16「ゲストハウス柏屋」

 市場界隈はアーケードが張り巡らされている。国際通りから市場本通りを入れば、市場を通り過ぎ、市場中央通りに名前が変わってもアーケードは続くが、浮島通りにぶつかったところで途切れる。かつて那覇は「浮島」と呼ばれており、十五世紀までは名前の通り島だったけれど、のちに埋め立てられて地続きになったのだという。そんな名前を冠した浮島通りに、「ゲストハウス柏屋」はある。

「俺が沖縄にきた頃だと、ここらへんは台湾人の人たちがいっぱい住んでいるところで、中国語をしゃべる子供がかけまわってる光景をよく見ましたよ」。オーナーの関根博史さんは、火鉢に当たりながらそう教えてくれた。博史さんは一九七〇年、東京は秋葉原に生まれた。初めて沖縄を訪れたのは元日で、冬でも我慢すれば海に入ることができて、その暖かさに驚いたという。町の電気屋にコタツやストーブが並んでいるのを目にしても、まさか沖縄の人たちが使っているとは思わなかったそうだ。「でも、身体は環境に慣れるもので、僕も火鉢に当たるようになったし、冬の海には入らなくなりました」と博史さんは笑う。

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「最初にきたのは二十三歳くらいのときで、一週間くらい沖縄にいて、そのままフェリーで台湾にでも行こうかと思ってたんです。でも、何も知らずに沖縄にきてみると、カルチャーショックが大きくて。当時は沖縄にゲストハウスはなくて、最初は連れ込み宿に泊まってたんです。国際通りで道売りの人達――海外で仕入れたアクセサリーや自作のアクセサリーを路上で売ってる人達――に安宿はないかと尋ねたら、十貫瀬という場所を教えてくれて。今はほとんど駐車場になってるけど、あそこはもともとゲットーで、区画整理されてない状態の瓦屋やトタン屋が入り組んで建ってたんです。そこに住んでいる人もいれば、スナックみたいな小さな店もあるし、あちこちに女性が立っていて。そこに一泊二千円で泊まれる連れ込み宿があって、四畳半ぐらいの部屋の真ん中に、キングサイズのベッドがドーンと置いてあって、ほとんどベッドで埋まっていて。赤い裸電球がぶら下がっていて、ティッシュと屑籠だけが置いてあるような部屋だったんだけど、それも面白かったんだよね」

 当初は1週間の滞在で済ませるつもりだったけれど、「とりあえず1年間過ごしてみよう」とアパートを借りることに決めた。アルバイトでお金を稼ぎながら、いろんな場所に遊びに行き、少しずつ沖縄に触れてゆく。

「沖縄はあちこちに良い感じの砂浜があるんだけど、飲み屋さんというのは砂浜から道路を挟んだ向こう側にしかなくて。ビーチの敷地内にバーがあれば、砂浜に寝転んで飲んだりできるようになると思ったわけですよ。でも、砂浜に店を出すには色々制限があるから、車を改造して移動式のバーをやろうと。移動式にすれば、恩納村のビーチや、糸満のジョン万ビーチ、百名海岸、那覇の波の上ビーチ、北谷あたりの人工ビーチと、日替わりでいろんな場所に出せるじゃないですか。そんなことをバイト先で話してたら、常連のおばちゃんが勘違いして、『良い物件があったわよ』と飲み屋の物件を紹介してくれたんですよ。それが桜坂の物件だったもんだから、それはそれで面白そうだなと。当時の桜坂は、十貫瀬と同じで、電柱ごとにおばさんが立ってて、『お兄さん、遊んでかない?』と声をかけられるようなところで。戦後の歓楽街の雰囲気がそのまま残っていて、戦後間もない頃のホステスが今もなおホステスをやっているような店もあって、ちょっと面白そうだなと思ったんです」

 紹介されたのは木造二階建ての瓦屋、焼き鳥屋の居抜き物件だった。十人掛けのカウンターがあり、地面に固定された椅子が並んでいたけれど、そのうち三つは壊れていて、カウンターも腐って途中で崩れている。ボロボロの物件だったけれど、それもまた一興と、博史さんは物件を借りることに決めた。内装を自分で手がけ、桜坂社交街の入り口で「スージーハウス」という名前の飲み屋をスタートさせる。

「沖縄にきて半年くらいでしたけど、商売を始めるからには、一時滞在じゃなくて永住を始めた気持ちになってましたね。店をオープンすると、すぐにお客が一杯くるようになって。椅子が七つじゃ足りないからビールケースを椅子代わりに置いて、それでも足りなくなって立ちのお客が出て。店の中がパンパンになったから、通りに面した場所に焼き台があったんだけど、その焼き台の前にベンチを置いて。そうしているうちに秋になって、日本酒が恋しい時期になって、『日本酒を飲みながら、炙った魚が食いたいね』なんてことで、七輪を持ってきて秋刀魚を焼いてたら、今度は七輪のまわりに人の輪ができたりして。そんな感じの店が他になかったから、すぐに流行りましたね」

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 あまりの繁盛ぶりに驚いたのは大家さんだ。廃墟同然だからと格安で貸したものの、賑わう様子を見て惜しくなったのか、賃貸契約は1年で打ち切られてしまう。同じ桜坂で物件を借りられないかと探してみたけれど、当時の桜坂には再開発の話が持ち上がっていたこともあり、空き家はたくさんあるのに借りられる物件が見つからなかった。しばらくアルバイトで食い扶持を繋いでいたところに、「波の上ビーチの近くに空き店舗がある」という話が転がり込んできた。最初にやりたいと思っていたのは海辺のバーだったこともあり、この物件を契約することに決めた。

「まずは一階を改装してバーとして営業を始めたんだけど、二階の部屋が余ってたんですよ。それをどうしようかと考えたときに、自分が沖縄にきたときも連れ込み宿に泊まるしかなくて苦労したから、だったらゲストハウスにしてしまえと。沖縄で最初にアルバイトしたのがリサイクル屋だったもんで、二段ベッドや布団はもらえたんですよ。『お客さんが使う流し台がこのへんに欲しいな』と思ったら、撤去された流し台をもらってきて、改造して設置して。実家が水道屋なもんだから、水まわりや電気系統は自分でやれるもんだから、手作りで準備したんです。そうやってゲストハウスをオープンするとき、名前なんて何でもよかったんだけど、実家が『柏屋』という屋号でやってたもんだから、ゲストハウスに『柏屋』とつけることにしたんです」

 博史さんは旅行好きではあったものの、バックパッカーを名乗れるほどあちこち出かけた経験があったわけでもないのだという。ただ、海外に「ゲストハウス」と呼ばれる安宿があることは知っていたので、ゲストハウスとして「柏屋」をオープンさせた。その当時――九十年代半ば――の沖縄では、まだ「ゲストハウス」は珍しい存在だった。

「俺が若狭で『柏屋』を始めた次の年に、『月光荘』がオープンしたんですよ。そのあとに、港に近い場所に『沖縄ゲストハウス』ができて、ゲストハウスっていうのはその三店舗しかない時代がしばらくあって。俺らがやっているのを見て、地元の人たちは『一泊千五百円じゃあ利益が上がんないよ』とか、『二段ベッドの相部屋なんて、泊まるやついないよ』と言っていて。そうですかねえ、泊まってもらえたらいいんだけどなあなんて言いながらやってたんですけど、実際に三軒のゲストハウスがうまくいってる様子を見て、物件を持ってる人たちがゲストハウスに改装し始めたんです。『アパートとして貸すと月に三万円にしかならないけど、一つの部屋に六人泊めて千五百円取れば、月に何十万だよ』と。それで一気にゲストハウスが増えたんですよね」

 市場界隈には、ゲストハウスが無数に点在している。那覇市の観光統計によれば、二〇一一年には三十一軒だった那覇市内のゲストハウスは、二〇一六年には四十九軒にまで増加している。沖縄を訪れる観光客は、那覇市を素通りして、綺麗な海を目指して北上することが多かった。でも、この界隈に安く滞在できるゲストハウスが誕生したことで、市場界隈に滞在する旅行客が増え、公設市場が観光地として再発見されたのだろう。「柏屋」は、当初は波の上ビーチにほど近い若狭で営業していたけれど、二年ほど経ったところで現在の場所に移転している。

「若狭で店を始めた頃は、沖縄ではまだゲストハウスが珍しかったこともあって、国際通りで道売りしている子たちが『柏屋ってとこに行けば安く泊まれる』と教えてくれてたみたいなんですよ。あとは船が入る時間に港に行って、タラップから降りてくるお客に『安い宿ありますよ』なんて声をかけてみたりね。当時はバックパッカーが多くて、予定を決めずにきてる人がほとんどだったんですよ。だから『今度、皆でキャンプに行くんだけど』って話になれば、泊まってる子たちは『一緒に行く』となってたんだけど、今はスケジュールがしっかり決まったタイプのお客が増えていて。それで大変なのは農家さんで、さとうきびやパイナップル農家の人たちから『今年も人手を集めたいので、二ヶ月限定で働いてくれる人がいたらよろしくね』と毎年言われて、昔はゲストハウスで募集をかければ『じゃあ俺が行く』って人がいたんだよね。でも、今の子達はチェックインとチェックアウトをきっちり決めてるから、そういう貼り紙があっても反応する人が極端に少なくなってるね」

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 時代が変われば、風景は変わってゆく。市場界隈の移り変わりを、博史さんはどう見つめているのだろう?

「俺自身もいろんな国を旅して、各地の市場に顔を出してみるんだけど、そのときに感じることっていうのはね、まずワクワクするんですよ。だだっ広いところに店がずらりと並んでいて、それぞれの店舗に物がドバーッと並んでいる。俺はワクワクしないと市場じゃないと思ってるんですけど、観光立県を掲げる沖縄のセンターにある公設市場であれば、客がワクワクする場所じゃないと駄目だと思うんですよ。建物というのは三十年、四十年はもつわけだけど、三十年、四十年後の時代がやってきたときに、ナウくないと駄目だと思うんですよ。本当に観光立県を目指すのであれば、この先々にやってくる客が『面白い!』と思える場所になっていくといいとなと思うんですよね」

 「ここから先は、たとえばの話だけど」。そう前置きして、博史さんは三十年、四十年後の未来にふさわしい市場の姿を話してくれた。「お酒を飲みながら、うちに泊まってくれるお客とこんな話をしているのが一日の楽しみですね」。博史さんはそう話を締めくくったけれど、火鉢を囲んでお酒を飲み交わしながら、博史さんが語る未来予想図をいつまでも聞いていたいと思った。