【今週はこれを読め! SF編】テクノロジーのなかの自由、祝祭的高揚のなかで暴力的に世界を毀損する

文=牧眞司

  • ハイ・ライズ (創元SF文庫)
  • 『ハイ・ライズ (創元SF文庫)』
    J・G・バラード,村上 博基
    東京創元社
    1,012円(税込)
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 冒頭の情景が印象的だ。主人公のひとりドクター・ラングが、医学部の講義に出かける前に、高層マンション二十五階にある自室のバルコニーで電話帳を燃やした火のそばにすわり、ジャーマン・シェパードの尻肉を食っている。

「講義に出かける前」ということは、マンションの外は平常なのだろう。なのになぜ、彼はわざわざ野蛮な食事をしているのか? そんな場所にとどまっているのか?

 J・G・バラードは1960年代の『沈んだ世界』『燃える世界』『結晶世界』の三部作では地球規模の異変を題材にした。伝統的なSFの分類でみれば「破滅テーマ」だが、バラードが描いたのはむしろ「変容」もしくは「回帰」であり、登場人物は結末で精神的ゴールへと到達する。『ハイ・ライズ』は都市空間が人間の新しい自然となる《テクノロジカル・ランドスケープ》を扱った作品で、『クラッシュ』『コンクリート・アイランド』と併せて三部作をなす。外形的には高層マンションというひとつのコミュニティが荒廃するディストピアのようにみえる。しかし、冒頭のラングが進んでそこにとどまっていることからわかるように、これもまた精神的ゴールなのだ。

 マンションが変貌したきっかけ(というよりも兆候)は、三カ月前、十階にあるプールにアフガンハウンドの溺死体が浮いたことだ。事故とも考えられるが、何者かが腹いせか見せしめのために殺したのかもしれない。犬の飼い主は三十七階に住むテレビ女優だ。四十階あるマンションのうち上層階はペットを飼っている者が多く、いっぽう下層階は幼児がいる家庭が多い。下の階の住民はわがもの顔にふるまう上の階のペットにうんざりしていたし、逆に上の階の住民はプールに小便をする子どもを不快に思っている。

 こうした生活面での軋轢は、やがて精神的な分極化へと発展する。いや、本当は逆なのかもしれない。生活様式が違うから対立するのではなく、たんに住んでいる階というたかだか高さの違いが妄執的に内面化され、互いを攻撃するたてまえとして生活様式の差が持ちだされる。住民たちは近隣の階で結束を促すように、しきりにパーティを開く。やがて対立はエスカレートして、暴力と犯罪、破壊と退行が横行する。機能的に設計された清潔な空間だったマンションが、原始的な穴居以下の水準へ転げおちていく。

 バラードの国イギリスは階級社会だ。いかに空想的設定を用いるSFであっても、それは小説世界に反映される。たとえば、H・G・ウエルズは『タイム・マシン』で八十万年後の人種分化に、貴族階級と労働者階級をグロテスクに拡大/転倒させた。『ハイ・ライズ』の高層マンションは階級社会のパロディのようだ。一階から九階までの低層階は映画技術者やスチュワーデスなどの労働者が暮らし、三十六階から四十階までの高層階は実業家、俳優、野心家の学者などの上流階級が住む。象徴的なのは十階と三十五階にそれぞれプールがあることで、これが地勢的に精神的にマンションを分断している。そのあいだの階の中間層は、医師、弁護士、会計士、税理士といった専門職が多い。

 それぞれの階級を代表するように、物語には三人の主人公がいる。

 冒頭で犬を食べていたドクター・ラングは中層階の住民だ。彼は比較的冷静で当初は傍観的立場にいることが多いが、じつは変貌しゆくマンションの環境に柔軟に適応している。いや、適応というよりも、マンションの状況は彼の精神性と不可分だ。物語の中盤、ラングがマンションを歩みでて駐車場を横切り隣のマンションを見あげるシーンがある。そちらは荒れた様子はないが、ラングはその無表情な建物を威嚇的に感じる。ひるがえって自分のマンションを見れば、あれだけの抗争と荒廃があっても彼にとっては安全と保護の場所なのだ。

 二番目の主人公は、二階に住むテレビプロデューサーのワイルダーだ。彼はこのマンションの状況をドキュメンタリーにしようと考え、ビデオカメラを手にする。しかし番組づくりは口実にすぎず、意識の下では雄峰の登攀とおなじ挑戦心が渦巻いている。マンションのエレベーターは機能しないか、上層階の住民の管理下におかれているため、ワイルダーは自分の脚で階段をあがり、障害を突破していくしかない。

 そして最後の主人公は、マンションの設計者にして最上階のペントハウスに暮らすロイヤルだ。この世界に君臨する人物だが、世界は彼が計画した秩序から逸脱している。ロイヤルはワイルダーの登攀を知っており、彼が自分の階に到達するのを待ち構えている。返り討ちにしようというのか? しかし、それならば先手を打って、上層階の仲間を唆して途中の階でワイルダーを襲撃すればいい。ロイヤルはワイルダーに何かを期待しており、その理由を自分でもわかっていないのかもしれない。

 バラードは無批判に自明化された「ジャンルの文法」や「小説の意味」とは無縁に、独自の文章表現をめざした作家だ。それは独りよがりの前衛ではなく、文化や社会のさまざまな領域でおこなわれている精神活動とつながっており、広く世界へと開かれている。彼が提唱した「外宇宙ではなく内宇宙を探求するSF」は、SFというジャンルのなかに新しいサブジャンルを設けようということではなく、むしろ文学や芸術のより普遍的な潮流のなかでの表現をめざしたものだ。バラードが同時代の、あるいは後続する世代の創作者たちに大きな影響をおよぼしているのもそれゆえだ。

 英米でも、バラードが紹介されはじめた当時の日本でも、因習的な読みかたしか知らぬSFファンのなかには、彼の作品を難解あるいは高尚なものとして敬遠するむきもあった。いま振り返れば、そういうひとたちはいったい何を読んでいたのだろうとむしろ微笑ましくなる。難解どころかバラードはわかりやすい。なにしろ作品中で、その作品の成りたちをはっきりと示しているのだから。

『ハイ・ライズ』でいえば、ラングの隣人である精神科医エイドリアン・タルボットがこんな発言をしている。

われわれがみなしあわせな原始状態に向かっていると考えるのは間違いだぞ。どうやらこのばあいは、堂々たる野蛮というよりは、あの甘やかされた排泄訓練、献身的母乳、親の情愛----わがヴィクトリアン朝期の祖先の知らぬ危険な組み合わせだ----に毒された、われわれの、よもや無邪気ではない、フロイト以後の自我、といえるようだ。わが隣人たちは、ひとりのこらずしあわせな幼児期をすごしながら、腹を立てている。きっと屈折するチャンスをあたえられなかったことの不満が......

 じゅうぶんに愛されているゆえの怒り。満ちたりているがゆえの不満。高層マンションの生活は完璧だからこそ、それを毀損しつくさなければならない。この物語は暴力と退廃のなかで、たぎるような祝祭性が立ちあがる。

 いっぽう、ラング自身はこんなことを考えている。

真に必要なものは、あとであらわれてくるのかもしれない。高層住宅での生活が、つまらなく、無感動になればなるほど、そのもたらす可能性はいっそう大きなものになる。住人たちをささえる社会構造を維持する仕事は、高層住宅がまさにその機能性によってひきうけてしまう。それによってはじめて、あらゆる反社会的行為を抑える必要はとり払われ、人々はどんな異常な、どんな気まぐれな衝動にしたがうも自由になる。(略)多くの点で高層住宅は、テクノロジーが真に〈自由〉な精神病理学の発現をどこまで可能にするかという見本であった。

 もちろん、ここでいう〈自由〉が市民社会的規範のなかでの自由でないことは明白だ。もっと本質的な自由へ、バラードは読者を導いてしまう。

(牧眞司)

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