兵ヨ」
「一等兵?」
「ウン」
「ウンったって、一等兵で、なんでそんな兵隊使っていろいろやったりできるのヨ?」
「だって他にできるやつがいないから。だんだんそうなっちゃったのヨ」
「で、昇進もしないの?」
「しない。っていうのはネ、僕は大体満州なのよネ。で、学生時代、反満抗日の運動にはいってたら憲兵隊に掴まっちゃったのヨ」
「フーン......」

 眉唾な感じだ。けれど聞き手である伊丹十三は相手を泳がせて喋らせる。相手が話をスゴい方向へ寄せると「フーン......」で応じるだけだ。けれど最後の兵士の回想は、戦争与太話に重みを与え、じつはホントだったかもしれない、この人は誰なんだという不安を抱かせて終わる。

「ウン。やっぱりクロが先ネ。クロが先で匍匐前進してくるのヨ。こっちはもう、ほとんど食いもんないから全然体力ないじゃない、戦争しようなんて気力ありゃしないのヨ。で、われわれ、その黒人たちに手を上げたわけヨ」

 まさにセンスの勝利のような本だ。趣味的に話を聞いて文字化する。語り手の人格を言葉のデッサンでサッとスケッチしてみせる。そして俯瞰気味にこの語りを、ナンセンスの羅列にし、味わいとして「人間がただ語る不気味さ」すら付け加えてみせる。
 話によって言葉によってなにか人物を顕にするインタービューであるなら、伊丹聞き書きは違う。伊丹は表層をなぞって、内面を描かず、アウタービューさせる。聞く行為を重視するよりも、仕上げの構成に力を入れるのだろうか。このセンスは独特で、学べても真似ることは難しい。