1月28日(月)

 読書会の次の司会進行役に考えていたのは、菊池仁だった。明治大学に入ったとき、最初から映画研究部に入ると決めていた私が、各サークルの勧誘の出店が並ぶ通りをまっすぐに進んでいくと、映研の出店に座っていたのが一級上の菊池仁である。つまり私の大学の先輩だ。しかもそれだけではない。

 それから四年後、一度就職した会社を4月3日の朝に辞め、もう一度大学に戻って聴講生となっていた私が、大学近くのサークルの溜まり場になっていた喫茶店で新聞を開くと、その求人欄に菊池仁がその前年勤めた社の募集広告が載っていて、あっ、先輩の会社だ、とすぐに、その喫茶店から菊池仁の会社に電話したことを思い出す。

「求人広告を見ましたよ」と言ったのは話のきっかけにすぎない。久しぶりで懐かしくなって電話しただけなのである。ところがそのとき、菊池仁は電話の向こうから、びっくりしたような声で、「お前、本気か」と言い、私のほうが驚いてしまった。彼は、私がその会社を受けるために電話してきたと思ったらしい。誤解されてるなと思ったが、「じゃあ、明日、社の近くの喫茶店まで来い」と言う菊池仁に何も言わなかったのは、久しぶりに先輩に会いたかったからで、誤解はそのときに解けばいいと思っていた。

 そうか。この話は『本の雑誌風雲録』に書いたな、とたったいま思い出したので、あとは簡単にすませることにする。その翌日、菊池仁に会いに銀座の喫茶店に行くと、先輩はスーツ姿のがっちりした男と一緒にあらわれ、それが椎名誠との初対面だったことも『本の雑誌風雲録』に書いた。ようするに、菊池仁は椎名の部下で、私の先輩なのである。菊池仁がその会社に入らなければ、私と椎名が知り合うこともなかったわけだ。

 読書会の司会進行役が、椎名誠→目黒考二→菊池仁と続いていくのは、つまり知り合いラインなのである。いいんじゃないかなあこれ、と思って提案し、四谷図書館が入っているビルが工事に入るということもあり、翌月から菊池仁司会のもとにまた場所を変えて、第三次読書会が始まったのである。

 どうしてその読書会の話を書いたのかというと、実は先日、久しぶりにその読書会に行ってきたからである。菊池仁が司会役になってから十数年、まだ続いているのである。読書会に行く気になったのは、菊池仁に会いたくなったからだ。この五年で彼とは三回しか会っていない。しかもそれがすべて、共通の知人の通夜である。

 つい先日、親友を亡くした友達が、「元気なうちに、もっと会っておけばよかったな」と酒場で呟いたことがずっと残っていて、突然菊池仁のことを思い出したのである。先輩とはいえ、ほぼ同世代だからどちらが先に逝くかわからないが、お互いが元気なうちにもっと会っておこうと考えたのだ。

 菊池仁は元気だった。読書会の会員も私の知っている古い会員がまだ多く、読書会を終えてから二次会、三次会と席を移して、おいしい酒を飲んだ。そのときに古い会員のIさんから、読書会のこれまでのテキスト一覧を渡され、それを見たら私が勘違いしていたことが判明。椎名の講座が終了してから4ヵ月はまったくの自主活動をしていて、その間、私は参加していない。そうだったんですか。私は椎名からすぐに引き継いだつもりでいたのだが、そうではなかったのである。受講生たちが数カ月、彼女たちだけで自主活動していて、やっぱり司会進行役がいたほうがいいとの結論を出して、私に電話がきたようだ。 

 そのとき(1985年3月)の第一回のテキストが、マーガレット・ドラブル『碾臼』で、新宿に場を移して始まった男女混合の読者会の第1回(1986年1月)のテキストが、志水辰夫『背いて故郷』、最終回(1992年6月)のテキストが、スティーヴン・キング『IT』であった。つまり私が司会を担当していたのは8年間だった。10年以上やっていたつもりでいたのだが、8年間ですか。それから菊池仁になって16年。おやおや、先輩のほうがもうダブルスコアだ。いちばん最初の椎名が2年間なら、この読書会はもう26年続いていることになる。

 若い会員が少なく(28歳の会員もいるけれど)、40代以上の会員が圧倒的に多いのは、この読書会の将来を考えると、ふと不安になるが、よくここまで続いてきたものだと思う。毎月参加することはもうとても出来ないが、今回のように気まぐれで参加したいという時もあるだろうから、いつまでもこの読書会が続いていてほしい、と思うのである。

1月25日(金)

 ずいぶん昔、読書会をやっていたことがある。

 そもそものきっかけは椎名誠だ。東京郊外にある某ショッピングモールのカルチャースクールで、椎名が「本とよもやま話」の講座をやっていたのは、いまから25年前のことである。テキストを決めて、それを読んできた会員に、椎名がその本についてあれこれ話すという講座だから読書会といっていい。二年ほど続いただろうか。大変評判の講座だったようだが、そのころの椎名は世界各地にとびまわって忙しい時期だったので、その講座は二年で終了。普通ならそれで終わりになるところだが、そのときの受講者の有志が、せっかくだからこの会をもっと続けていこうと話し合い、私に電話が掛かってきた。

 素人だけが集まって読書会をやるよりも、誰か司会進行役がいたほうがいいという判断だったらしい。椎名が講師をやっていた二年間に私は数度ゲストとして呼ばれていたので、「そうだ、目黒がいい」と受講者は私を目をつけたようだ。

 その某ショッピングモールのカルチャー講座の担当者と交渉し、ただで教室を貸してもらったのだから、行動力のあるお嬢さんたちだった。ようするに、もぐりの自主講座である。おそらく担当者の好意だったと思われるが、あるいは某ショッピングモールには内緒で教室を貸してくれたかもしれないので、ご迷惑をかけないように、その担当者のお名前もショッピングモールの名前もここに書かないことにする。

 それからしばらく、私は月に一度東京郊外のその街に通うことになった。大学時代の映画研究部の合評会方式を、その新生読書会に採用したが、それは、まずテキストについて何か一言ずつ全員が順番に発言し、そこから司会が問題点を引っ張りだしてきて、議論を促すというものだ。話題が途切れると、また司会がきっかけを提出し、場を盛り上げる。つまり私は、講師ではなく、文字通りの司会進行役である。

 当時、全員が二十代だったと思う。椎名誠の講座を受講していたのだから、熱心な椎名ファンではあるのだが、それと同時に本好きで、とにかく本について語りたいというお嬢さんたちだった。読書会が終わると、ショッピングモールの真ん前にあったレストランで十数人の会員と食事をして雑談という月例会は、私も楽しかった。というのは、私が絶賛した小説でも、いつも半分は意見がわかれるのである。全員が褒める小説はないし、全員がけなす小説もない。小説は多様な読み方が出来るのだということを、私はその読書会で教えられた。

 いくらなんでも、もぐりの自主講座がそう何年も続くわけもなく、一年後に他の場所に会場を探さなければならなくなったが、その最後の日、レストランにいた私に、カルチャースクールの担当者からバラの花束が届いたことを思い出す。ちなみにその担当者は男性だった。

 どうせ場所を移すなら、目黒の会社に近いほうがいいだろうと彼女たちが言ってくれて、その翌月からは四谷図書館内の教室が会場になった。申し込めば、安価で貸してくれるスペースがあったのである。当時は本の雑誌社が新宿にあったので、私には便利である。この機会に、男性会員も募集しようということになり、本の雑誌に告知を出すと集まったのが五十人。あ、そうか。書き忘れていた。椎名の講座は女性限定だったので、もぐりの自主講座を立ち上げたのは全員が女性だった。

 で、それから十数年、読書会のあとに池林房で打ち上げをするという月例会が続くことになった。本郷の旅館に一泊する夏期合宿というものもあり、退会する人もいれば新しく入ってくる人もいて、なかなか賑やかな読書会だった。会員同士で結婚したカップルもいれば、表に出ない恋のドラマも数々あったようだ。

 私の事情が変わらなければ、たぶんずっと続けていただろう。だが、極端に忙しくなって、月に一度の読書会に出席するのがだんだん困難になってきた。そこで、司会進行役を下りることになった。次の司会進行役を責任を持って紹介するとみなさんに約束して、下りたのは会社が笹塚に引っ越す前後だったと思う。

 もっと書きたいことがあるのだが、あまりに長くなってきたので、続きは来週に書く。

1月16日(水)

 本の雑誌社に行くと、浜本が「改訂版が届いていますよ」と数枚の紙を差し出してきた。何なのよその改訂版って? 見ると、北海道の山下さんが、「北上次郎解説文庫リスト」の改訂版を作って、送ってくれたのだった。

 前回は、2007年1月の須藤靖貴『押し出せ青春』(小学館文庫)までのリストだったが、今回は2007年11月のコーディ・マクファイン『戦慄』(ヴィレッジブックス)まで。まあ10ヵ月もすれば、新しいものが増えるのは当然だから、それだけなら驚かないが、前回版でこぼれ落ちているものを埋めているので、びっくり。それを数えてみると、51点。そんなに落ちていたんですか。落ちていても数点だと思っていたのに。

 いつだったか飲み屋で、その前回版のリストを見た池上冬樹に、「絶対にもっと書いているよ」と言われたとき、そうかなあと思ったものだが、すまん。本当にもっと書いていた。1978年7月の、生島治郎『殺しの前に口笛を』(集英社文庫)から、2007年11月のコーディ・マクファイン『戦慄』まで、その数は229点でした。30年間で書いたものであるから、1年に7・6冊だ。大森望とか香山二三郎に比べれば、これでも少ないほうだろう。

 ワープロを導入する前の最初の10年間に書いたものは、何ひとつ残っていないので、今回も、「えっ、これを書いていたの?」というものが少なくない。ドン・ペンドルトン『水曜日・謀略のシナリオ』(創元推理文庫)1984年、藤本義一『標的野郎』(光文社文庫)1985年、J・オールビュー『ランターン組織網』(創元推理文庫)1985年、勝目梓『処刑のライセンス』(光文社文庫)1985年、『けもの道に罠を張れ』(徳間文庫)1986年、の5点はまったく記憶にないが、いちばん驚いたのは、次の三作。                  

ギャビン・ライアル『拳銃を持つビーナス』(ハヤカワ文庫)1990年
クレイグ・トーマス『ウインターホーク』(扶桑社ミステリー)1990年
クレイグ・トーマス『ファイアフォックスダウン』(ハヤカワ文庫)1991年

 ギャビン・ライアルの解説を一度書いていたことも驚きだが、トーマスの解説を2度も書いていたとは、ショック。トーマスは私が偏愛する作家なのである。ミステリマガジンでやっている「新・世界ミステリ全集をたちあげる」という座談会でも、強く主張して1人1巻をもらった作家なのだ。どういうわけか、一度も解説を書く機会がなかったと思っていた。書いていたんです。

 トーマスについて、どういうふうに解説を書いたのか、読みたいなあと思いながら、京王線に乗って帰ってきたのである。