【今週はこれを読め! SF編】星新一も認めた独創性。体温がある文体と作品に包含された謎。

文=牧眞司

  • 花火: ショートショート・セレクションI (光文社文庫)
  • 『花火: ショートショート・セレクションI (光文社文庫)』
    遊, 江坂
    光文社
    594円(税込)
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 江坂遊の傑作集が出た! 待ち望んでいたかたも多いだろう。江坂さんは「星新一ショートショートコンテスト」からデビューした。このコンテストを足がかりとして作家になったひとはほかに何人もいるが、星新一が「直弟子」と認めたのは江坂遊ただひとりだ。

 ただし、本書の「解説」で太田忠司さんが強調しているように、江坂遊の作風は星新一とは異なっている。かつて星さんは、あるインタビューで「SF作家で最も親しい人」と問われて「小松左京。作風が私と正反対なところが、うまのあう点でしょう。同じ傾向となると、ライバル意識が出てきて、そうは親しくなれないでしょう」と答えた。同じショートショートでも作風が違い、自分と違ったオリジナリティがあるからこそ江坂遊に期待したのだろう。ちなみに、江坂遊のコンテスト応募作「花火」に対し、星さんは「第一印象がよく、読みかえすうちに、ますます心がひかれた。私が東京生まれで関西弁に弱いということを割引いても、ぬきんでている。シュールなイメージで、私にはこういうものが書けないということもある」とコメントしている。

 その「花火」が、こんかいの傑作選の表題作だ。警察の取調室で、警部が老人に話しかける場面からはじまる。老人は犯人だろうか? 事件の参考人だろうか? 警部は自分より年輩の相手にむかって「なぁ、おっさん」とくだけた口ぶりで話しかけており、それから察するに老人はたんなる目撃者ではなさそうだ。それにしても、警部が語るのは四十年前、自分が子どもだったころの追想であって、およそ取調室とは似合わない。

 しかし、流れるような関西弁の調子に乗って、読者は少年時代の夜店の情景へ誘いこまれてしまう。

 おっさん、覚えとるか、あの頃、売っとったもん。綿菓子やろ、黒パンなぁ。試験管の子分みたいなもんに入っとった、水に色付けただけの飲みもん、あれは、今から考えたら、身体に大丈夫やったんやろか。ぽんせんべいな。今では口が肥えてもてて、あんなもん到底旨ないやろなぁ。まぁ、そんなん売る店がずらぁと並んどった。その並びのすみっこの方に、ちょっと間隔あけて、ひとつの店があった。

 なんというリズム、まさに話芸だ。

 星新一の透明で乾いたスタイルに対し、江坂遊はしっとりした体温がある。

 そのすみっこにある店は提灯に「花火」と書いてあるものの、花火らしいものはひとつも置いていない。いぶかしく思う語り手は「花火は芸術」と主張する店主の話につきあうはめになる。この台詞がまた名調子だ。そして、店主はやおら、珍しい花火を披露する。この場面、星さんが「シュールなイメージ」といったとおりだ。イナガキタルホ的奇想というか、ブラッドベリ的な少年の憧憬というか。

 そのあとに、もう一段階のひねりが加わって読者の意表を突く。オチがついて終わりではなく、読者の目の前にぽっかりと謎を残す小説だ。まるで花火の残像のように。ショートショートのオチを明かすのは御法度なのでそれ以上はいえないのだけど、そもそもこの警部が事情聴取をしていた事件とは何なのだろう? そして、それは花火と関係があるのだろうか? 

 江坂作品にはオチはオチとしてきれいにつくが、作品全体として謎が包含されたまま読者に委ねられることがけっこうある。それは解釈の余地なのか、ひょっとすると注意深く読めば正解が見えてくるのか、それともわからないことも含めて江坂ワールドなのか。

 本書の収録作について、ぼくが気にかかっている謎を列挙しておこう(オチをわらないように気をつけて書いています)。

○「秋」のいちばん最後の文章で「まだ」とあるのは、どういうことか?
○「新しい店」のラストシーン。会長はなぜそこにいたのか? あるいは、どうやってその店へ入ることができたのか?
○「飛蝗の爺さん」では、過去の強盗事件が語られる。この強盗は、誰がどのようにして捕まえたのか? 捕まえることができた事情にボックスの中身は関係しているのか?
○「タイムミシン」で、語り手はママの素性を突きとめる。ママがパパと結婚したことはその素性と関係があるのか? パパはそれを知っているのか?
○「白い耳」は、電話がかかってくる場面からはじまる。この電話をかけてきた相手と、ラストシーンとは関係があるのか?
○「温かい椅子」。Kさんがくれた「三本のサイダー、四本の牛乳、コップにセンヌキ」はどんな意味があるのか? あるいはないのか?

 以上、作品をお読みになってこれぞという答が導きだせたかたは、こっそり教えてください。

 さて、江坂遊の話芸のサンプルをもうひとつ。「たまご売り」という作品の冒頭だ。

「なりはびんぼうで汚れていても、
 売ってるたまごは天下一。
 たまごー、たまご、たまご売り。
 ごっつおー、ごっつお、うみたてたまご」
「まあ、珍しい。たまご売りが来てるがな。いくこ、いくこ、早(は)よう行ってきて、洗面器一杯にたまご買うてきて」
「ええよ、お母ちゃん、退屈で退屈でしゃーなかったから丁度ええねん」
「たまご割らんと持って帰ってきいや」
「分かってるて、そんなもん。うるさいお母ちゃんやな。おっちゃん、たまごまだあるかぁ」
「かいらしいお嬢ちゃんやなぁ、まだまだたまごあるで」
「おっちゃんとこは、はやってないんか」
「いいたいこといいよるな」
「ここに山盛り積み上げてんか」
「おおきに。この中やな。しやけどぼこぼこやな」
「これで弟の頭をなぐるよってに」
「えらい荒っぽいな」
「そういう時は、元気なお子さんでというもんや」

 まさしく落語の呼吸である。この作品は地の文がなく、台詞だけで成立している。わざとらしい説明なしでも、だれがしゃべっているのか、どこで場面転換がなされたかちゃんとわかる。

 たまご売りはいくこが持参した洗面器に卵を入れていくが、途中でひとつ「このたまごはどけとこか」と脇へよける。それを見とがめたいくこが詮索をはじめ、たまご売りは適当にはぐらかそうとするのだが、けっきょくは少女のしつこさに音をあげて秘密を明かす。ふたりのかけあいがじつに楽しい。

(牧眞司)

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