WEB本の雑誌

9月28日(火)

 銀座を営業しながら、9月22日付けの『荒なみ編集部日誌』で荒木が書いた『10年後の「読者」像』の違和感について考えていた。

 彼が言うには「活字離れ」 は憂うことではなく「都市化や進学率の上昇にともない、かつてに比べれば統計的に読者は増加している」と書く。確かにそれはそのとおりで頷ける。

 そして、またネットやメールによって「現在の若者たちほど習慣的に活字を読みかつ書くような若者がこれほど大量に出現した時代っていうのはたぶんなかったはずだ」というのも納得できる。

 ただし、である。
 だから何なんなの?と疑問を感じるのだ。

 なぜなら僕は出版社で働いているからだ。出版社の商品は「活字」ではなく「本」なのだ。どんだけ若者がメールやネットで文章を書こうが読もうが、彼ら彼女らが本を買わなければ、僕らに利益は生まれないのだ。

 たとえば売れない和菓子屋さんに「大丈夫ですよ、砂糖の消費量は戦後史上最高ですから」といったところで何の気休めにならないだろうし、それは酒蔵に対して「アルコールの消費量」を話しても一緒だろう。

 僕が憂いているのは、そういった活字という原材料のことでなく「本離れ」あるいは単刀直入に本が売れないことなのだ。

 そしてもし今後の出版業が「街に溶け込んだ読者(文字を読む人)」を相手にするためにネットや電子媒体を中心にしていくというのであれば、僕はこの業界からきっぱり足を洗うだろう。なぜなら僕は「本」そのものを愛しているのであって、コンテンツがどうこうなんていうのには興味がない。

 僕のこの辺の気分は、編集長の椎名がとっくのとうに『本の雑誌』に書いていた。最後にその部分を引用したい。

「『本の雑誌』を作っているから、やはり活字の未来というものが最終的にはいちばん気になる。個人コンピューター時代を迎えて、活字メディアがそれらの世界に次々に飲み込まれ、紙と活字ではない、机上のディスプレイで、デジタル化された記号文字で雑誌や本を読む時代に本当に切り替わっていってしまうのだろうか。目下の情報記事がしきりにその可能性を語っているけれど、ぼくにはまったく判断も予想のつかない世界だ。
 ひとつだけわかっているのは、雑誌や本がカメラのフィルムからデジタルへの大転換と同じようになっていくのだとしたら、それを機会にぼくは雑誌や本を読むのをきっぱりやめ、どこか北か南のはじっこのほうに行って、海や空などを眺める余生を過ごしたいと思う。」(本の雑誌 2004年2月号)

  僕の場合はまだ余生というほど生きていないし、生活していくために相当必死で働かなければならないので、きっとオヤジと兄貴に頭を下げて、機械屋の修行をすることになるだろう。でも「本」に触れずに働くならば、その方がずっとずっと楽しいはずだ。