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11月28日(水)

 一昨日は、夕方6時半から神田三省堂書店で、トークイベント。「ミステリマガジン」がこの1月号からリニューアルして、そこで、新保博久、池上冬樹、羽田詩津子の3氏と「新・世界ミステリ全集」を立ち上げる、という座談会をやっている関係で、私たち4人がトークイベントをやることになったわけ。この座談会は今年の5月から8月まで、月に一度早川書房の会議室で行ったもので、つまり最終回がもう3ヵ月も前のことなのである。だから、「ミステリマガジン」1月号の座談会で、「ディーン・クーンツにも1巻欲しいなあ」と私は発言しているのだが、本当にクーンツで1巻貰ったのかどうか記憶にない。どうなったかなあ。

 その5月から8月にかけて行った月に一度の座談会の日は、ホントに楽しかった。夕方終わってから新宿に移動して、毎回池林房で夜更けまで飲んだのである。各社の編集者の方々も集まって、侃々諤々。酒を飲みながら本の話、業界の話、あっちこっちに話は飛んで、ホント、楽しい。朝まで飲んだこともあった。徹夜酒は二十年ぶりくらい。

 この会を毎月開きたいのに、夏で終わってしまって、まったく残念である。町田に引っ込んでから都心に出る機会が極端に少なくなったので、こういう機会がないと飲み会にもなかなか参加できないのだ。ただの飲み会よりも、仕事を終えてからの飲み会、というのがいい。

 で、そのトークイベントのために「ミステリマガジン」1月号を小田急線の中で読んでいたら、巻末の次号予告の欄に、「上橋菜穂子のミステリ的読み方 北上次郎」とあったのでびっくり。上橋菜穂子について短いエッセイを書いてくれと編集部のK嬢から依頼されたことはもちろん覚えているが、そういうテーマであることを初めて知った。そうだったんですか。

 喫茶店フォリオで、某社の編集者と打ち合わせをしてから、三省堂へ。トークイベントはあっという間に終わり、早川書房地下のレストランに移動して会食。池林房に到着は10時半。夜遅い集合なので、さすがに今回はメンバーが少なかったが、イベントの会場にもいた大森望がきたのでびっくり。この男の日記を読むと、ホントに忙しい日々を送っていて、それでこんな飲み会にも顔を出しているんだから、いつ本を読んでいるんだ? 池上冬樹が「好きな女性編集者ベスト3」を山形の飲み会で発表したというので、誰?と尋ねたのに最後まで教えてくれなかったのが心残りである。いったい、誰なんだ?

11月15日(金)

 ずいぶん昔に出た文庫本を増刷することになったので帯4に解説から一部を引用したいと、某社の編集者から電話がきた。その文庫は1989年に出たものらしい。書名を再度聞いても心当たりがない。「その文庫、本当に私が解説を書いたんですか」と思わず尋ねてしまった。まったく記憶にないのだ。私にとっては珍しいことではないが、たぶんその編集者は電話口の向こうで呆れていたことだろう。

 今年の春、某社のパーティに出たとき、旧知の編集者が「新人です」と若い女性編集者を紹介してくれたことがあった。何の話をしたのか今となっては覚えていないのだが、ちょっと前のことを私が失念していることにその女性が驚いたとき、旧知の編集者が「そういう人なんだよ」と言い、その女性が「そういう人なんですか」と言ったのが印象的だった。年を取ったから忘れっぽくなったわけではなく、若いときから私、著しく記憶力が後退しているのだ。古い知り合いなら誰もが知っていることなので、今では驚かれることも少ないが、たまにこうして驚かれると、やっぱり私も後ろめたい気持ちになる。

 そこで、今年の初頭に北海道の山下さんが送ってくれた「北上次郎解説文庫リスト」を取り出してみた。1989年の項に、たしかにその文庫が載っている。本当に私が解説を書いていたんだ。あわててパソコンのハードディスクを調べたが、その解説原稿は入っていない。この20年間に書いたすべての原稿がハードディスクに入っているはずなのだが、時にこういうことがある。

 改めて、そのリストをじっくりと見た。今年の始めにこのリストを一度は見たはずなのだが、今回は一冊ずつ順に確認してみた。2000年以降に出た文庫については、さすがに大半のものは覚えているが、1980年代の前半はワープロ導入前なので、ハードディスクにも入っておらず、えっ、こんなの書いていたのかよ、というものが少なくない。1985年に徳間文庫から出た大藪春彦『ザ・刑事』の解説を書いていたとは知らなかった。

 しかし、いちばん驚いたのは、マイクル・コナリー『ラスト・コヨーテ』(扶桑社ミステリー)の解説を書いていたことだ。本当かよ。この文庫は1996年に刊行されている。1985年の『ザ・刑事』を忘れていても、これは仕方がない。だって22年も前のことなのだ。でも、『ラスト・コヨーテ』は11年前だ。それを忘れていたとはショック。実は私、このシリーズの大ファンで、いつか解説を依頼される日が来るかなと思っていた。そう思っているだけで依頼が来ないことも少なくないが、結果はどうでもいい。そう思っていることがこの場合のポイント。つまり、依頼が来たら、記憶力の悪い私はこれまでの全作品を読み返さなければならないわけで、シリーズが進むにつれて、どんどん巻数が増えてくるからそれは大変な手間だよな、と考えていたのである。ところが11年前にもう書いていたとは。

 あわてて書棚に飛んで行く。今年の2月に町田に戻ってから書棚を少しずつ整理していて、あちこちに散らばっていたマイクル・コナリーの作品を一ヵ所に集めていたのである。昔は作家別にきちんと整理していたが、本が増えるにつれてそれが出来なくなり、たとえば、トマス・H・クックとかゴダードとか、みんなばらばらになっているから、そういう作家の本を見つけるたびに、作家別のコーナーを作っている。いつか再読する日が来なくても、そうしておいたほうが便利だろう。マイクル・コナリーは、まだ全作品が揃っていない。実はクックもゴダードも揃っていない。この3人の翻訳は全部持っているはずなのだが、どこに隠れているのやら。

 折よく、『ラスト・コヨーテ』下巻があったので手に取ってみると、おお、解説を本当に書いている。これは、ハリー・ボッシュ・シリーズの第4作で、第1作からどう変わってきたのか、変わらない核は何なのか、といかにも私が書きそうなことを書いている。実はその小説の内容を私はまったく覚えていないのである。だから解説を読むと、『ラスト・コヨーテ』をすぐ読みたくなるほど面白そうだ。

 誤解なきように書いておけば、私の解説がすぐれているから読みたくなるのだ、という話ではない。記憶力が悪いと、いつもこのように、おおっと驚くことが多い、という話である。

11月6日(火)

 オール讀物11月号が「昭和がよみがえる」という特集を組んでいて、そこに村松友視「五十鈴」という短編が載っている。これを読んでいたら、昔のことをどっと思い出してしまった。とりあえずは、そこから引く。

「新宿駅の中央口の構内から右へ出て、線路に沿うような感じで歩き、突き当たりを上がれば甲州街道だが、その手前右にけっこう大袈裟な公衆便所がある。公衆便所にしては立派すぎる造りで、遠目にはそれとは見えぬたたずまいだ。その公衆便所の斜め向かいあたりに、「おにぎり・お茶漬け 五十鈴」という看板がある」

 村松友視の短編で描かれるのは、一九六〇年代末の「五十鈴」だが、私がよく通っていたのはそれから十年後だ。本の雑誌の創刊が一九七六年で、明治大学に通っていた千脇隆夫、天野正之と知り合ったのが一九七八年。それから配本部隊が出来るまで、よく五十鈴に行った。

 五十鈴は、奥に向かって馬蹄形に伸びるカウンターの外側に客が座り、その内側におばちゃんたちが入っている店なので、大人数で入ると隣の人としか会話できないことになる。だから配本部隊が三人以上になると、違う店に行くようになってしまった。千脇隆夫と天野正之、あるいは千脇隆夫と米藤俊明、という組み合わせのときに、五十鈴のカウンター席に座って配本の疲れを癒したのである。大集団を引き連れて池林房に顔を出すようになる前のことだ。

『本の雑誌風雲録』に千脇隆夫が寄せた文を引いておく。

「レンタカー時代になると、新宿南口にある三越の駐車場に車を置いた後、五十鈴に立ち寄るようになったのです。五十鈴で飲んだ酒は、いつもうまかったように思います。目黒さんの弁舌は冴え、小説の話、業界の話、女の話、学生時代の話etc−−いろいろ話してくれました」

 いまとなっては何を話していたのやら、まったく覚えていない。信濃町に事務所が移って人が増えてくると、もう五十鈴には入れないので、大人数でも入れる居酒屋を探してうろうろしたが、少人数のときによく行った店がもう一軒ある。五十鈴の斜め向かいにあった立ち飲み屋「日本晴れ」だ。この「日本晴れ」にはトイレがなかったので、村松友視の短編に出てくる「大袈裟な公衆便所」に行ったものだ。吉田伸子がまだ学生だったころで、彼女とも何度か「日本晴れ」に行ったことがある。五十鈴と違って、こちらは立ち飲みであるから一人客が多く、ということは会話というものがなく、みんなでテレビを見上げていた。そこに女子学生が入っていくものだから、しかも大声で話しだすから、いやはや目立ったものである。

 本の雑誌の学生諸君とは行かなくなっても、その後も友人とはよく五十鈴に行った。当時の女友達と、夕方6時から朝5時まで飲んでいたこともある。そのとき飲んだ日本酒は二人で二十八杯。あれほど飲んだことはその後もない。そのころカウンターの中で働いていたMさんと顔なじみになり、息子が結婚して家を出たのだが、なかなか帰ってこないという話を聞かされたことがある。Mさんは、上品な顔だちのご婦人だった。

 五十鈴は年配のご婦人だけが働く店だったが、ずいぶんあとになっていくと、その慣習は破られたようで、青年が数人まじってカウンターの中を動き回っていた。そのときMさんはもういなかった。まだ私が三十歳そこそこだったころだから、三十年前の話である。五十鈴も日本晴れもずいぶん昔になくなり、跡地には今やビルが建ち並んでいる。そこを歩くたびに、ふっと昔のことを思い出すのである。

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