05「道頓堀」

 お昼時ともなれば、市場の2階にある食堂街はほとんど満席だ。どの店に入ろうかとぶらついていると、「道頓堀」という看板が目に留まった。沖縄なのに道頓堀とはどういうことだろう?

「それはお客さんからもよく訊ねられるんです」。「道頓堀」でマネージャーを務める上原佐和美さんはそう苦笑する。「うちの祖父は上原寛太郎といって、明治の人なんです。その頃の沖縄には仕事らしい仕事が少なかったんで、出稼ぎに行く人が多かったんですね。関西のあたりには紡績工場がたくさんあって、そこで働くために祖父は大阪に移住していたんです」

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 沖縄は"移民県"として知られる。戦前に日本から海外へ移住した人は77万人だが、そのうちの7万人が沖縄県民だ。人口比を考えると、海外移住者のおよそ1割が沖縄県民というのは相当な比率だと言える。1899年、沖縄では初となる海外移民がハワイへと旅立った。当時の沖縄は貧しく、食糧難からソテツを食し、食中毒で命を落とす人も出るほど深刻な不況で、「ソテツ地獄」と呼ばれた時代だ。海外だけでなく、新天地を求めて他の都道府県に移り住む人も多くいた。人気だった土地の一つが、船便で結ばれていた大阪だ。寛太郎さんも海を渡ったひとりで、移住した先で家庭を築いた。

「祖父は旅館なんかは経営してたみたいですけど、特に食堂の経験があるわけではなかったみたいです。大阪で終戦を迎えて、まずは祖父が沖縄に帰ってきて、1955年にどういうわけか店を始めた。しばらく経って息子夫婦――私の両親ですね――を呼び戻して、一緒に仕事していたらしいです」

 寛太郎さんがお店を構えたのは市場中央通りで、そこは"冷し物"の店だった。"冷し物"の店は沖縄各地にあり、かき氷やぜんざいを提供する店だ。

「うちの祖父には先見の明があって、大判焼きやソフトクリームを出す店だったんです。そんなものを出している店は他になかったから、かなり活気があって賑わったらしいですよあの頃は沖縄各地から公設市場に買い物にきていた時代で、買い物の帰りに食堂でごはんを食べるのが楽しみだったと思うんです。その当時は食堂というのもそんなにたくさんあったわけではないですから、外食というのも珍しかったんでしょうね」

 寛太郎さんが始めた食堂には屋号がなかった。「道頓堀」と名前をつけたのは、佐和美さんの両親にあたる寛一さんと良子さんの夫婦が独立して店を始めたときのことだ。生まれ育った大阪の中でも特に活気のある通りの名前をつけようと、この屋号を選んだのだという。

「祖父の店は買い物にきたお客さんをターゲットにしてましたけど、新しい店は公設市場のすぐ隣にあったんで、市場で働く人に向けた食堂にしたみたいです。当時はわずか半間ほどの広さに一つのお店があって、一人で切り盛りされている方も多かったですから、店を離れて外に出たくない人が多かったんですよ。そこで父は、今で言うデリバリーを始めたんです。まだ電話がなかったから、お昼が近づいてくると聞いてまわるわけですよ。メニューは日替わりで、『今日はイラブー汁だけど、いかがですか』と。あるいは、『あんたの店、明日は何かね?』と訊かれたら、明日はこんな料理にするよと答えて、『じゃあ明日、お昼に持ってきてね』と注文されたりね。そんなふうにして商売してたんです」

 佐和美さんは小さい頃から食堂の仕事を手伝っていた。小学生の頃の主な仕事は"薪割り"だ。

「当時の物流というのは、段ボールで運ばれてくるんじゃなくて、木箱で運ばれてくるんです。果物にしても缶詰にしても、木箱に入って運ばれてくる。市場で働く皆さんは朝になると木箱から商品を取り出して、晩になる頃には木箱が山積みになっているんですよ。それをもらってきて、釘を抜いて解体する。そうすると一枚の板になりますよね。あの頃はまだガスがなかったから、料理なんかもこの板を燃料にして作ってたんです。今は薪を燃料に使うと公害問題になるでしょうけど、あの"薪割り"は楽しい思い出ですね」

 1972年、「道頓堀」は建て替えられたばかりの公設市場の二階に移転する。最初のうちは二階が食堂街だったわけでもなく、雑貨屋さんに混じって食堂を営んでいた。寛一さんは移転を機に趣向を変えて、おでんを看板メニューに掲げた。

「あの頃はまだ、おでんというのは飲み屋さんで出すものというイメージが強かったんです。それを食堂で出すというのは、アイディアのある父だったなと思いますね。沖縄のおでんにはてびちを入れるんですけど、沖縄の人はてびちが好きなんです。それに、おでんであれば、午前中のうちに準備をしておけば、注文が入ったときにすぐに出せる。そうすると人数が少なくても対応できるでしょう。軍でよく使っていた四角い大きい鍋を二つ、ガスコンロにかけておいて、そこでおでんを煮る。そんなに種類があるわけじゃなかったけど、あんまりお腹が減ってない人は何個かつまんで、お腹が減っている人はたくさん注文できる。大根なんかは輪切りにするんじゃなくて、4分の1に縦割りする。だから長い大根で、お皿からはみ出してましたね。結び昆布なんかも、一つでおたま一杯ぶんぐらいあるんですよ。決しておしゃれに見えるものではなかったけど、量は多いということで繁盛しましたね」

 最初は夫婦ふたりで切り盛りする小さな店だったが、今では32名が働く大店だ。提供するメニューも時代とともに移り変わる。観光客が増えた今ではおでんは売っておらず、一番人気はソーキそばだ。

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「今はネットの時代になってますので、観光でいらっしゃる方も、事前に検索できるでしょう。旅行にこられる前にある程度調べていらっしゃるから、沖縄料理についても皆さん詳しいですよね。ゴーヤなんて、昔は『にがうり』と言わなければ観光客の方に通じなかったけど、今は外国のお客さんでも『ゴーヤ』で通じますよ。チャンプルーも全般的によく出ますし、グルクンの唐揚げなんかも人気ですね」

 父の跡を継いだのは、長男の隆さんだった。ただ、隆さんは17年前に亡くなってしまって、今は次男の恵造さんが社長を務めている。今でこそマネージャーとして「道頓堀」で働く佐和美さんだが、若い頃は別の仕事に就いていたという。

「小さい頃は店の手伝いをしていたんですけど、若い頃はね、この食堂から逃げたいというかね、違う仕事がやりたいと思っていた時期があるんです。それで一時期はフランス料理店で働いていたんですね。最初のうちは知り合いがやっているフランス料理店で修行して、久茂地に『TAMARA』というお店をオープンしたんです。そこは結構賑わっていたんですけど、兄弟は皆、何かしら店を手伝っていたんですよ。私は8人兄弟の5番目なんですけど、やっぱりこの食堂を手伝わないとと思うようになって、40代後半になってまたここで働くようになったんです」

 その話を聞いて謎が解けた。佐和美さんはいつも蝶ネクタイをして食堂に立っているが、それはフランス料理店で働いていた時代の名残りなのだという。

「ここで働くようになって、最初はポロシャツできたんです。それだとどうも士気が高まらなくて、前のスタイルでやればいいんじゃないかと思って、蝶ネクタイをしてみた。そうすると気合が入って、楽しい気分で仕事ができたんです。しゃきっと仕事をするには、このスタイルがいいなと思ったんですよね。自分が持っている洋服を箪笥の肥やしにして仕事をするより、自分に合うスタイルで仕事をしたほうが楽しいですよね」

 佐和美さんは週に6日、「道頓堀」で働いている。日々の楽しみは何かと訊ねると、「仕事にくるのが一番の楽しみ」と佐和美さんは笑う。今日はどんなお客さんに会えるだろう。期待で胸を膨らませて、佐和美さんは今日も食堂に立つ。

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