06「山城こんぶ店」

 昆布店と聞くと、ほとんどの人は乾物屋を思い浮かべるだろう。だが、公設市場にある「山城こんぶ店」が扱っているのは乾燥させた昆布ではなく、ゆがいた昆布だ。沖縄で昆布は獲れないが、江戸時代になると薩摩藩を経由して昆布が運び込まれるようになり、定番の食材となった。「山城こんぶ店」は、湯がいた昆布やスンシー(めんま)を販売していて、これを買って帰ればすぐに炒め物が作れる。

「最初に昆布屋を始めたのは、自分のおじいさんとおばあさんなんです」。そう語るのは粟国和子さんだ。「自分が小さい頃に、おばあさんに聞いたことがあるんです。『どうして昆布屋をやろうと思ったの?』って。そのときの話だと、知り合いから昆布を分けてもらって、それを売ってみたのが始まりだと言ってましたね。その当時の市場はまだ建物じゃなくて、畑みたいな場所だったらしいです。今扱っている昆布の種類も味つけも、全部おばあさんの代から引き継いでますね」

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和子さんは昭和24年、沖縄県北部にある国頭村に生まれた。母からは14代将軍・徳川家茂に嫁いだ皇女・和宮から名づけたと聞かされたが、「あの時代は皆が平和を望んでたからだと思う」と和子さんは言う。生まれてまもない頃に祖父母が昆布店を始めて、家族で那覇に移り住んだ。

「国頭にいた頃の記憶はないけど、正月やお盆には遊びに行ってましたね。若い人は想像つかないと思うけど、庭にはシークヮーサーの実が一杯あって、それを採って食べるのが楽しみだった。もう、食べるものも遊ぶものも自然のものさ。畑の近くには必ず溜め池があって、学校帰りに洋服を着たまま泳いだり、洞窟を探検したり、丘からダンボールで滑ったり......。何をするにしても、身近にある自然なものを利用して、自分たちで工夫して遊んでたわけ」

 和子さんが生まれ育ったのは、戦争の傷跡が残る時代だ。ただ、まだ子供だったこともあり、「終戦後」ということは頭になく、毎日楽しく遊んでいたという。自宅のある平和通りは沖縄随一の商店街として大賑わいだった。

「あの当時、平和通りで手に入らないものはなかったね。路地には闇の両替をするおばさんたちが座っていて、そこでドルを交換してもらえたり、アメリカの闇タバコを売っていたり、いろんなものが揃ってたね。あの当時は一階がお店で二階が住宅というのが多かったから、近くの子供達は一緒の学校に通ってるわけ。当時は住宅にお風呂がある人は少なくて、うちの隣はお風呂屋さんだったから、夕方になると皆入りにくる。銭湯の隣には飲み物をのんだりする小ちゃいお店が必ずあって、そこに皆が集まってゆんたくする。そういう憩いの場があって、隣近所の繋がりがあったんだけど、いつのまにかお店と住宅が別になって、自然と薄れてしまった感じだね」

 平和通りだけでなく、公設市場の繋がりも密だった。どこの店も朝早くから夜遅くまで営業しており、一緒に過ごす時間は家族よりも長かった。行事があれば一緒にやり、子供の結婚が決まれば隣の店主も一緒に着物を選びに行き、子供が生まれればお風呂に入れてあげる。市場の人たちとは家族同然の付き合いで、自分たちは市場の中で育ったようなものだと和子さんは振り返る。そうした環境で育ったこともあり、小さい頃から当たり前のように店を手伝っていた。

「あの当時はガスがなかったから、薪を燃やして昆布をゆがくわけ。那覇周辺には薪がないから、国頭のほうから取り寄せるんだけど、平和通りは朝と昼はクルマが入れなくてね。だから夜中にトラックで運ばれてくるんだけど、うちらも起こされて薪運びを手伝ってた。中学校になると、学校の近くに農連市場があって――農連市場は卸市場で、そこに3軒ぐらい昆布屋があったんですけど――朝早くからそこの手伝いをして中学校へ行く。高校になると、今度は公設市場のお店の手伝いをする。もう部活どころじゃないさ。うちだけじゃなくて、市場の子供達は皆そうだったね。友達が遊びに行ったりしていると、『なんで商売人の子に生まれたんだろうねえ』と思うんだけど、どういうわけか満たされてるわけよ。なぜかというと、親たちも商売人の親としてのやりかたで育ててくれたんでしょうね。だから人を羨ましがることもなかったし、心の贅沢は十分にさせてもらったね」

 小さい頃から昆布店の娘として育った和子さんだが、ずっと不思議に思っていたことがある。それは、祖母の接客ぶりだ。

「あの接客はすごく不思議で、仕入れにきたお兄さんたちに対して、うちのおばあさんは怒鳴っているわけよ。でも、怒鳴られているのに、お客さんは笑っている。なんだろうこの雰囲気はって思ってたね。ふとしたことで『お前!』と怒鳴るんだけど、最後には『これ、持って行きなさい』と余分に昆布を持たせる。自分なんかは『どうしてあんなに怒鳴ってるのに、お客さんが切れないんだろう?』と思ってたけど、必ずどこかでカバーしているわけ。だからお客さんとの繋がりが切れないのよ。それが昔ながらの相対(あいたい)売りなわけ」

 相対売りという言葉は、公設市場を説明するときによく用いられる言葉だ。

「市場に買い物にくるのは常連さんだから、話しているうちに家族のことまで知ってしまうわけ。買い物にきたお客さんに『お母さんは元気ですか』ってところから会話に入る、これが相対売りなんですよ。沖縄ではおまけのことをシーブンと言うんだけど、お客さんのことを叱ったりしても、最後には『シーブン入れといたから、あんたも食べなさい』と言って渡す。こういうやりとりがあるからこそ言えることもあるし、常連さんとの繋がりもできるわけ。相対売りがあるからこそ、行事のときに『ここの昆布じゃないと』と言って、わざわざ買いにきてくれる。普段は100円でもいいから、必要なぶんだけ買ってもらって、買い物のついでにやりとりをする。『今日は100円ぶんしか買わなくてごめんね』、『いやいや、とんでもないですよ』。そういうやりとりを重ねていくから、行事のときに買いにきてもらえるわけ。『今度うちの姪っ子が結婚式するから、連れてきたさ』と言ってくれる。100円の繋がりが何倍にもなるわけ。そうやって常連さんと付き合うためにも、相対売りとシーブンが大事なわけよ」

 扱っている品物や味つけは祖母の代から変わっていないが、和子さんの代で変えたこともある。その一つは、すぐに調理できるよう、細かく割いた昆布やスンシーを販売するようになったことである。

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「これはね、最初から商品にするつもりじゃなかったんです。ある日、自分がおうちに帰って料理をするために、スンシーと昆布を細かく割いて、混ぜて置いておいたのよ。それを見たお客さんが『私、これが欲しい』と言ったのが始まりで、割いておいてあげれば忙しいお客さんは助かるだろうってことで商品化したわけ。でも、うちの母はそれに反対だった。『難儀しながら料理を作るのも楽しみの一つなのに、あんたがそれを取り除いてしまうと、お客さんが自分でやることがなくなっていく』と。あと、母によく言われたのは『あんたはゆんたくが多過ぎる』ということ。私からすると、若い人たちには作り方を説明してあげないと、繋がっていかないわけよ。それで『こういう作り方もありますよ』とお客さんに話していたら、『あんたはお話が長過ぎる、私だったら黙っていてもお客さんが買いにきたのに』と言うわけさ。そうやって私が怒られていたら、あとで隣の店のおばあちゃんがカバーしてくれるわけ。『カーコ、お前は間違ってないから大丈夫さ』と。そうやってお互いに支えあっているのがまちぐゎーだったよ」

 長男の智光さんが昆布店を継いだ今も、和子さんは忙しく働いている。午前中は沖縄の食材を全国各地に届ける流通卸の会社を手伝って、午後は昆布店で働き、夜は夫の信光さんが営む居酒屋で料理を振舞っている。そんなに働きづめでくたびれませんかと訊ねると、「たしかに大変かもしれないけど、でもね、人間っていうのは慣れる」と和子さんは笑う。

「だから、朝は毎日自然に目が覚めるよ。まずは朝ごはんを作って、お父さんと二人で食べる。午前中は食材を発送して、午後は市場で仕事をして、これが終わるとお父さんの店で働く――このスケジュールが身体に染みついてるのよ。周りの人には『忙しくて大変だね』と言われるけど、慣れてしまえばどうってことないね」

 話を聞かせてもらったあとで、和子さんの写真を一枚撮らせてもらった。後日、改めて「山城こんぶ店」を訪れて、プリントした写真を手渡した。しばらく写真を見つめていた和子さんは、「こうして見ると、ずいぶん貫禄が出てきてるみたいだね」と笑った。