【今週はこれを読め! SF編】筒井康隆のシャバドゥビから、宇宙駆ける仏寺スペースオペラまで

文=牧眞司

  • プロジェクト:シャーロック (年刊日本SF傑作選) (創元SF文庫)
  • 『プロジェクト:シャーロック (年刊日本SF傑作選) (創元SF文庫)』
    東京創元社
    1,404円(税込)
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 年刊日本SF傑作選の十一冊目。
 ぼくがこのアンソロジーを楽しみにしている理由のひとつ(もっとも大きなひとつ)は、ジャンル作品以外の「こんな小説を書くひとがいたんだ!」という出逢いだ。本書のなかでは「山の同窓会」を書いた彩瀬まる。

 ありふれた同窓会の雰囲気だが、はしばしに異様な言葉があらわれる。「クラスでまだ一回も卵をつくっていないのは、ニウラを入れて三人だって」「より衰弱の進んだひと、より山に還る日が近い人ほど美しく見える」「乳母とは、大体一クラスに一人ぐらいの確率で生まれる卵の世話係のことだ」......。読み進むうちに、この世界と異なった生殖システムのうえに築かれた社会だとわかってくる。男女の性意識も異なっており、ひとことでいえば穏やかだ。しかし、だから平穏とも限らない。この作中世界ではほとんどの女性は卵をつくる本能を備えているが、主人公のニウラはそれがない。また、乳母でもない(乳母は乳腺が発達する)。まわりはそれを不思議に思ってそう口にするが、この世界ではそれがハラスメントというわけでもない。ただ、ニウラ自身は、三回の卵を産み終えてこの世を去って行く友だちを見送る、そこはかとない寂寥感がある。しかし、その感情が直接に描かれるわけではなく、たんたんとした叙述のなかに立ちのぼるのだ。この文章が非常にうまい。さらに興味深いのは、先述したように乳母になる者のほか、わずかながら海獣になる者もいる(海獣になるのは男性だけかもしれないが明示はされない)。異形だが、海獣には海獣なりの役割があるらしい。ニウラは、海獣がうらやましいと思う。

 クライマックスで、忍びよってくる環境変化のなか、ニウラにも種を生存させるための役割があるのではないかとの考えに行きつくのだが、ニウラはそこで「どちらでもいい」と考えるのをやめる。種族という巨視的なスケールへと繰りあがることなく、しずかに世界を見つめる諦念が沁みる作品だ。

 非ジャンル作品では小田雅久仁「髪禍」も面白い。日本ファンタジーノベル大賞でデビューした作家なので、これまでに発表した二長篇は両方読んでいるが、「髪禍」は予想を遙かに超えた展開と密度の衝撃作だった。くいつめた女が法外な報酬に引かれて、新興宗教「惟髪(かんながら)天道会」の行事に参加する。徐々に不穏さが高まっていく導入から、いよいよ行事がはじまって繰り広げられる地獄図絵、その先に待ちうけるもの......さながら悪夢のジェットコースターだが、あまりに突きぬけすぎて、読んでいるうちに脳内物質が出てくる。非常にヤバい。

 ミステリ方面では、我孫子武丸が「プロジェクト:シャーロック」で登場。これが本書の表題になっている。犯罪捜査に特化したAIを主題とする物語だ。もともとは警視庁職員の木崎が趣味でつくった「帰納推理エンジン」だったが、ソースコードをパブリックドメインにし、だれでも参加できるようにしたことで、「家にあったパイをふたりの娘のうちどちらが食べたか?」くらいの謎ならかなりの精度で解けるようになった。AIはシャーロックと呼ばれる。しかし、もとの開発者だった木崎が何者かに殺害されたことで、事態は急展開する。木崎のPCの深奥にこんな書きつけが残されていたのだ。「まさにあれは『パンドラの箱』なのかもしれない」。この作品が面白いのは、シャーロックが万能型の名探偵ではなく帰納的に推理するエンジンだという点(あらかじめ被疑者の母集団が与えられないと解けない)と、シャーロックの開発が犯罪を引きおこしてしまう逆説だ。推理小説愛好家が冗談のようにいう「名探偵がいるから事件が起きる」が、ネット文化を媒介に現実化してしまうのだ。

 SFプロパーでは、第一世代から新鋭まで、とりどりの作品がひしめく。

 筒井康隆「漸然山脈」がまったく衰えぬどころか、段段よくなる法華の太鼓ともいうべき、シャバドゥビドゥバの言語遊戯なのに対し、眉村卓「逃亡老人」がこのごろ得意としている私ファンタジーのなかでも、枯淡の味わいに達しており、好対照。

 良い味出している点では、横田順彌「東京タワーの潜水夫」も負けてはいない。カミ《ルーフォック・オルメス》のパスティーシュであり、言葉遊びを含めた落語的話芸が楽しめる。

 デビュー順でいうと、次が山尾悠子(1975年デビュー)、新井素子(1977年)となる。どちらも自分のペースで書きたいものを書く作家で、ファンの期待をけっして裏切らない。

 山尾悠子「親水性について」は、先ごろこの欄で取りあげた『飛ぶ孔雀』(http://www.webdoku.jp/newshz/maki/2018/05/22/161912.html)とも共通する、バシュラール的想像力の横溢するシュルレアリスム。街のような巨大な船から繰り返し脱走する姉と、それを連れ戻しにくる妹。逃げた先に広がる景観は、終末後の変貌した世界のようでもあり、幻想の地誌に登場する異郷のようでもある。

 新井素子「階段落ち人生」は、大怪我をしてもすぐに快復してしまう特異体質の「あたし」の一人称で綴られる。あたしはちょっとストーカー気質で、自分を振った男を追っているうちに階段から落ちて......と、残念なはじまりかただが、からりとした新井文体なのでまったく嫌味がない。そこに、この世の"亀裂"を見る力を持つ男が絡んできて、これがスティーヴン・キングの小説だったら社会を震撼させる展開がはじまるが、もちろんそんなことにはならない。波瀾はあっても、ほのぼのとしたところに収まるのでご安心を。

 プロパーSFから出てきて、いまなお日本SFの最前線を牽引しながらSFにとどまらない広範な評価を獲得しているのが、上田早夕里であり円城塔であり宮内悠介だ。

 上田早夕里「ルーシィ、月、星、太陽」は、長大な地球史《オーシャン・クロニクル》の(いまのところ)もっとも遠未来の時点の物語。深海に暮らす彼女は鰓で呼吸し海底の堆積物から栄養を摂取する生物である。光に導かれるようにして厚い氷の外へと顔を出すと、そこにはまったく知らない世界が待ちうけていた。アーシャと名乗る声に導かれ、彼女はプリムという名前を得、旧人類がたどった運命を知る。プリムは感情においても社会行動においても旧人類とまったく異なる存在だが、旧人類から何かを託されていたのだ。大きなヴィジョンを背景に限定された生を描く。上田SFの真骨頂だろう。

 円城塔「Shadow.net」は、攻殻機動隊トリビュート・アンソロジーに発表された作品。監視システムの一端をなす「わたし」の一人称で語りはじめられ、全体的な状況は読者には伝えられない。わたしは機能に特化したかたちで存在している。かつて生身の人間だったらしいが、脳の部位が失われたことでシステムとして生きることになった。作戦のさなかで、わたしは「わたしであること」がどういうことかを問うようになる。お得意の再帰的な構造の小説だ。

 宮内悠介「ディレイ・エフェクト」は、芥川賞候補にあがった作品。すでにこれを表題作をする作品集が出ているのでお読みになったかたも多いだろう。2020年の東京に、突然、1944年の東京が幻影のように重なる。姿と音ははっきり感じられるが、電子的・光学的には記録できない。語り手のわたしの家では、わたしの家族と、曾祖父の代の家族が同居している感覚だ。ふたつの時代の月日時刻が同期しているため、同じように季節がめぐっていく。戦時中の困窮した暮らしがつねに目の前にあり、このまま時が進んで1945年になれば東京大空襲がくる。2020年に物理的影響はないが、むごたらしい惨劇は子ども心に傷を与えるだろう。そのため疎開する家庭もあり、わたしの妻もそう主張するのだが、わたしは娘に見せたいと思っている。そのいっぽうで、2020年の世相も息苦しい。国会議事堂の前には反政権デモがおこなわれている。戦前の多くの日本人も、けっして戦争を望んでいたわけではない。しかし、引き返すことはできなかった。その「引き返せない」感覚は、2020年も日常のいたるところにある。「ディレイ・エフェクト」はミステリ的な仕掛けのある作品だが、その仕掛けが解けて終わりではなく、提起された謎が現実(読者のいるこちら側)へ裏返ってくる。宮内作品が、SFファンだけではなく文学読者に広く支持されるゆえんだ。

 そして上田、円城、宮内に並ぶ勢いなのが小川哲だ。デビュー二作目の『ゲームの王国』で、日本SF大賞と山本周五郎賞を受賞。このアンソロジーに採られた「最後の不良」は、軽いタッチながら、現代的なテーマの傑作。桃山はカルチャー誌の編集者だったが、「流行をやめよう」をスローガンとするMLS(ミニマル・ライフスタイル)運動によって職を失う。流行は「目立ちたい」欲求の発露であり、現代は、その価値観自体が否定され、実直・本音・透明化が是とされる社会なのだ。しかし、桃山はそれに叛旗を翻して、ひとり古典的な不良を演じる。無駄に装飾した改造バイク。かえってスピードが出ないが、風に逆らってカットバす。意味不明の漢字を背負った特攻服。ダサい、あまりにダサイが、そのダサさが己の証明だ。痛烈なユーモアだが、もちろん小川哲作品なので一筋縄ではいかない。MLSの裏に隠された真相とは......? 多様性をうたいながら均質化する社会、個性を追求しているつもりが無個性になるひとびと、そして無自覚なままにしていく状況が、アイロニカルに描きだされる。。

 宮内悠介を輩出した創元SF短編賞は「当たり」(すなわちデビュー後もコンスタントに作品を発表する作家の割合)が多いことで知られるが、このアンソロジーにも松崎有理と酉島伝法が登場。

 松崎有理「惑星Xの憂鬱」は、天文学上・宇宙開発事業上の冥王星の扱いとパラレルに、メイと名づけられた男の子の人生が綴られる。冥王星を象徴にした感動話かと思って読み進むと、後半に「冥王星の権利を守る会」なる地下組織があらわれ、思いもよらぬ方向へと物語が転がっていく。

 酉島伝法「彗星狩り」は、この作家のトレードマークともいえる異様語彙・異様生態のポストヒューマンSF。彗星に取りついて資源を採掘するのだが、それが大人にとっては事業だが、子どもにとっては祝祭のようでもある。たとえば、親の手伝いで採掘島へいったミクグとラクグ。


 ふたりが岩肌に沿って漂っていき、老ゾリマのいる窪み側にまわり込むと、同心円状に掘られた採掘場のあちこちに、垂直に丈高い擬挺目(ぎていもく)の砕(さい)が座し、長大な頭胸部を上下させて地面を穿っていた。その周囲には擬俄(ぎが)族の採掘人たちが瑰石(かいせき)や瑾礫(きんれき)の塊を引っ張って宙を行き交っている。
"ほい"と言われて振り向いたが、老ゾリマは直立したまま動かない。なんだろうと思っていると、ゆっくりとこちらに拳を向けはじめた。関節がだめになっているらしく、動きがとても遅い。ひねこびた汞管(こうかん)が幾本も絡みつく四本の指が開くと、深い線条(すじ)の走る掌に翠色の結晶が幾つも乗っていた。
"甘亂(かんらん)だ"
"いいの?"
"いま掘り返したばかりだから、雑(ま)ざりものは多かろうがな"


 ミクグとラクグにとって甘亂はお菓子のようなものだ。彼らは鉱物を食べるのである。この作品は、見慣れぬ光景が次々に描かれるものの、あくまでも瑞々しい少年小説だ。

 このアンソロジーに登場したなかでの最年少は伴名練(1988年生まれ)。しかしデビューは2010年だから、もう中堅といっていいだろう。寡作ながら、書く作品書く作品、技巧を凝らしたハイレベルで、一部の読者からはカルト的といってもいい支持を集めている。「ホーリーアイアンメイデン」は、亡くなった妹から姉のもとへ、間隔を置いて順番に手紙が届く。読者はその書面だけをたどって、姉妹のあいだに何が起こったのかを理解する。時代背景は太平洋戦争末期で、その当時の女学生の書くしっとりとした文章から、切ない葛藤と秘めた情念が立ちのぼる。中核にあるアイデアは、姉の持つ不思議な能力だが、それが改変歴史の引きがねともなり、テーマ的には自由意志の問題を掘りおこす。

 このアンソロジーはマンガにも目を向けており、この巻では加藤元浩「鉱区A−11」が選ばれている。人間がたった一人しかいない小惑星で、作業員が殺された。容疑者として考えられるのはロボットだが、三原則によって縛られているロボットに殺人はできない。アシモフの初期作品そのままのシチュエーションで、解決もまたアシモフばりにロジカルだ。絵柄もおとなしく、懐かしい感じがする。

 このアンソロジーのトリを飾るのが創元SF短編賞受賞作、八島游舷「天駆せよ法勝寺」。なんと仏教スペースオペラ! 寺がそのまんまスターシップになって、宇宙構造を示す曼荼羅を頼りに、救いを求める衆生が暮らす持双星を目ざす。物語にひねりはなく、とにかく仏法問答を繰り返しながら、苦難の宇宙航路を越えていく。

 こんかいの創元SF短編賞ゲスト審査員の新井素子さんは、この作品について「もう、仏教をSFアイテムにしちゃった作者の勝利としか、言いようがない」「こんなことを書かれちゃうと、も、物理法則なんかどうでもよくなって、気持ちとして、『あ、そーですか』って言うしかない」とおっしゃっている。そのとおりだと、ぼくも思う。

(牧眞司)

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