17「大衆串揚げ酒場 足立屋」

 夜も明け切らぬうちから、赤提灯に火がともる。路地を入った角にある「大衆串揚げ酒場 足立屋」は、毎日朝六時から営業している。灯りがつくなり、どこからともなくお客さんがやってきて、お酒を飲み始める。
「朝から一杯になるから、結構忙しいですよ」。ビールを注ぎながら、北夏子さんが教えてくれる。

「世の中には職種も業種もたくさんあるから、夜に仕事をしている人も沢山いて、仕事が終わって朝に飲みたい人も多いと思うんですよね」

「足立屋」のメニューを手に取ると、頭に「東京下町の味」と書かれている。その言葉通り、大書されているのはホッピーセット、電気ブラン、コダマバイスセット、日本橋ビールの四つ、いずれも東京の酒だ。もともと東京で始まったお店だと勘違いされることもあるけれど、「足立屋」は宜野湾で始まったお店で、取締役の當山拓真さんは沖縄出身である。

 足立フーズが経営する「足立屋」は、沖縄県内だけで八店舗を数える。北は名護から南は糸満までお店があり、沖縄市のパークアベニューと呼ばれる通りには「大衆劇場 足立屋」がある。二〇一六年二月にオープンしたこのお店は、屋台村のような佇まいだ。コの字型のカウンターが六つ並んでおり、串揚げ、鉄板焼き、中華など、屋台ごとに特色のあるツマミを出している。その風景は、小さな芝居小屋が並んでいるようにも見える。

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「パークアベニューは、僕が生まれた頃にはシャッター街になってましたね」。そう語る當山さんは一九九〇年生まれ、沖縄市胡屋の出身だ。この一帯はかつてコザと呼ばれていた。コザはかつて基地の街として栄え、米軍相手のバーが数多く存在した街だ。そこで生まれ育った當山さんが大衆酒場を始めたのはなぜだろう?

「中学を卒業したあと、学校に通うよりは仕事をして稼いだ方がいいんじゃないかと思って、十五歳のときに東京に出たんです。十五歳が沖縄で仕事をしようとすると、最低賃金が当時六〇八円だったんですよね。それまで東京に行ったことがあったわけでもないんですけど、母の弟が東京の赤羽に住んでいたので、『東京に行けば時給千円ぐらいはもらえるんじゃないか』と思い描いて上京したんです。でも、まあ現実は全然違いましたね」

 いざ東京に出てみると、時給千円どころか、十五歳の當山さんを雇ってくれる職場すら見つからなかった。それでも根気強く仕事を探していると、半蔵門にある居酒屋で雇ってもらえることになった。都心のオフィス街にあり、放送局やスタジオも隣接するため、大企業の重役や芸能人がお客さんとして訪れることも多かったという。

「そこで働いているうちに居酒屋というものを深く知るようになりましたけど、最初はお客さんに丁寧な接客をするのが飲食店だと思っていたんです。自分も酒場で働いていると、赤羽の大衆酒場のことも気になるようになって。通りかかったときに外から様子を伺っていると、どうも雰囲気が違っていて。お店のおばちゃん達が『何飲むの、早く決めてよ!』と怒ってたりするんだけど、いつも賑わっていたんですよね。丁寧な接客というわけでもないんだけど、だけどお客さんの顔はきちんとおぼえているみたいで、きちんと人間関係ができていて、粋な感じがする。それで大衆酒場のことが気になり始めたんです」

 伯父の家が赤羽にあったことがきっかけとなり、當山さんは大衆酒場に惹かれてゆく。二〇一二年には郷里である沖縄に戻り、アルバイトでお金を貯めてコンテナを借り、北谷で酒場を開店する。店名は「NOW」、広さはわずか二坪だ。オープン翌日、ひとりの男性客がやってきた。聞けば、その男性も近くで大衆酒場を営んでいるのだと言う。その大衆酒場というのが「足立屋」だった。

「その人は永田明さんという人で、足立区出身だから『足立屋』という名前の店を沖縄でされていたんです。ただ、足立区と言っても北千住より赤羽のほうが近かったらしくて、永田さんも赤羽の大衆酒場に通ってたらしいんですよね。それでいつも赤羽の話で盛り上がって。僕も『足立屋』に飲みに行くし、永田さんもよく『NOW』に来てくれてたんです。でも、僕が店を始めた半年後ぐらいに『足立屋』が一回閉店しちゃって。永田さんからは『あの場所で店をやってくれないか』と相談を受けていて、最初はお断りしてたんですけど、沖縄に大衆酒場を浸透させましょうってことで、僕が『足立屋』をやり始めたのが二〇一三年十月四日です」

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 そうして再始動した「足立屋」だが、すぐに繁盛したわけではなかった。「NOW」は二坪だからひとりで切り盛りできたけれど、宜野湾にある「足立屋」は広く、當山さんの弟や「NOW」の常連客に手伝ってもらいながら営業を始めた。最初のうちはお客さんが片手で数えられるほどしかやってこない日もあったけれど、次第に地元のお客さんに浸透してゆく。月商も安定し、従業員も増えてきたところで持ち上がったのが「那覇に店を出そう」という計画だ。

「最初のうちは永田さんとふたりで『那覇で店を出すならどこがいいですかね』と話してたんですけど、不動産情報を見ていたら良い物件が見つかって、それがサンライズなはから一本入った細い筋道にある一〇坪ぐらいのプレハブだったんです。裏路地感もあるし、そこを借りようと思って足を運んでみると、水道も電気も通ってなかったんです。そこに水道と電気を通すには相当なコストがかかると言われて、途方に暮れて。『近くに有名なそば屋さんがあるみたいだから、そばでも食べて帰ろう』と、永田さんとふたりで『田舎そば』に食べに行ってみたら、向かいの物件に『貸します』と書かれてたんです。携帯電話の番号も書いてあったから、すぐに電話して、今の場所で那覇店をスタートすることになったんです」

「那覇店がオープンした頃は、このあたりは夜になると真っ暗で、ほとんどシャッター街でしたよ」。北夏子さんはそう振り返る。彼女は足立フーズの統括部長として仕入れや労務を担いつつ、「大衆串揚げ酒場 足立屋」で働いている。

「私は沖縄出身なんですけど、當山さんは中学の一個上の先輩だったんですよ。そこから私は東京の大学に進んだんですけど、私は大衆酒場というより、クラブとかで遊んでました。それで、結局東京で就職せずに沖縄に戻ってきたんですけど、宜野湾の『足立屋』に飲みに行ってみると、すごく楽しそうだなと思ったんですよね。そこは全席カウンターで、ワイワイ賑やかで、ひとりで飲みにきても寂しくないなと思ったんです。あとは模合のとき。模合っていうのは沖縄に昔からあるんですけど、仲良いメンバがーが集まって、一万円なら一万円ずつ出し合うんです。そこで集まったお金を、今月は私、来月はまた別の誰かが全部もらう。結局はプラマイゼロなんですけど、まとまったお金が必要なときには助かりますし、皆が集まって飲む理由にもなっていて。その模合があるときにも、中学の先輩がお店やってるからってことで、よく『足立屋』を使ってましたね」

 お客さんとして通っているうちに、「足立屋」で働かないかと誘われ、最初はアルバイトとして働き始めた。それからほどなくして、那覇店のオープンが決まる。

「今は飲み屋が増えてますけど、当時はこのあたりに飲み屋なんてなかったんですよ。『せんべろ』なんて言葉は浸透してなかったし、昼から飲む文化もなかったし、立って飲む文化もなくて。沖縄はお酒が好きな人は多いですけど、泡盛をボトルで注文して、畳に座って五、六時間飲む――そんな飲み方が多かったんです。だから、那覇に店を出したときも『沖縄の人は立って飲まないよ』と言われたり、『前払い制はめんどくさい、小銭を持ってこなきゃいけないの?』と言われたりすることも多かったですね」

 最初のうちは閑古鳥が鳴き、隣の「田舎そば」に余った椅子を貸し出すほどだった。ただ、オープンから一ヶ月が経過した頃から、お客さんが増え始める。最初に反応してくれたのは、牧志公設市場から一キロほど離れた場所にある栄町市場で飲み屋を営む人たちだ。当時の「足立屋」は十二時から営業していたこともあり、同業者の人たちが沖縄では珍しい営業形態を面白がってくれて、自分のお店を開ける前に飲みにきてくれるようになったのだという。

「今でこそいろんなお店で飲めますけど、沖縄でホッピーを飲んだことある人なんて、ほとんどいなかったと思いますよ。遠い昔に集団就職で東京に出て、今はこっちに戻ってきてるお客さんが懐かしがって飲むことはありましたけど。ホッピーの〝中〟はキンミヤを使ってますけど、その当時は沖縄の酒屋でホッピーやキンミヤを売っている店なんてなくて、通販で取り寄せてたみたいです。それが今や、キンミヤ焼酎の売り上げは、東京に次いで沖縄が二位らしくて。永田さんや當山さんの考えとしては、『沖縄の人たちがこれまで触れることのなかった東京の商品を引っ張ってきて提供する』っていうことがあるらしくて、最近はバイスサワーも出すようになりましたね」

「足立屋」はホームページを作成していないけれど、口コミで広まり、昼からお酒を飲みたかった人や仕事帰りのサラリーマンで賑わい始める。そうなってくると問題となるのがトイレ。那覇店にはトイレが存在せず、立小便をする客が出始めてしまう。近隣からの苦情もあり、徒歩数十秒の距離にある小さな物件を借りることになった。そこをただトイレだけに使っているのはもったいないということで、ここに那覇二号店となる「大衆角打ち酒場 足立屋」をオープンする。那覇一号店と差別化を図るべく、こちらは洋食のツマミを提供する店としてスタートしている。

「会議をするとき、永田さんと當山さんは完全に客目線なんです」。夏子さんはそう笑う。「ふたりが『こんな店があったら飲みに行きたい』って話をして、それがどんどん形になっていくんです。お店を作るときも、座ったときに机の高さとか、おしぼりの質感とか、そんな話が多いんです。あとはやっぱり、安くて美味しくて、注文が入ればすぐに提供する。それはずっと言ってますね。どこよりも安くないといけないし、どこよりも美味しくないといけないし、料理も早く出して、それでいて粋な店にしよう、と」

 初めて「足立屋」を訪れたときのことを思い出す。壁にはメニューが書かれた短冊がびっしり貼られている。日に焼けた短冊もあれば、最近追加されたのだろう、まだ白さを保った短冊もある。そんな短冊に混じり、「商標登録 足立屋 千ベロ」と書かれた封筒が張り出されていた。探るような気持ちで「千ベロって言葉、商標登録されてるんですね」と尋ねたところ、店員のお兄さんは「いやいや、商標登録しているのは『足立屋です』と笑って、「せんべろって言葉は、中島らもさんのものですから」と口にした。

「せんべろ」とは、「千円でべろべろになれる店」を略した言葉だ。最初は中島らもさんが友人達と使っていた"身内言葉"だったけれど、中島らもさん、担当マネージャーである大村アトムさん、編集者の小堀純さんが飲み歩く連載「"せんべろ"探偵が行く」が二〇〇一年に始まり、今ではいたるところで耳にするようになった。公設市場界隈にも、今ではせんべろの店が溢れている。そこで「せんべろって何ですか?」と尋ねたとき、「千円でべろべろになれるって意味です」と答えてくれるお店は多いだろうけれど、店員さんの口からさらりと「中島らも」という言葉が出てくる店は少ないだろう。「足立屋」のせんべろセットは、お酒三杯にツマミが一品ついて千円だ。

「ここの店を初めて変わったなと感じたのは、私たちが説明しなくても、お客さんから『せんべろでお願いします』と言われたときですね。最近だともう、『とりあえず生で』ぐらいの感じで、『とりあえずせんべろで』と言われますからね。それに関しては、この界隈に一つの文化を定着させたなと思っています。昼飲みっていう文化も定着させたと思うし、立ち飲みっていう文化も定着させたと思います。うちの客単価は千二百円から千三百円ぐらいだから、毎日来てくれる常連のお客さんも多いですね」

「大衆串揚げ酒場 足立屋」がオープンして五年が経とうとしている。この五年のあいだに、市場界隈には数えきれないほど酒場が増えたけれど、當山拓真さんはそれを好ましく思っているという。

「この界隈は、日本全国でも珍しい場所だと思うんです。昼間でも薄暗い路地があって、そこを雨に濡れずに歩くことができる。そこに一軒だけ店があっても駄目だと思うんですよね。酒場がたくさん増えて、個人店が協力しあって今の風景があるってことが伝わると、沖縄の観光名所の一つになってくると思うんです。そういう集合体としての魅力を、半径五キロぐらいの規模で作っていきたいなと。もちろん『酔っ払いが増えるのは不安だ』という方もいらっしゃるとは思うので、モラルを持ってお酒を楽しむお客さんが増えて欲しいですね。今はお店が増えてますけど、それぞれのお店に特徴があるんです。たとえば『足立屋』ではモツ煮込みやはまぐりをツマミにバイスサワーを飲んで、『パーラー小やじ』に移動して日本酒を飲む。そうやってきれいにハシゴ酒を楽しめる街になれば、近隣の方達も納得してくれるし、もっと魅力のある街になるんじゃないかと思います」

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 市場の建て替えを目前に控えた平成最後の春、市場界隈を歩けばいたるところで工事の音を耳にした。路地を抜けて「足立屋」にたどり着き、まだ明るいうちから生ビールを注文する。これから先、市場界隈の風景はどんなふうに変わってゆくのだろう。

 「いろんなことが変わっていくんでしょうけど、この風景はずっと変わらないで欲しいですけどね」。生ビールを運んできてくれた夏子さんが言う。

「なんていうか、五十年とか百年とか、『足立屋』はこのままずっとあり続けて欲しいんですよ。店も続いていて欲しいし、味も変わらないで欲しいし。お客さんも、子供とか孫とか、どんどん代が移り変わったとしても、足立屋に足を運んで欲しい。どこに飲みに行くにしても、『まあ、とりあえず足立屋で』と思ってもらえる店でありたいですね」

 ビールを三杯飲み干して、ごちそうさまでしたと告げて店を去る。これから何軒ハシゴできるだろう。そんなことを考えながら、今日も路地を歩く。