第27回 おわりの考察 徳川夢声『話術』精読

話術
『話術』
徳川 夢声
白揚社
1,944円(税込)
商品を購入する
>> Amazon.co.jp
>> HonyaClub.com
>> エルパカBOOKS

        1

 ここまでインタビューについてばかり書いてきたけれど、インタビューとはいったいなんなのだろうと考えることが多くなった。主には反省なのだけれど。
 ひとつには僕は現場でのインタビューが下手であることだ。下手な理由はわかる。自分が訊きたいことが増えていき、熱もあがってしまい本番で空転しやすいのだ。また、致命的なのは僕の高揚が、お喋り過剰になってしまうことだろう。
 この失敗を本稿を書き続けている間、十一月から十二月頭にかけても繰り返した。西村賢太(「月刊宝島十一月号」)、竹中直人(「月刊宝島一月号」)、山下洋輔、大橋巨泉、高新太郎、団しん也(「文藝別冊タモリ」)といった方々だ。なんとか聞書の回数が一〇回目にならんとする筒井康隆、親しくなった中原昌也のご両名の場合はリラックスしたなかでお話できるのでまずまずの成功であったと思う。
 ここで気にかかるのは、お喋りとインタビューはどう違うというファンダメンタルな疑問だ。お喋りというのは会話だろう。一方的で無ければの話だが......一方的な語りは独り言と同じである。アタリマエのことだけども、このアタリマエが最近の会話を聞くとなされていないような気がする。
 僕には電車やファストフード店、喫茶店での会話を盗み聞く癖がある。そこでキャッチボールではなく話者のいっぽうが、ガンガン喋り、相手のリアクションを待たないという場面に遭遇することが多くなった。
 こういう風潮のせいか、阿川佐和子さんの「聞く力」や「雑談力」のような本がヒットするのだろう。阿川さんの本は別段、問題らしきものを感じなかったが、「雑談力」系の本には「おや?」と思うところが多かった。
 つまり、雑談力をつけるのはいいが相手に語らせる隙を与えないような印象を受けたということだ。雑談は会話である。独白ではない。ところが、この雑談力は一時期の薀蓄系の本と同工異曲の出来の本が一般的なのである。ははあ、つまり薀蓄も会話のタネにしたいひと向けだったが、これも内向きの知識語りであったのだと気がつく。
 そう、お喋りという概念や実質が大げさに言えば空洞化してきた時代なのだろう。言葉の空洞化と言い換えてもいい。
 さてキャッチボールの会話=お喋りとインタビューの違いである。これは歴然としていて、インタビューとは 聞き手と語り手の間に投手と捕手の関係が成立しているということだ。投手(聞き手)は言葉を投げる目的があり、打者(読み手)から三振を奪わねばならない。捕手(語り手)のサインを読み取ってコントロールに気をつけて投げる。お喋りはキャッチボールだから気楽に両者ともにイーブンな関係で球を投げ合うから、投手と捕手の関係はない。喩えが長くなったが、僕はそう諒解している。

         2

 こういう会話と職業的喋りをよーく考えた御仁がいる。昭和期においての喋りの巨人である、徳川夢声そのひとだ。夢声の著書に「話術」(白揚社)というズバリな本がある。最後の考察として、この本を紹介しつつ筆を置きたいと思う。
 徳川夢声は芸名である。本名は福原駿雄という。夢声の著書「問答有用」(朝日文庫)はインタビュー集として古典になっている。その一巻の巻頭へ徳川家十九代義親が登場しているのが面白い。

義親 ニセモノにも「ホントウのニセモノ」があるんですよ。ただわたしの名を騙ったというだけなら、これは、「ウソのニセモノ」ですがね。
夢声 そうすると、あたしなんざ、なんのニセモノになるかな。(笑)
    (徳川夢声「問答有用1」朝日文庫)

 夢声の語りは、ノンシャランである。相手が正力松太郎であろうが、吉田茂であろうがスタイルに変化はない。ぶらりと来て、喋っているという風情だ。この喋りに関しての姿勢の秘密が「話術」のなかで披露される。題して座談十五戒である。

 一、一人で喋るなかれ
 二、黙り石となるなかれ
 三、反り返るなかれ
 四、馬鹿丁寧なるなかれ
 五、お世辞屋たるなかれ
 六、毒舌屋たるなかれ
 七、コボシ屋たるなかれ
 八、自慢屋たるなかれ
 九、法螺吹きたるなかれ
 十、酢豆腐たるなかれ
 十一、賛成居士たるなかれ
 十二、反対居士たるなかれ
 十三、軽薄才子たるなかれ
 十四、木念仁たるなかれ
 十五、敬語を忘るなかれ 

 およそ「問答有用」を読むと夢声が喋る座談の芸は右の訓戒を守っているとわかる。一人でべらべら喋らず、かといって聞き役に回るから黙っているわけでもない。適時、いい相槌を打つ。

志賀 尾道ってのは、商売なんかさかんなとこだから、あんまりコセコセしてないね。よそからきたもんのふところねらうといったような気分、そんなにないんだ。そこへいくと、熱海なんてのは......。
夢声 それをおっしゃっちゃ、いけませんよ。(笑)
           (「問答有用」より)

 志賀直哉へのインタビューでの合いの手だが、歯切れがよく礼を失しない感じがいい。夢声相手での志賀直哉はずいぶんと明るく、豪快に言いっ放すところがあってくつろいで見える。夢声は部屋に飾ってあったルオーの絵を話題にするが、酢豆腐=通人ぶることはしない。ルオーの絵ということだけを口にする。こういう相手との喋りもある。

北村 肩がこるまあがね。ねぶとうなるまあが、あんた。
夢声 だんだん目が覚めてくる。(笑)
北村 心の目がさむるのよ。
夢声 おなかに神さまが宿られてるそうですが、いまここで話をされてるのも、ハラが話をしてるわけですか。
北村 そうよ。これをわしが考えてしゃべれるか。よう考えてみんさんよ、おっさん。(笑)
夢声 「あのね、おっさん」か。(笑)いちばんはじめに神さまが宿られたとき、どういう感じがしました。
北村 気がちごうたかと思うた。パッパパッパ、口がしゃべりはじめた。いまでも、ちいとあんたにゆずって、だまろうと思うても、パッパッと口がいごく。(笑)
夢声 神さまの仰せだから、こっちもだまってきいてるんです。(笑)ハラのなかにはいったという感じは、実際にあったんでしょう。

 北村サヨが相手である。天照皇大神宮教の教祖。踊る神様と呼ばれた敗戦後のトリックスターの一人だ。自宅の放火事件の犯人探しのため修行を行っているうちに、神の詞を受けたという御仁である。夢声は山口弁まるだしの北村相手に軽薄に応対するでなく、かといって持ち上げるわけでもない、だからといって反対するわけでもなく話す。座談中、ユーモアも失わず、北村の布教の片棒を担ぐような内容にもなってない。ちょっと持て余し気味という印象を出すことで、夢声の懐疑主義を出すというところがうまい。「あのねのおっさん」の合いの手などはその代表だろう。
 十五戒を僕自身に当てはめると、これがなかなか耳が痛い話になる。一、四、五と十三がとくに痛い。基本、僕はインタビュアーになってから口数が多い。鈴木清順監督に「よく喋るがあがってるの?」と訊かれたほどだ。さすが映画監督だ、こっちがあがってしまって余裕を失ってしまうのを見透かされていた。
喋り好きなのだが、インタビューという談話の席では好きだからよく喋るというわけではない。度を失って言葉が漏れる。オモラシしてしまうのだ。
 四と五も一のオモラシが原因となって、つい慇懃無礼なほど丁寧に喋ったり、持ち上げてみたりする。座談で相対する以上は、尊敬もあり、相手への価値は認めている。過度な反応を示しては、読者に気持悪い印象を与えかねない。ヨイショ記事かよ、と。僕は割合、年長者へのインタビューが多い。渡辺恒雄に対しては恐縮しすぎの面があったと反省している。表に出る内容なのだから、もっと毅然と喋ればよかったとか、斬りこむ場面がなさすぎたとか......原発問題や政界の影響力に関しての話を無意識に避けていたから。
 このへんの問題解決にはどういう修練と技量が必要なんだろうか?

        3

 徳川夢声の語りを読むと、最大の武器はユーモア感覚であることがわかる。僕にはその感覚が薄い。朴念仁であると同時に強さが足りない。ユーモアとは精神の強度を示すものだと僕は思う。
 馬鹿丁寧に話を訊いたり、ノリノリでインタビューするというのもアリだろう。けれど、それではファストフード的で、ご馳走=読物商品とはなり得ないんじゃないかと考えている。出来うることなら、僕はご馳走を作りたい。その意味でインタビュアーの強度が備わっていないと、面白い話を引き出すことは出来ないだろう。
 徳川夢声の「問答有用」を読むと話芸の巧さと強靭な精神感応力に感心する。田中角栄相手に次のようなやりとりをしている。今太閤と呼ばれた男へ、その人生行路を訊く場面だ。角栄が肉体労働の思い出を語るくだりから抜粋する。

田中 (前略)帰ってくると、だいたい十二時半です。まだ寝ないんだ。せまい路地にコンクリートの小さい空地がある。そこの下水の穴にタオルをつめて、水を出して、そのなかへよごれものをぶちこむ。ジャブジャブと洗って、しぼって、かわかしておく。三時間か四時間ねむると、また朝だ。そういう生活をやりましたよ。そうすると、そこのとなりに美人がおってね。......そんなことを書かれると、わるいんですがね。
夢声 いや、わるかあないですよ。
田中 綿屋さんだった。
夢声 綿屋のむすめですね。
田中 「あたしが洗ってあげます」というんです。こんにち、その人を忘れないね。もう顔は忘れちゃったか。
夢声 なあんだ。「忘れないね」っていっといて......。(笑)

 夢声のインタビューには臆するところがない。もうベテランの芸人、俳優、文筆家でもあるわけだから堂々たる頃のインタビューなのだが、こういう類のひとは若いころも変わらない。現に気になって弁士時代の回想や山本嘉次郎監督や古川緑波の文献にあたるとノンシャランとしたユーモリストであることがわかる。戦中の暗い時代でも鬱屈たる思いを抱きつつ、笑いを忘れない。こういう人間にはかなわないと思う。
 ユーモアを身につける修練なんぞ、ありはしないのだろうが、どこかに笑いを(意地悪なユーモア、黒い笑いも含め)求めて、それを口にすることは、まだ出来るかもしれない。ただ、手前勝手に喋って笑いを得ようと言う了見ではなく、相手の反応、その他の聴衆・読者を考えての発言を心がけてみるというのはどうだろうか(誰に言ってるんだか)。自ずと技量もユーモアに包んだ胆力も出来てくるに違いない(自信がないけれど)。
 僕のインタビュアーとしての課題・克服案件は以上のようなものだろう......こう考えていくと十五の戒めは日常的会話にも必要なものだと改めて思う。

        4

 これは本稿の序盤で書いた会話の空洞化を埋めるための必須条件だ。だから、きょうびのベストセラーに「会話」や「聞く」などの文字が並ぶのかと合点がいく。インタビューというのは、ひとつの仕事にすぎないが、そこに読者が意味を求めるのは「喋るとはどういうことか」を忘れたからにほかならない。コミュニケーションの基礎はお喋りだ。喋りは顔や口の運動と精神の働きを伴う。どう喋っていいのやらわからないというのは、精神と肉体の繋がりの欠如。人と人の関係の薄まりということを危うく思っている証拠なのだろう。
 僕はこの連載を続けてきて「インタビューの話を読んで何が面白いのやら」と悩み続けていた。だが、ここにきて「職業的な心得や回想・分析」と「喋り方、訊き方」を知りたい二極の読者がいるのだなとわかってきた。弁明するのではないが、この二つは別物である。前者はあくまで個人のメモワールや考えに過ぎず、芸談の類に属する。後者は普遍的なことであり、近年求められている話題だ。後者に関して、僕が書ける立派な処方箋はない。書き残しておくならば、徳川夢声の十五戒を頭に入れて喋ってみては? くらいなもんだし、「話芸」を古書で入手して読んでご覧なさいというのが精一杯だ。
 かといって前者の芸談も、未だインタビューの仕事に練達しているわけではないので、偉そうなことは言えない。だが、まあ、失敗談の列挙と笑って許していただきたい。
 人間のお喋りというのは「喋り」と一言で済ますには広くて深い世界である。舌耕という言葉もあるくらいで芸の話もあれば、書かれた記録、内容のこともある。複数者で語る場合もあれば、ひとりの呟き、独白だってある。インタビューということだけでも長々とここまで書けるのだから、喋りの山はどれほど高く、裾野が広いかを痛感させられた。まだ、僕はその山の五合目も登っていないはずだから、きっともう十年、十五年すれば、ちっとは見晴らしの良い話を書ける日が来るだろう。そう楽観したいものだ。
 今日も緊張と愉しみをもって、インタビューという仕事に出かけようと思う。