第28回 おまけの筆まかせ

■インタビュアーの介在の利便性

 本稿は前回分で終わったと自分では考えている。けれど、ここでもう一回という編集部の提案があったので、筆まかせにインタビューに関してのことを、書き漏らしやふとした疑問も含めて綴ってみようと思う。
 僕がまだ原稿がどうやって出来上がるのか、さっぱり知らない読者だった頃はインタビュー記事を好んで読んでいた。年を経て自分が関わるようになってからは、どんな読者が目を通すのかが不明瞭に感じるようになった。これは一体どういうことだろうかと考える時がある。純粋読者だった頃のインタビューの魅力は読みやすさと、語り手自身の書くものよりも率直でわかりやすく領解できるというところに尽きるだろう。ミシェル・フーコーのインタビューでも感じることだが、インタビュアーが相手の思想を要約しているので、読んでるこっちは知ったような気になるわけだ。インタビュアーを介しての思想伝達だ。
 そう考えるとインタビュアーというのは、なかなか責任重大である。語り手の思想の中継地点であり、咀嚼して読者に伝える翻訳者でもあるのだから。また、当然、僕も含めて下衆な趣味が読者にある。先のフーコーの場合はゲイに関することなのだが、そういうことを語り手にぶつけたりするわけだ。つまり双方性をもった機能をインタビュアーは負う。こういった作業をこなした記事や書籍は読みやすくなって読者へ届く。だから僕らは買って読むのだろう。
 ではどんな読者かというと語り手に興味があるという人々だ。この語り手が社会や文化に与えるインパクトを受け取っている、〈語る人間を気にしているひとたち〉ということになるのか。気にしているひとたちの幅は広い。深く興味を持っているひとからなんだか聞いたことがあるぞというような浅いひとまで様々だ。語り手の足を掬おうという意地悪なアンチなひともいるだろう。インタビュアーはここで最大公約数と最小公倍数を考慮しつつ中継機械となって聞き出し、語らせなければならないわけだが、そうそう全員を満足させられない。インタビュアーの立ち位置によって語り手に訊く話も変わるからだ。
 どんどん下衆根性をハッスルさせてぶつけていくのも小気味良い。けれどこれには胆力と語り手に嫌われ掲載拒否を食らう覚悟も必要で、そうならないように充分な配慮もしなければならない。骨である。だからといって提灯記事的になるのはつまらない。読者もつまらんだろう。僕の場合は腰が引けているなどとも言われるが、フラットな聞き手、透明化したいと思っている。また、語り手の選考は出来るだけ自分で決めるということにする。その選択がなされた段階で、内容の半分は決まってくる。そこにインタビュアーの意思を反映させたいという一派だ。渡辺恒雄にしても鎌田慧にしても小沢一郎にしても鈴木清順にしたって僕の興味の線上では等価なのである。
 
■インタビューは非日常の行為

 インタビューは先ほど言った簡易版の思想伝達とゴシップ趣味の満足という面白味があり、またそれが当事者の肉声であるところに惹かれるのだろう。けれど、まてよと思う。肉声であるというがそれは錯覚である。インタビューというのは、訊く、書き取る、整理するという編集を経て、文字化されるのである。つまり肉声ではない。書かれたものなのである。映像でも生放送以外は編集という送り手の意図があるものが届けられる。生放送であっても下打ち合わせや台本というのが存在するわけだが。
 聞く力などが重要視というか興味の対象になっている。これが数々のインタビューを読んだり見たりした結果、「ああこういうふうに話したいな」とか「聞き出す力がすごいなあ、自分もそうなれればなあ」と思った末のものなら、僕はそういう読者や視聴者へ「いやいやそれは予めの意図があり、準備もなされた結果であるから日常会話ではありえないよ」と申したい。インタビューという手の込んだ代物は日常生活にはないものだ。そんなものを日常に持ち込んだらたいへんだ。嫁の趣味から生い立ちの陰った話やその他まで調べあげて、子どもが寝たあとに語り合ったり出来るか。その嫁も夫の後ろ暗い過去やら手柄話まで知り尽くし、そのうえで、今日のあなたはどうでしたなんて訊いてどうするということだ。職場であってもそうだろう。日常生活の聞く力は、あくまで過敏なところは鈍に訊く、くだらないと考えられるものにまで耳を傾けられるかが重要なのである。
 プロのインタビュアーが日常生活上の聞く力、なまくら包丁の威力しかないもので対した場合はどうなのか。そういうことはあるのか。これは時と場合によるだろうがある話だ。それは市井のひとびとへ訊く場合で、相手を傷つけることなく、喋りたいことをどんどん語らせてあげる。相手はエゴを満足させ、そのエゴに含まれた大切な言葉をインタビュアーは拾い上げ、互いの得となって終わる。そういう場合の応酬は、読む機会が少ないけれど日常生活でも役に立つだろう。スタッズ・ターケルはそういった市井の人物の群に訊く作業を粘り強く続け、『よい戦争!』『仕事!』(晶文社)などの名著を残した。分厚い本なのでしり込みする方々も多いだろうが、是非手にとって読むことをおすすめしたい。ここまで訊き出す力に驚いたら彼の半自伝を続けて読むといい。本稿も含めてそこらの簡易平板思想性もゼロというインタビューの本を何冊読んだって始まらない。訊くということを考えるなら、ターケルの本だけで充分という気がする。

■インタビューは昔からの娯楽だ

 それにしてもインタビューというジャンルは不可思議だ。文字で肉声を再現というイリュージョンを演出し、受け手はそれを享受する。かなり疑いなくそっくりそのまま読んでいるひとが多いはずだ。それに対して僕は倫理を問うものではない。娯楽の読み物として成立していることが面白いと思うだけである。ただコトは政治的な問題に利用された場合に限り、その演出に気が付かず、「ああ安部首相はこう考えている」とか丸のまま鵜呑みにするのは危険だと言っておこう。インタビューには送り手の意図があるのだ。僕が政治家インタビューを行っているのだから間違いない。
 この娯楽の読み物は談話という形で明治からずっとマスコミの売りである。萬朝報の見てきたように語る事件の目撃者など、真実はどうでもいい。肉声という印象で気分を盛り上げてくれれば満足なのだ。その拵え物がいつの間にか本当の語りと享受され、今に至っている。現代は裏が取れる。マスコミ関係者でなくとも裏を読者がネットを使って取ろうとすれば可能な世の中だ。言質とかいう剣呑な言葉も一般的になった。だから発言には気を使う。ソーシャルメディアの呟きやカキコミも肉声に近いからみんなが注目する。そういうご時世なものだから、肉声がじつは騙りであるぶんが含まれるのだということは見過ごされる。事実関係の他は意外にも勝手なことを語っているのが見過ごされるのは、萬朝報以来の満足が得られればヨロシイという伝統が性質になったということか。
 面白いインタビュー、つまり、おおよそ六割の大向うを納得させれば真実だろうが事実だろうがへったくれもなく受容される。これは電子媒体になっても生き続けるはずだ。紙でも電波でも電子通信でも肉声というのは大衆に受けるものだから。

■インタビュアーが表に出る効果

 語り手当人の人気や評判で読者が集まるのがインタビューだが、当節では聞き手の方にも注目が集まるようになった。「聞く力」(文春新書)の阿川佐和子さんやプロフェッショナルなインタビュアーと自他ともに認める吉田豪さん、「インタビュー術」(講談社現代新書)の永江朗さんなど諸氏賑やかになってきている。聞き手のスター性というものがあるのかないのか知らないが、語り手以外に耳目が集まることはいいことだ。僕自身は別に注目されたいとは思わない。匿名性を背負っていたい。ヤッカミとかではなくそういう流派に属していたいだけだ。
 さて、なにゆえ聞き手に耳目が集まるのはいいことだと思うのか。それはやはり聞き手の個性が見えることで、インタビューの仕掛けが明らかになり、唯々諾々と享受するだけが愉しみじゃないという新しい受け取り方が現れるからということだ。公平性、風通しの良さと言い換えてもいい。この人はこういうふうに話を持ってくんだよな、と気づきつつ読むのは、それまでと格段に違う読み方だ。するとインタビュアー次第での面白さの評価につながり、さらに質も問われてくる。ただ訊けばいいという話がなくなる。匿名の聞き手にも緊張感が生まれる。あまり突き詰めてしまうとインタビュアーの作家性まで問われそうで、それはそれであまり歓迎したくない事態だけども、これからは端っこの玄人衆の愉しみだったものが表沙汰になってくるのは確かなはずだ。そういうことになれば僕の居場所もなくなるだろう。俺は下手だから。それに隠れていたい人間だから淘汰される。世の常である。けれど無常観はない。念のため。
 こういう風潮というか、進み方になったのは必然だ。預言者を気取ってるわけじゃない。まず人生訓話的な「語るひと」が新書などで話題になった段階がある。実業家や宗教家、科学者が書いたということで人気が出たわけだが、じつはその多くは御本人の語り起こしである場合が多い。つまりインタビューの産物であったのだ。知ってか知らずか、肉声に近いそのような書物は読みやすいので惹きつけられる。繰り返しになるけれど、肉声に近い、読みやすいのは当たり前で聞き書きであるから咀嚼済みというわけだ。
 次の段階では語りおろしとかいう言葉で本が出て評判を呼んだ。端折ってしまうが、ソーシャルメディアの前進によって、呟き、が人気になる。意味ありげ、役に立つような肉声モドキから、肉声だという売りになり、やがては意味があるのかないのかわからない面妖な呟きが躍り出てしまう。呟きの真の意味は何処へ? である。呟きにしてはでかい声で、数万人が動く可能性もある偽声メディアがいまも躍動している。そのメディアでは恐ろしいことに評判の人物とかは関係なく、一般人の呟きでも注目を集めることが出来てしまう。訊かれもしないのに語ってみせる独り言メディアは成立していること自体が面白い。まあ、面白いとだけ言っておくという留保つきの感想だけど。
 ひとは語っているひとが好きなのだ。声を聞きたい。自分一人で読み、共有し、反応したいのだ。ただし、双方向の声が成立し会話が成熟していくかどうかは別の話だ。偽声メディアはコミュニケーションとは別のツールではないか。兎にも角にも、ネットの拡充で万人がインタビュアー的にはなっている。
 そこから何が生まれるかどうか。得手勝手な質問ばかりぶつけあうのも目にしたことがあるけれど、名のあるインタビュアーの手法に気がつけば、そこそこ巧いこと書いてやりとり出来るようにもなるだろう。ただし実生活ではそりゃ無理だよ、と考えている。インタビューのスキルは家庭や職場のコミュニケーションには役に立たない。徳川夢声の「話術」くらいの名著なら役に立つ。あれは喋りの基本である。インタビューの時代というのは虚妄だろうけど、いまはどうもそういう時代なのかなとも思う。何かを書いて、それが呟きと称することで万人と関係をもつ。それがさもアタリマエな世界になっている。文字化された声というのはどういうものなのか、そのリテラシーまで発達していくのか、そこらへんが今は気になっている。