第5回 天羽飲料・堺社長、大いに語る!〈後編〉

東京の中小清涼飲料メーカーの、知られざるモノづくりの歴史を探訪するインタビュー・シリーズ。
第3回目は、元祖・焼酎ハイボール原液の製造元・天羽飲料の堺由夫社長。これまで明らかにされてこなかった、東京の酎ハイ(焼酎割り飲料)文化の核心に迫る重要な証言が飛び出しました。

1.販売の秘密

 天羽飲料が製造した商品は、前出の中島茂さんのような「売り子さん」と呼ばれる人たちや、古くからなじみの酒屋さんなど、各々が飲食店などの得意先をつくって、卸しています。天羽飲料本体は、直轄の卸売網を持ちません。

 「うちは製造だけで、作ったあとのサービスはほとんどやらない。仲間とか酒屋さんにみんなゆだねて、売ってもらったわけです」

 販売にも、独自のポリシーがあるといいます。

 「中島さんが売るとなったときに、うちの親父が、売り方を伝授しました。うちも儲けて、あなたも儲けるためには、売ってくれる飲食店を儲けさせ、喜ばせなきゃいけないと。だから、どこかしこで売るようなことはしない。向島の水戸街道沿いにかつてあった『伊勢芳』(いせよし)さん、堀切の『小島屋』さん、平井の、今は閉めている『伊勢元』さん、この3軒だけで始めました」

 最初に売り込みにいったのは、向島『伊勢芳』でした。

 「たまたま中島さんの借家が裏手にあった。住まいから通りに出たところが伊勢芳さんだったので、赤ラベルを持って売り込みにいったら、ちょうど(先代の)小島屋さんがいたんです。小島屋さんと伊勢芳さんは、酒場で修行をしていたときの兄弟弟子。じゃあ、うちももらおうとなって、ほとんど一緒にはじめたらしい」

 そんな偶然の逸話が残っているのも、おもしろい。

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小島屋の焼酎ハイボール
 「あの頃ハイボールの素を売ったのは、みんなもつ焼き屋さんとか、煮込み屋さん。伊勢芳さんや、平井の伊勢元さんも、もつ焼きが有名でした。小島屋さんは、当時兄弟で2店経営していた。弟さんの店は、堀切の駅前の通りを拡張するときやめちゃったけど、煮込みともつ焼きを売りにして、行列ができるほど有名な店でした。お兄さんのほうの店が今に残って、発祥の地を守っています」

 三祐酒場をはじめ、東京低地(新下町)で、黄色がかった焼酎ハイボールを出す店のほとんどが、天羽飲料のハイボール原液を使っているそうです。天羽に続いて多いのが、㈱神田食品研究所の原液であるとのこと。私はこれまで「店独自のエキス」という宝酒造の解説を鵜呑みにしていたので、衝撃を受けました。

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千住の永見
(足立区千住2-62)
 「3軒の発祥の地がみんなすごく儲かっているから、時間を空けないで中島さんが三祐さんに持っていきました。三祐さんはうちのお得意様です。基本の割り方で割合1のところ、0.5にすれば色が薄くなりますよね。そういったやりかたです。うちのハイボールを使いながら、店によって味がちがう、それも魅力みたいで。だから原液のほうが重宝でいい、自分が好きなように作れるからといいますね。千住の永見さんもうちのを使っています」

 京成沿線に「酎ハイの元祖」を名乗る店が複数あることの謎は、この証言で解けました。名づけたのは三祐酒場、割り材は天羽飲料が提供し、「発祥の地」3店に卸して評判となる。それを見て、天羽の原液を使用するようになった酒場が「元祖の素」を使っているから「元祖焼酎ハイボール」をうたう。そんな図式です。

 「うちは何でも秘密主義で、相手を喜ばせるためには、各地区に1カ所だけで、しばらくは他店に売るなと。そうしたら、ぜんぶ行列ができちゃった。周りの飲食店さんは、なんでだろうと、鵜の目鷹の目でね。だから秘密にしなさい、隠しなさいよと。うちの名前も出さなくていいからと、そういう売り方をしたんです」

 徹底した秘密主義は、東京低地の酒場での、天羽飲料のシェア拡大に寄与しましたが、あとで触れるように、名称の問題を引き起こす要因にもなります。

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