第6回 特別編 座談会 焼酎割り飲料は東京のローカル文化だ!〈前編〉

連載場所を移しての再開第一回目は、特別編として焼酎割り飲料とともに歩き続けてきた下町の老舗メーカーの方々による貴重な座談会をお送りします!


出席者:東京都清涼飲料協同組合/東京清涼飲料水工業組合
阿部勲夫理事長(丸源飲料工業株式会社会長)=阿)
神作一明副理事長((株) 興水舎代表取締役)=神)
寺田康夫副理事長(東京飲料合資会社代表取締役)=寺)
久保田潔・全国清涼飲料工業会部長 =久)

ききて:クドウヒロミ =Q)

1.焼酎の割り材(ミキサードリンク)のはじまり

Q)本日はお集まりいただき、ありがとうございます。焼酎の「割り材」や炭酸飲料について教えていただきながら、それを作ってきた東京の清涼飲料メーカーの歴史を振り返りたいと思います。

阿)われわれが作っている焼酎の割り材は、戦前もありましたか?

神)あったでしょうね。戦前は、炭酸で割ることはあまりなくて、焼酎を割るのはウメ液、ブドウ液だったと、年寄りが言っていました。

阿)私には戦前のことはわかりませんけども、戦後は間違いなくヤミ市です。そのころの焼酎は今とちがって品質が悪く、そのままでは飲みにくい。そこでウメ割り、ブドウ割りが、下町を中心に出てくるのが、一番古い記憶です。下町でも、とくに墨田・荒川・江東・足立など、いわゆる江東6区で非常に流行りはじめた。ウメとブドウの割り材では、天羽(飲料・第3回登場)さんの商品が一世を風靡しました。

神)それだけをやるメーカーは他になかったですから。

Q)割り材専門の天羽飲料が、下町とその外縁部、新下町に普及させたのですね。

阿)天羽さんは、戦前からやっていたの?

神・寺)ハイボールの素は戦後です。

神)戦前、炭酸で割るのはウイスキーのハイボールでした。

阿)炭酸割りがポピュラーになったのは戦後だと思います。

Q)大正時代に、プレンソーダ(炭酸水)が流行したことがあったようですが?

寺)モボ・モガの連中が喫茶店で「ハイボール」と称して、炭酸水をイキがって飲んでいた時代があったそうです。大正10年前後の方々じゃないでしょうか。

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